「何かわかりましたか? ブラシの行方について」

 翌朝、食堂で向かいに座ったスマイリーにそんなことを訊かれた。首を横に振ると、スマイリーはスプーンを食べ終えた皿の中に置く。

「奇術だとさ」

「ヒギンズさん。種も仕掛けもわからないものは、奇術じゃないんですよ」

 じゃあ、あれは何なんだ? そう考えていると、スマイリーはそっとぼくの手を両手で包み込んだ。

「ねえ。あなた、ハリー・ハットンは塀の外で一体何を消したと思いますか?」

「トランプとか鳩じゃないのか」

「証拠ですよ」

「証拠?」

「色んな国が血眼になって探しているんですよ。書類、テープレコーダー、人……」

 ぼくはあやうくスープを戻しそうになった。 

「人って」

「その通りの意味ですよ」

「サーカスで働いてたんじゃなかったのか?」

 食事時間終了のブザーが鳴った。囚人たちが立ち上がり、器を片付けはじめる。

 ぼくはスマイリーを置いて、刑務作業へ並ぶ列に向かう。後ろから声を掛けられる。

「あなたも気をつけたほうがいい。なんせ、彼が消したものは何ひとつ見つかっていないんですから」

 ぼくは返事をしなかった。スマイリーは何か、不審だった。看守を買収したという話なら、別に珍しくもなんともない。でも、動きが速すぎる。それに、ハリーについてなんでそこまで知っているのかも分からなかった。

 それより怖いのはハリーだった。

 スマイリーの言う通りだ。消したものが戻らない奇術なんて、奇術とは言えないだろう。しかも、人間を消した?

 あの〈不可知のひと触れ〉が全身を覆いつくすところを想像して、ぼくは身震いした。

 しかし、ハリーはぼくの気など知らず、毎日こっちのベッドに潜り込んで来ては何かを消して見せてくるのだった。おとといはクロッキーノート、きのうは肌着、きょうはマヌケそうな犬の写真。どうしてそんなに物を持っているのかわからない。

 それが済むと、決まってべたべたとハグをしてきた。

 抗ったらぼくも消されるのではないかと思って、最初のうちはされるがままに任せていた。入浴をしてもしなくても、においはあまり変わらないのだということが分かった。

 そのうち、ぼくは致命的な勘違いをした。こいつにはある種の目的があるのだと思ったのだ。

 応えようとした。こわかったし、覚えがないわけでもなかった。しかし、何をしてもハリーは〈機能的〉な状態にはならなかった。顔を上げてみれば、ハリーはなにをしているのかと不思議そうな顔でこちらを見下ろしていた。

 ぼくは恐怖も忘れ、詳しく話を聞いた。分かったのは、こいつはどうやら発情期というものをどこかに置き忘れてきたらしい、ということだった。

 それですべてが馬鹿らしくなり、消されることへの恐怖もどこかに行ってしまった。要は、諦めと適応だ。

 こいつは、としみじみ思った。……およそ見たこともない珍獣なのだ。肉が食いたくてたまらないライオンのほうがまだマシだ。理解できるから。

 そんなやつと同じ檻で寝なければいけないのだから、消されるときは本当に、うっかり消されるんだろう。うっかりで消されるのであれば、もうそれは仕方がない。天命というものだろう。

 それに、消されたあとのものがどうなるのかはわからないじゃないか。見つかっていないというのが気になるところだったが、こいつの能天気さを見れば末路もたかが知れている。ひょっとしたら、ここよりマシなところに行けるかもしれない。

 なあ、ハリー。あんたは生きてるものも盗めるのか?

 ある夜、念の為の確認と思って、そう訊ねてみた。

 うん。でも、生きてるものに奇術を使うのは、そうするしかないときだけだ。

 本当かよ、と思った。何せいいと思ったブラシをうっかり「消す」手癖の悪さを目撃しているのだ。信じろという方が無理がある。

 じゃあさ……盗んだ生き物はそのあとどうなるんだ。

 ハリーがぼくから身体を離して、起き上がる。暗がりの中で、やつの身体がくろぐろとした影絵のように見えた。

 そんなに気になる?

 得体のしれない恐怖に囚われて、ぼくは寝返りをうつ。

 いや、いい。

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