保護観察対象αについてのログ
綾波 宗水
case1-X
彼女が「お花見してみたいな」と呟くのは今日でついに7度目だ。きっと小説か何かで知ったのだろう。こうなったアカネの意識を別の方向へと向けるのはかなり難しい。幸いにして、僕と二人きりという生活にはどうやら満足してくれているらしいが、それでも、育ち盛りの彼女にとっては、楽園であろうとも、それは閉鎖空間であり、退屈という悪魔がそっと囁いてくる。ここを出ろ、と。
「確かに、僕も物心ついてからしたこと無いな」
悲しげに「……何十年も?」と真顔で聞く。彼女の目に映る僕はそんなに老けているのか。
「いつか二人で行こう」
「でもね、でもね、サクラってすぐに散っちゃうらしいよ。日本人の魂みたいだって……お外、ってどんなのかな」
アカネは、外を知らない。正確に言うと、外の記憶を今は持たない。彼女にしてみれば、生まれてからずっと僕とこの部屋で過ごし続けているという事になる。
だからかもしれないが、アカネは僕のことを呼びはしない。父でもなければ、恋人でもない。兄妹でも、親戚でもない男。それに他の人が居ないのだから、わざわざ人称を付けずとも伝わる。
対人だけじゃない、自分のこともよく分かっていないと思う。彼女の容姿は、ショートボブで年中、ワンピース姿。年齢は既に17歳。だが、口調やふとした仕草はまだまだ幼い。空調が年中、行き届いた無菌室のなかで、彼女は大人というものを知らずに日々だけを見送っている。あるいは僕自身も――――――。
彼女がまだ“アカネ”ではなく、そして僕がまだ同居人でなかった頃、その少女はプログラム技能士養育施設で過ごしていた。親のいない少女は、今とはまた違う類の鳥籠の中で日々を送る。
元来、落ち着いた性格だったが、周囲から浮いているわけではない。そもそもそこに周囲や世間といった価値観が乏しいのも幸いしたのだろう。目立った交友はないまでも、その日のノルマよりも少し多く機械言語を打ち込む毎日だった。
「どうしたの? お花見やだだった?」
気付くとアカネの顔がすぐ目の前に。相変わらずキメの細かい色白な頬と、それに負けじと主張する大きな瞳がまっすぐこちらへ向けられる。もしも僕らが恋仲だったなら、彼女の骨が軋む寸前の強さで抱きしめてあげたい。
「そんなことないよ、きっとしようね」
とっさに出たその言葉を、気休めか願掛けか、いずれに分類すればいいか僕には判断できないまま、その話はうやむやになった。今日の夕食のレーションはバナナ味らしい。定刻きっかりに差し上げると、さくさくと音をたてて、独り彼女は頬張る。
保護観察、というのは名目に過ぎない。こうして彼女が陽の目も見ずに、毎日を同じように僕と二人きりで繰り返さないといけなくなったのは、物心がついてほんのわずかの年に
<少年β>はそこでは珍しくマジョリティよりの気質の持ち主で、時折ちょっかいをかけたりする子だった。ある日、アカネは組み上げたアルゴリズムを、彼に盗まれ、隠された。
まるで園児が積み木を壊されたようにショックを受けたアカネは、その腹いせに、ナポリステオン刑務所の鍵を遠隔で開錠。いわゆるハッキングがなされた刑務所では、突然、全フロアが解放され、街自体が一時的に隔離しなくてはならない大騒ぎに。
犯人は十代の天才少女。政府が隠す超能力者の施設では、と言い出したジャーナリストも中にはいた。
瞬く間にニュースは世界的に飛び交い、その責任を問われた当時の施設長は更迭、βは矯正、アカネは保護観察、と決まった。だが、施設内では平均より少し上の存在であったとしても、世界にとっては石油、核に次ぐ第三の兵器に思われた。
彼女の頭脳やその存在を求める人間は社会の表裏を問わず現れ、ついに彼女の保護観察は、完全隔離という形を取ることで、一旦の終息を見せる。
「明日は浮上の日だから、その時に少し見せてあげるよ」
「ほんとに!」
彼女は僕を撫で、更にはキスまでしてきた。自然とファンが唸る。相当、憧れがあったのだろう。外部へのアクセスはその際にのみ限られている。
一週間単位でレーションや日用品が届けられる。明日はその日なのだ。普段は電波も遮られているが、浮上した間であればわずかだが、何とかできるだろう。必要とあらば僕が録画をどこかから引っ張ればいい。せめてここではアカネに辛い思いをしてほしくない。そのために僕はここに居る。
この二人きりの
いざとなれば僕は彼女を選ぶつもりだ。
自己学習判断型AIであり、潜水艇の一切を統括する、彼女の生命維持装置である僕が。
そのプログラムの原案を彼女が造ったとも知らずに、彼らは運用している。僕は彼女の体温を知っている。優しさをしっている。未来を
問題は、僕が世間のネットワークに通じるのがわずか数分。そこでの情報の入手は、本気を出せば何兆もの数になる。だが、陸では日夜新たな技術革新がなされようとしている。
いずれは第二のアカネが現れて、第二の僕が生まれる。すると、もう僕はそのコンピュータの制御下にいるようなもの。“お花見”すら検閲されてしまうだろう。
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