狐の嫁入り

 厳しい冬も少し和らぎ、長屋に生えている梅もぽつぽつと花を付けはじめた頃である。

 火車の騒動に続いて、吉原の指切り騒動まで解決したせいか、やはり史郎への妖怪退治の相談は途絶えることはなかった。

 瓦版屋にも「妖怪の面白おかしい記事で、なるべくおかみに怒られない範囲のものが欲しい」と言われては閉口し、やってくる妖怪騒動やってくる妖怪騒動のほとんどが、特に妖怪やもののけのしわざでもないため、やはり史郎は嫌そうな顔をしていた。


「勘弁してくれ……そろそろ立春だ。暦の用意ができねえだろうが」

「先生、お疲れ様です。でもなかなか本格的な妖怪退治の依頼は来ませんね?」

「当たり前だ。そう簡単に妖怪なんていてたまるかよ」


 先日の顔の腫れも、三日間腫れぼったくなってしまっていたものの、見事に治り、椿はそれからも甲斐甲斐しく史郎の世話をしていた。しかし彼女は史郎が妖怪退治する現場を見るのを、全く諦めていないのだった。


(これはこちらをからかっているのか、それともわざわざ土佐から家出してきた理由があるのか……まさか本当の本当に俺が妖怪退治できるなんて思っちゃいないだろうなあ……)


 既に数ヶ月ばかり一緒の部屋でご飯を食べ、生活をしているものの、椿のことは史郎はなんにもわからないままである。

 今日もお惣菜屋まで朝餉を買いに出かけようとしたときだった。戸を開いた途端に「わあっ!」と悲鳴を上げて腰を抜かす者が現れた。

 最近長屋に越してきた、植木屋の諭吉である。


「おはよう、すまんね。これから朝餉を買いに行くんだよ」

「あ、ああ……なら朝餉をおごるから……話をひとつ聞いちゃくれないかい? 仕事前でいいから……」


 諭吉はカタカタと震えている。諭吉は働き者であり、植物に詳しい。史郎が野草で民間薬をつくるのを聞いて一緒に取ってきてくれたり、長屋の住民たちが間違って毒草を抜いてきたのを捨ててくれたり、長屋の中で育っている植木の面倒を見てくれたり。

 そんな彼がわざわざ史郎たちにおごってまでしたい話というのが思いつかなかった。


「まあ……寒いから温かいもんでも。諭吉さんもどうだい?」

「……すまねえ。今はなんにも腹に入らなくって……」

「そりゃいけねえよ。今日も仕事だろう? なにか食べねえと。ああ、椿。この間もらい物の梅干しがあっただろ。あれを炭で焼いといてくれ」

「はい? そりゃかまいませんけど」

「とりあえず俺と諭吉さんで朝餉買ってくるから、ちょっと待ってな……諭吉さん。とりあえず気付けの梅干し用意しとくんで、歩きながらでいいなら、話を聞くよ」


 こうして史郎は、お惣菜屋まで歩きながら、ポツンポツンと事情を聞くことにした。


****


 史郎と諭吉が買ったのは大根としゃもの鍋であり、いい匂いに炊けていた。それを持って帰りながら、重かった諭吉の口がようやく開いた。


「……この間、大名屋敷の区画で、仕事が入ったんです」

「ほう、大した出世じゃねえか」

「ですから……おそろしくて余計に言えませんでした……」


 大名屋敷の中は、江戸の法律が一切通じない治外法権となる。大名屋敷の中はそれぞれの藩の法律が最優先されるため、たとえそこに奉公に行こうが仕事で出向こうが、よっぽどのことがない限りは奉行所すら手が出せない場所になる。

 ガタガタ震えていた諭吉の言葉に、史郎は溜息をついた。


「俺は陰陽師で、大名屋敷でなにかしら起こったところで対処なんざできねえぜ」

「ち、違うんですよ……大名屋敷でなにかされた訳じゃなく……その日は庭木の手入れを任され、松を切っていました。その日の仕事も無事に終了したところで、天気雨に打たれました」

「ほう」


 天気雨は、晴れているのに雨が降っているという現象である。天気なのに雨が降っているということで、天気雨。別名狐の嫁入りとも呼ばれている現象である。

 諭吉は顔を青ざめさせながら、言葉を続けた。


「その中で、シャン。という音を耳にしたんですよ。鈴の音でした」

「ほうほう」

「雨の中でなんだろうと顔を上げたとき、雨の中花嫁行列が歩いていました……まあ、大名屋敷の多い区画です。雨でも中断できないこともあったんだろうと思いながら、帰りを急いでいたんですけれど……そのとき、その花嫁行列を見て信じられないものを見たんです……全員、狐の顔をしていたんですよ。狐の嫁入りに遭遇してしまったんです……」


 とうとう諭吉は歯をガチガチと鳴らし、唇をブルブルと震わせはじめた。

 基本的に狐の嫁入りは、化け狐が人間が雨で家から出ない内に行うとされている。そして仮に化け狐の嫁入り行列を見たとしても、決してあちらがわに悟らせてはならない……もし花嫁行列を目撃してしまったら、不吉なことが起こるとされている。

 それで諭吉は史郎の腕を掴んだ。史郎は「ちょっと諭吉さん。煮物が溢れる」と文句を言うが、諭吉の腕はガクガクと震えていた。


「頼みます、史郎さん。なんとかしてください……! お祓いを……! どうか……!」

「……そうは言ってもねえ。これもずいぶんとおかしな話だ。とりあえず、長屋に戻ろうか」


 そう言っていたら、椿が「お帰りなさいませ」と火鉢をふたりに当ててくれた。

 鍋を温めなおし、皆で分けて食べる。そして諭吉には黒く焼けた梅干しが差し出され、諭吉は困った顔で史郎を眺めた。


「あのう、焦げた梅干しなんて、なにが……」

「人はね。心身が弱っていると風邪に祟られるんだよ。黒い焼けた梅干しはそのお守りだよ。よく食べていくといい。それで邪気からは守ってくれるさ……まあ、狐の嫁入りの話は調べないとなんとも言えないから、ちょっと待っておくれ。ああ……朝餉代ごちそうさま」

「へえ……」


 こんがり焼けた梅干しの苦さと酸っぱさで目を白黒とさせながらも、それを平らげた諭吉は仕事へと向かっていった。

 そして史郎は椿に、諭吉から聞いた話をする。それに椿は困惑した顔をした。


「普通に狐の嫁入りを目撃した話ではありませんの?」

「そんなこと言ったって、人間が目の錯覚で狐の顔の花嫁行列なんか見るもんか」

「あら。人間は花嫁衣装が傷むような真似をなさりますか? ましてや大名屋敷の付近ですよ?」


 それには史郎は「ぐうぅ……」と声を上げた。

 基本的に町人や小役人は古着屋で着物を調達するし、大店を構える人々は年に一度新年に向けて着物を一枚仕立て、それを着て生活をする。しかし、それが大名となると話が変わってくる。

 町人では手を出せないような絹の着物を買い、嫁入りにも絹の花嫁衣装を用意し、嫁入り道具一式と一緒に嫁ぐ。嫁入り道具は嫁入り先で有事の際には売れるようにと、それはそれは財をなしてそれらの準備をしている。そのため藩が傾きかけた時はもっぱら嫁入り道具が売りに出されるのは、それだけ価値があるからだ。

 雨が降れば当然ながら絹は駄目になり、桐の家財だって駄目になる。雨の日に嫁入りなんて、普通に考えたらまずありえないのだ。

 これが妖怪のしわざ。これが運の悪い諭吉の話で終わったらそれまでだが、史郎は顎を撫で上げた。


「……そんな話あるか?」

「はい? だって実際に諭吉さんがおっしゃってたじゃないですか」

「いや、証言は諭吉さんからしか聞いてない。たしかに諭吉さんは生真面目で、その日の稼ぎをちまちま貯めているような細かい男だが、見間違いだってある。なにより、そんなもんが大名屋敷の付近を歩いていたら、普通に怪しくないか? 狐だぞ」

「そりゃまあ……たしかにどう考えても怪しいですけれど……先生、どうなさるおつもりですか?」

「さすがに大名屋敷の人に聞くってえのは無理だろうけれど、辺りを歩くくらいならば不審者扱いもされないだろう。なるべく人の通らない時間に歩こう」

「まあ……」


 こうして、史郎と椿は直接現場を見に行くことにした次第だ。

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