第2話 学校のプールに侵入しよっか。

 汗が染み込み少し湿ったシャツが肌に張り付き気持ち悪いが、夜の教室にクーラーなんて物はなく窓を全開にして空気の入れ替えをすることしかできない。

 冷たい汗が額を伝い机に滴り落ちる中、俺は片手に教科書を、もう片手にペンを持ちながら黒板に書かれていく文字や数字を書き写していく。

 しかし頭では理解していても暑くて手が追いつかない。

 そうやってシャーペンの芯は今日で3本目に突入した。


 そんな俺とは対照的に、夜名先輩は俺の隣で涼しげな表情でスラスラとノートに文字を刻んでいく。時折悩む表情を見せても、教科書を捲ってヒントを探し出し解き方を見つけ出しては書き記していく彼女に感心する。

 なんでこの先輩はあんなに俺にちょっかいかけてくる癖に勉強ができるんだ……?


「てかあちぃ……夏早く終わってくれねぇかな」


 この暑さのせいで集中が切れてしまいシャーペンをノートの上に転がして、もう何度目になるかわからない溜息を溢しながら顔を腕で覆い隠す。

 あと30分がんばればこの苦行という名の授業から解放され学校が終わるのだがあまりにも暑すぎてもう限界だ。

 しかしそんな時、汗で濡れた左手に不意に冷たい感触に襲われ、顔を上げると夜名先輩がシャーペンの先端で俺の手の甲を突ついていた。


「だーいじょうぶですかー?」


 俺はその悪戯に思わず顔をしかめるが、先輩はそんな俺の様子には気にも留めずただ静かに微笑みを浮かべていた。

 シャツのボタンを先輩は2つ開けて胸元を少し見えるか見えないかのところをパタパタと仰いでおり、きめ細かい白い肌にはじんわりと汗が滲んでいる。


「ほんと暑いよねぇ、早く秋になって欲しいな」


 その無防備に晒されている肌を見るだけで何故か変な気を起こしそうになるため、俺は顔を逸らしながら右手で自分に向かってパタパタと仰いで風を送る。

 長い髪を耳に掛けながら先輩は、シャーペンを持った手を俺の手の甲の上を撫でるように滑らせた。

 それはあまりにも突然で、まるで時間の流れが遅くなったかのように感じるほどゆっくりとした動作だった。

 シャーペンの先端を軽くノートに当てるとそのまま俺の手の甲の隣に文字を綴り始める。


“こっちみてよ”


 その文字を見た瞬間、俺の心臓の鼓動が早まり思わず夜名先輩の方に顔を向ける。 

 視線と視線が交わるとその琥珀色の瞳が輝きながら悪戯っぽく細められ八重歯が見える程の笑みを見せる。


「やっとこっち見た。朝日って照れ屋さん?」


 机に肘を突きながら頬杖をつく彼女の赤髪の隙間から、琥珀色の潤んだ瞳がこちらを覗いており、俺は思わずドキッとしてしまうが彼女はそんなことなどお構いなしに話を続ける。


「別に照れてないですけど?」

「じゃあなんでこっち見なかったの?」

「いや、だから……」


 先輩の肌とか胸元とか見えちゃいそうだからです、なんて口が裂けても言えるわけもなく、俺はただ彼女の琥珀色の瞳から視線を逸らし口籠ることしかできなかった。  

 すると彼女はわざとらしく首を傾げながら俺に顔を近づけてきて俺が顔を逸らせないように顔を固定させると悪戯っぽい笑みを向けてくる。

 そして俺の耳に唇を近づけるといつもよりも声色を低く囁くように言った。


「手止まってるよ?」


 教師に聞こえないように囁くその声は吐息混じりでそんなつもりはないってわかっていても色っぽく聞こえてしまい俺は思わず肩をビクッと震わせる。


「えっ?手!?」

「うん。数式、続き書かないの?」


 その言葉で俺は自分が数式を書き写すのを忘れていたことに気付き、慌ててノートに視線を落とす。


「あっ……はい。もちろんわかってますよ。数式ね」


 シャーペンを握り直すも芯はもうなくカチカチと軽い音を鳴らしながら空回りするだけで、俺は気まずさと焦りでぎこちなくなりながら視線を泳がせる。そして先輩はそんな俺の様子に気が付いたのかクスッと小さく笑いを溢し、俺の前にシャーペンを差し出す。


「あっ、ありがとうござ……」


 俺は差し出されたシャーペンを受け取ろうとした瞬間、急に先輩はシャーペンを持っていた手を上に上げたため俺は宙を掴んだ。

 俺が驚いて顔を上げると、そこには悪戯っぽく瞳を輝かせてこちらを覗き込んでいる先輩の顔があり、手を上に上げながらその白く細長い綺麗な指でペン回しのようにシャーペンをくるくると回す。


「かしてほしい?」


 俺は少し先輩のその態度にカチンと来るが、それをできるだけ顔に出さずに手を上げ続ける先輩に俺は我慢しながら返答する。


「別にいらないです。普通に筆箱の中にシャー芯入ってるんで」

「あ〜怒らないでよ。ほらちょっとした遊びをしたら貸してあげるから」


 筆箱に手を伸ばそうとすると、先輩はそれを阻止するように俺の顔を覗き込む。

 その距離は鼻と鼻の先くらいで先輩の顔には柔らかい笑みが浮かんでおり、俺の視線は彼女の瞳に吸い込まれるように釘付けになる。

 しかし、彼女はそんな俺の様子に構うことなく顔をさらに近付けると吐息混じりの甘い声で首を傾げる。


「ね?」


 少し上目遣いで悪戯っぽく微笑みながら俺を見上げる彼女を見て、息を吸うのすら忘れて俺の心臓が高鳴ってしまい思わず両腕で顔を覆う。


「わかりました、わかりましたから少し離れてくださいっ」

「やったぁ」


 情けないながら俺と先輩の攻防は虚しく俺の完敗に終わり、両腕の隙間から俺の顔を覗き込むと先輩は満足そうに笑みをこぼしながら、ようやく俺から顔を離す。

 俺はそれを確認するとゆっくり手を下ろし、先輩に向き直す。

 その頬はうっすらと赤く色づいており、両手のひらを口元に当てながらクスクスと笑みを溢していた。

 全く何が遊びだ……。絶対今度こそ先輩のペースに俺は乗せられない。


「ねぇねぇ真実か挑戦かってゲーム知ってる?」

「なんですか、それ」

「ほらっ、私の母さんがイギリス人だって前言ったでしょ?それで海外の遊びで真実か挑戦かってゲームがあるの」


 先輩は俺の机に肘をつくと、細長い指で回していたシャーペンをそのまま直立させ俺のノートに書きながら説明を始めた。

 まず先にどちらが先に質問するかを決めて、質問者は回答者に「真実か?挑戦か?」と聞く。そして回答者が「真実っ!」と答えると質問者の質問に素直に答えないといけない。「挑戦っ!」と答えた場合は質問者が言ったことを言う通りにしないといけない。

 というなんとも変わったルールの遊びらしい。


「とまあ、最初は難しいだろうから先に朝日が質問者になっていいよ?」


 先輩はそう言うと、ノートに書いていたシャーペンを起き頬杖をつきながらこちらに上目遣いで微笑んだ。


「えっ、あっ……じゃあ真実か、挑戦か?」

「挑戦」


 彼女は即答した。

 その迷いのない答えに思わず息を呑み込むが、先輩はそんな俺の様子にもお構いなしで微笑み続ける。

 琥珀色に輝くその瞳は俺の心の中を見透かしているような気がして、なんとか彼女のその視線から逃れるように俺は目を逸らすと、何を挑戦させるか内容を必死に考え始めた。


 なんでも言う通りにできると言っても、普段は思いつくがいざ考えてみると何も思いつかないもので……。

 いや待てよ、これで先輩に「これから授業中にいじってこないでください」って言えば先輩は言う通りにしないといけないから授業中解放される。

 これは先輩を出しぬくチャンスだ!


「じゃあ……」

「うん、なぁに?」


 俺が先輩に挑戦を言おうとすると、彼女は頬杖をついたまま微笑んで首を傾げながら俺の言葉を待っていた。

 そんな先輩の様子に何故か俺は少し緊張してしまい、生唾と共にに言葉を飲み込んでしまう。


 先輩がもし俺の言う通りに授業中にいじってこなくなったら、その関係性で俺と先輩の間に接点が生まれることはこれからあるだろうか?

 ただの後輩である俺は何も特別なものはなく、俺がおもちゃじゃなくなったら先輩は俺なんてポイッと忘れて他の生徒を授業中にいじるようになるだろう。


 それを望んでいたはずだけど、はずなのに……なんで俺の心にはモヤモヤとした曇りが掛かっているのだろうか。

 俺はそんな疑問を振り切るように一度目をギュッと瞑ると、ゆっくり目を開けて挑戦する内容を言うために口を開く。


「シャーペンを俺にください」


 俺がそう言うと、先輩は目をパチクリさせながらこちらを見つめる。そして数瞬遅れて先輩が噴き出すように小さく笑い声を上げた。


「ください?貸してじゃなくてっ?」

「あっ…いや!」


 あれ?なんで俺思っていたことと全く違うことを言ってしまったんだ? 授業中にいじってくるのはやめてほしいってお願いするはずだったのに……なんで? 俺は自分の発言が信じられず、思わず口を手で覆いながら先輩から顔を背ける。

 すると先輩は俺の顔を覗き込み悪戯っぽく笑った。そしてシャーペンを俺の目の前に差し出してくる。


「いいよあげる。大事にしてね」


 シンプルな水色のシャーペンに、しましま模様のペンギンのストラップがついた俺が持つにはあまりにも可愛らしいシャーペンだ。先輩の綺麗で細長い指からそのシャーペンを受け取ると、俺はそれを握りしめる。


「ペンギン好きなんですか?」

「うん、大好き。じゃあ次は私が質問者ね。真実か挑戦か?」

「えっと…挑戦?」


 正直あまりルールを理解していない俺は、少し考えてから先輩の答えの真似でもすればいいやと、そんな安直な考えでそう答えた。

 すると先輩はその綺麗な瞳を輝かせながら微笑む。そして少し前のめりになり顔を近づけると言った。


「今日暑いよね」

「そうっすね」


 突然の彼女の行動に俺の心臓はドキリッと跳ね上がり思わず後ずさると、彼女はクスリと笑い頬杖をつくと俺を見下ろす。

 俺はそんな彼女の仕草に見惚れてしまい言葉を失うが、彼女はそんなことお構いなしで口を開いた。

 その口から紡ぎ出された言葉はあまりにも予想外で……それでいて俺の心を鷲掴みにした


「学校終わったら学校のプール侵入しよっか」

「ええっ!?」


「杉本、さっきからうるさいぞ」


 思わず声を上げてしまうが、教師に咎められる。俺はすみませんと小さく謝りながらも先輩の顔をもう一度確認すると、彼女はそんな俺の様子を面白そうに見ていた。


「マジで言ってるんですか?バレたら親に連絡行ったりして大問題になりますよ。てかどうやってプール行けるんすか?」

「マジのマジ。私の言う通りにしたらプールに侵入なんて朝飯前だよ」


 そう言うと、先輩は俺に向かって親指をグッと立ててウインクする。

 いや、どう考えても無理でしょ。バレたら親に連絡行くどころか、不良だと言われて学校に来るの禁止にされるかもしれない。もしかしたら侵入罪とかなんとか犯罪になって警察に捕まるかもしれない。

 ただでさえ、俺は普通の学校に行けない問題児なのにそんなことしたらもう二度と普通には……。


 すると俺の制服の裾がクイッと引っ張られる感覚がして、そっと視線を下ろすと先輩の細く白い綺麗な指の先には俺の制服をつまんでいた。


「挑戦、するよね」

「はい……」


 まただ、思っていたことと逆のことを俺は口に出してしまう。一体先輩は俺にどんな魔法や魔術をかけたらこんなことが可能になるなんだ?

 俺の心は俺のもののはずなのに、先輩といるといつの間にか心を占領されてしまう。汗ばんだシャツの首元を手で仰ぎながら、俺は深くため息をついた。


「……勘弁してよ先輩」


 小さく漏らした声はチャイムの音にかき消され、そんな俺のため息はプールへの期待が混じりほんのりと熱を帯びていた。

 


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第3話「ねぇ、朝日。家にきてよ」3月26日明日にまた投稿させていただきます。

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