第三章 第四話

 フアナは森に隠れたまま、遠くから戦いの推移を見守っていた。


 宙を舞いながら火炎を放つドラゴンと、凄まじい速度でそれを追うアデライーダ。どちらが有利なのかはフアナには判断できないが、一つだけわかったことがある。これ以上街が燃やされる心配はないということだ。


 ブレスは全てアデライーダへ向けて放たれ、朝焼けの空へと消えていく。街へと火炎を放つ余裕はなく、戦いに集中している。大魔王は確かに、ドラゴンの目を自分へと向けるという形で街を守っていた。


 だがそれでも、街から聞こえてくる悲鳴は止まらない。


「う…………」


 フアナの目に、ワイバーンが玩具のように放り投げた人体が映った。しばらく宙を舞った彼、もしくは彼女は重力に従って落下し……フアナのいる場所からでも理解できてしまうほど、肉体を無惨な形に変えた。


 ドラゴンの指示を受けたワイバーンたちは、勤勉に虐殺を実行していた。その爪で、その牙で、人体を引き裂いていく。ドラゴンのブレスが街へと放たれることはなくなったが、最初に放たれたブレスが生み出した火災は鎮火する様子はない。火や煙から逃げ惑う街の人間たちを、ワイバーンは容赦なく狩っていった。


 救いは、亜竜であるワイバーンはドラゴンのように吐息を武器とすることはできないことだ。まとめて人間を殺戮する手段がない。運に恵まれた人々が、街門から外へと脱出に成功して……しかし、それを見咎めたワイバーンのうちの一匹が、脱出した人間たちへと迫る。


「っ」


 思わず、フアナは拳を握りしめていた。朝焼けの中に混じる、赤。逃げ出したはずの人々が次々に殺されていく。何人かは鎧や盾と言った装備で身を固めている者もいて、攻撃を受け止めようとしたが……ワイバーンの一撃で装備は損傷し、二撃目で肉を断たれた。ワイバーンへ向けて槍を叩きつけた勇敢な男は、黄金竜の呪詛によって痺れ、そのまま反撃を受けて倒れた。


 ワイバーンにはブレスのような、まとめて殺戮を行う手段はない。故に一人一人、順番に殺していく。殺されるのが後になった人間が幸運だったかは疑わしい。最期の光景として、他人が血と臓物が撒き散らされていく様を見せつけられたからだ。逃げ出したはずの人々は、反撃も防御もできずただ恐怖の中で死んでいった。


 無惨な死体の山を積み上げた後、ワイバーンはまた街へと戻っていく。フアナはその姿を、森の中から遠巻きに見つめることしかできなかった。上空では、アデライーダとドラゴンが戦っている。街の中からは森まで届くほどの悲鳴が聞こえてくる。フアナだけが、何もしていない。


 フアナの身体が震える。殺戮に怯えているようにも見える震えは、けれど魔物への恐怖によるものではなく。


「…………え?」


 だがそれでも動けない彼女を置き去りにして、事態は進んでいく。死体の山が、ほんの僅かに動いたのだ。慌ててフアナが目を凝らすと、重なった死体の下から何かが這いずって出てくる様子が見えた。それは、生き残っていた人間……それも年端も行かぬ少年だった。フアナ(と見た目だけで言えばアデライーダ)も少女と呼べる身なりだが、少年は更に幼い子どもだ。


 運に恵まれたのか、それとも誰かが――例えば親が――意図的に庇ったのか。死体に紛れ込んだ少年は、他人の血と臓物に塗れながら恐怖に耐え続け、ワイバーンが去るまで生き延びたのだ。顔を出した少年は何度も、念入りに首を振って周囲の様子を確認している。表情がはっきりと確認できる距離と状況ではないが、未だに怯えているのは明らかだった。


 少年はそのまま首を振り続けることしばらく……ようやく死体の山から抜け出し、その場から逃げようとして。


「あ…………」


 フアナの口から、呆けた声が漏れた。少年が立とうとして、転んだ。そのまま足を抑えてうずくまる。確かに生き延びたが、それは無傷であることを意味しない。足を負傷していたのだ。


 少年の状況はむしろ悪化していた。死体の山から中途半端に離れたところで倒れ込んだせいで、悪目立ちをしてしまっている。もしワイバーンがまた街の外にやってくれば、少年が生きていることに即座に気がつくだろう。放っておけば、少年が解体される惨劇が始まるに違いない……放っておけば、だが。


 フアナの足が前に出ようとしては、戻る。彼女の身体が震えているのはそのせいだ。迷いで挙動不審となった身体が、ふらふらと揺れている。アデライーダなら森から一跳びで少年を拾いに行けるだろう。しかし、フアナにとってはそうではない。助けに行く間にワイバーンが戻ってくる可能性は確実にある。


 ――別に、見ているだけでもいいじゃない。どうせ、誰も感謝なんてしてくれない。


 森にはフアナ以外は誰もいないはずなのに、フアナの頭に声が響く。


 ――何かしようとしても、また私が悪者扱いされるだけ。だったら何もかも全部、誰かに任せてればいい。聖剣を魔王に譲ったみたいに。


 その声は、間違いなくフアナ自身の声。彼女の身体を縛っている、恐怖とはまた異なるもの……諦念だった。


 迷ってしまう。踏み出せない。動けずにいるフアナの目に映ったのは、立ち上がれない少年が動き始めた姿だった。


 足には怪我を負っている。死の恐怖は未だに身体を縛っている。けれども、死体の山に戻ろうとも諦めて動きを止めようともせず、這いずってその場から離れようと試みている。生き残った少年は、諦めてはいない。


 気がつけば、フアナは森から飛び出していた。


 聖剣は手元にない。

 自分には何の力もない。

 少年とは何の縁もない――


 自分の中から響く声を、フアナは振り切って走る。彼女の足では、少年の所まですぐにたどり着けるわけではない。街からの悲鳴が耳に届くたびに、今のうちに戻ってしまえという言葉に変換される。その度に、フアナは頭の中で言い返した。ここであの少年を見捨てたら、きっと両親に胸を張れなくなる、と。


 少年の元へと駆け寄った頃には、フアナの息は切れていた。彼女の体力がないわけではない。結構な距離を、後先考えずに全力疾走したからだ。


「え……おねえちゃん、だれ……?」


「さ、さぁ、掴まって…………!」


 それでもなんとか、フアナは少年を助け起こして背負った。疲れ始めた足に、幼いとは言え人間の重量が加わる。すぐさま森へ戻って隠れようと走り出したフアナだが、その速度は明らかに遅くなっていた。疲労や重さを否が応でも意識させられる。森への距離が遠く感じる。そう思ってしまうと、余計に足が重くなる悪循環。


 ただ、街から聞こえる悲鳴に足を竦ませることだけはしなかった。


「はぁ、はぁ、はぁっ…………!」


 走る。少年の重さを背で実感していようと、疲労で足が棒になっていくような感覚がしようと、フアナは決して足を止めない。ただひたすら前を向いて走る。その足取りに、恐怖だけはなかった。


 それでも、フアナはあくまで人間で……物理的な距離が、精神の力で短くなることはない。


「おねえちゃん、うしろ!」


「う…………!」


 背負われていた少年が悲鳴を上げる。振り向かずに走り続けるために、フアナは相当な精神力を要した。後ろから新たに響く人ならぬ声。こちらへ向けてワイバーンが吠えている。後ろを向いて確認しなくとも、それが意味するところは明らかだ……フアナたちは、見つかってしまった。


 せめて森に逃げ込めばワイバーンの攻撃から逃れられるかもしれない、そんな根拠のない考えですら現実的ではなかった。フアナから見た森は、まだまだ遠い。森に入るよりもワイバーンが追いつく方がどう考えても早い。


 それでもフアナは足を止めず、震え始めた少年を落とさないようにしっかりと掴んだ。最後まで諦めず走って、走って……しかしその行動は、ワイバーンが迫るまでの時間をほんの僅かに遅らせただけにすぎない。ワイバーンの鳴き声が真後ろから聞こえる。見なくとも、すぐ後ろにいると分かる。それでもなお、フアナは走り続けて……


「ギャアアアアアアアアア!!」


 悲鳴は少年のものではなく、ましてやフアナのものではない。先程まで吠えていたワイバーンが、いきなり悶え苦しむような声を上げたのだ。


 その変調にようやく振り向いたフアナの目の前で、ワイバーンは地面に墜落して倒れ込んだ。その翼は引き裂かれていて……そしてワイバーンの足元にあるのは、アデライーダが持っていたはずの聖剣の鞘。鞘の口からは、聖剣と同じ輝きが漏れていた。


 ――聖剣はアデライーダに所持されている間、常に魔を拒否する光を放ち続けていた。結果として、聖剣の鞘にはその光の残滓が溜まっていき、短時間であれば鞘だけでも魔を傷付けるほどの輝きを得たのである。


 とっさに、フアナは少年に呼びかけていた。


「お……下りて!」


「う、うん」


 フアナには、鞘に光が残った理由は分からない。分からないが、傷を負ったワイバーンと未だに輝く鞘を見て、落ちてきた鞘がなにかしたのだろうとは理解した。フアナは少年を背中から下ろすと、鞘を拾って構えた。まるで、剣を掲げるように。


 ワイバーンは未だに倒れたままだが、翼を失いながらも起き上がろうとしている……生きている。フアナの頭の中を焦りと衝動が支配する中、かろうじて残った思考で引き裂かれて動かない翼のほうに回った。こちらから攻めれば、ワイバーンが暴れても大丈夫だという判断だ。


「や、やあああああっ!」


 フアナは叫びながら、鞘を振り下ろした。剣術など全く知らない、棒振りすら認められなかった素人の一撃。だが、彼女の手にある聖剣の鞘にはまだ輝きが残っていて……ワイバーンの頭部を、確かに粉砕した。


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」


 息を切らしながら、ワイバーンから離れるフアナ。聖剣の鞘は残っていた輝きを使い切ったのか、光を失ったが……頭を失ったワイバーンもまた、動きを止めて全身を痙攣させるのみ。その光景は明確に、フアナの手で魔物を倒したことを示していたが……フアナは呆然としていた。ドラゴンと比べれば劣るとは言え、ワイバーンは弱い魔物ではない。トドメだけとは言え、それを自分が倒したことに実感が湧かない。


 街を襲っているワイバーンは一体だけではなく他の個体もまだいることを考えると、今のフアナは助けた少年と共に隙を晒しているも同然だったが……幸いなことに、事態はもはやそんな事を気にする段階ではなかった。いきなり、空から声が響いたのだ。


「お前たち、我の元に戻れ! 奴を囲め!」


 反射的に、フアナは空を見上げた。焦りに満ちた命令は、アデライーダと戦っているドラゴンが発したものだった。

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