第26話 私はわたし

 幕府軍と百鬼夜行との決戦が始まったその時、聖地サフィールの女神エリスの大神殿で聖女は物憂げに虚空を見上げていた。


「あたたた、これはマズいね。……まさやん、君の弟クン防衛機構システムに取り込まれかけてる」


 困った、という様に後頭部を掻く聖女ミラ。

 彼女以外は人影のない大聖堂で、聖女は何をその目に見ているのであろうか。


日輪の太刀マスターキーを持ってるせいだなあ。こっちが考えてた以上に同調が進んじゃってた。このままじゃ勝っても戻ってこれなくなっちゃうよ。……頑張れ! 弟クン! 自分を信じるんだー!」


 両膝を床に突いて静かに祈りを捧げる聖女ミラ。

 そのまままるで時が止まってしまったかのように彼女は動かない。

 ただ、願いだけが……。

 祈りだけが静謐で清浄な空間に満ちていく。

  

 そして、女神像はただ無言でそこに佇むのみであった。


 ────────────────────────


 先行した刻久軍が戦闘を開始したのとほぼ時を同じくして進軍速度を大幅に上げた疾風の部隊も戦場に迫りつつあった。

 遊撃として最前線で戦う刻久の為に何かできる事があれば、と駆けつけたのである。


 ゴアアアアアアアアアアアアアアアッッッッッッ!!!!!!


 急ぐ彼らの耳に大地を震わす咆哮が届く。


「……マジか、もう妖怪王ゼクウまで到達しちまったのかよ」


 開戦からまだ1時間も経過していない。

 あまりの展開の早さに疾風の頬を冷たい汗が伝う。


「急ごう!」


 ウィリアムが叫んで彼らが前方の天霊山てんりょうざん麓の森に足を踏み入れようとしたその時……。


 その森から何者かが出てきた。


「!!!」


 全員が足を止める。

 現れたのは全身を白い装甲で覆った異形の戦士だ。


「よう」


 片手を上げてフランクに挨拶してくる白装甲。

 ウィリアムたちは戸惑い、反応ができない。

 返答のなさは気にかけないのか、白装甲の戦士は背後を振り返る。


「ここには何もなかったぜ。……なんにもだ」

「?」


 再び一同に広がる困惑。


「それに気付くのに10年近くもかかるとはな。オレも筋金入りのバカヤロウだ。……さて」


 一方的に好きに喋って白装甲は右手の拳を胸の高さに持ち上げる。


「オレはもう帰るつもりだったんだが、出会っちまったらしょうがねえ。後で逃げたと言われるのも癪だからな……」


 白い異形の戦士がそう言って赤黒い不気味なオーラを噴き上げた。

 その威圧感は周囲の空気がびりびりと震えるほどだ。


「お前たちは潰していくぞ」


 装甲の頭部の黒い裂け目に2つの赤く鋭い光が灯る。


夜叉蟹やしゃがざみか……蟹の妖怪だ」

「夜叉蟹! 四天王か!!」


 獅子王の言葉に疾風が眉間に皺を刻んだ。

 言われてみれば確かに異形の装甲戦士の背には畳まれた鋏が2つ翼のように付いている。


「おう。ゼクウ四天王、凶覚きょうかく……男だ。俺に出会ってしまった以上、気の毒だがお前たちに明日の朝日は昇らない」


 全員を見回した凶覚が来い、というように手招きしている。


「アホ。1匹囲んでタコ殴りとかできるかカッコ悪い。……先生悪ぃ。このちょっきんブクブク野郎は俺が相手すっから、ここからの俺の隊の面倒頼むわ」


 凶覚の前に立ち塞がり疾風が手にした鉄の錫杖を構える。

 その先端の遊環ゆかんがしゃらん、と鳴った。


「……行ってくれ」

「わかった。頼んだぞ」


 ウィリアムたちが肯いて全員走り出す。

 自らの脇を走り抜けていく一行を黙ったまま凶覚は通過させた。


 ……そして、平原に2匹の妖怪が残る。


「別に急ぐつもりもない。お前を殺してから連中の後を追うだけだ」

「ガラじゃねえことさせやがって。俺は飄々としたお絵かきお兄さんだっつーのによ」


 構える両者。

 動いたのは凶覚が先だ。

 瞬間移動かと思うほどの速度で白い装甲戦士は疾風の懐にいた。


 ドゴッ!!!!


 打撃音は1つ。

 だが一瞬で疾風は胸部に3発の拳を受けている。

 血を吐いて吹き飛ばされる疾風。


「ぐはッッ……!!!」

「気を付けた方がいいぞ。俺はかなり強いからな」


 追撃の体勢に入った凶覚。

 その胸板に錫杖の先端が突き付けられた。


「……!!」


 次の瞬間、その錫杖に引っ掛けられたかのように凶覚の身体が浮き上がった。

 錫杖の先の白い戦士を疾風が上空でぐるんと一回転させるとそのまま思い切り頭から地面に叩き付ける。


「がッッ!!!!!」


 呻き声を上げて大地に転がる凶覚。


「そっちもまあ気を付けた方がいいぜ。俺もびっくりするくらい強えからよ」


 血だらけの口元をニヤリと笑みの形に歪めて疾風がそう言った。


 ────────────────────────


 妖怪王ゼクウと嘉神刻久かがみときひさの死闘は続いていた。

 まるで軍神の如く覚醒した刻久は正確無比な攻撃で次々とゼクウに新しい傷を刻んでいく。

 強力な再生能力を持つ妖怪王だが、嘉神家の至宝日輪の太刀にちりんのたちで付けられた傷は上手く再生が始まらない。


 苛立たしげにゼクウが咆哮した。


「終わりだ」


 舞うように宙を行く刻久。


「滅ぶがいい。妖怪王」


 一太刀ごとにその動きは更に冴えていく。

 ごう!!と唸りを上げて自分のすぐ顔の隣をゼクウの爪が通過していった。

 髪の毛が数本舞い、こめかみの近くから軽く出血する。

 ……もう数cmずれていれば刻久の頭部は無くなっていただろう。

 しかし彼はそれを意に介した様子も無い。


(問題ない。動作に支障は無い)


 流石にその巨体。

 一撃一撃は有効打とはなり得ないかもしれないが……。

 だが増え続ける再生し切れない傷口は妖怪王の体力を僅かながらに、そして確実に削いでいっていた。


 このまま続ければ後数時間で…………。


(あれ…………?)


 ふと、優陽ゆうひは思った。

 コンマ数秒を争う死闘の最中に思った。


(何してるんだろう。私…………)


 突然心に沸いた疑問がどんどん大きくなっていく。

 一撃貰えば瀕死にされる妖怪王の攻撃を回避しながら彼女は今悩んでいる。


(ちがう、これは……………………)


 遂に刻久の攻撃が止まった。

 地上に降り立つ白い武者。

 だがこれまでとは違い、彼は再び飛び立たない。


「……?……」


 その彼の突然の変化には、ゼクウすらもが不審がって動きを止めていた。


(さっきまでの私は……私じゃなくて……それで……今の私は……)


 遂に優陽は完全に我に返ってしまった。

 目の前には恐ろしい獣がいる。

 ゼクウがいる。


 ……これを……自分が、倒さなくては……。

 倒す……これ……を……?


 ひゅっ、と彼女の喉が鳴った。


「あ、あ、あ…………」


 わなわなと震える優陽。

 その瞳に涙が浮かぶ。


(怖い! 怖い!! 怖い!! ……助けて、誰か、たすけ…………)


 ぼろぼろと大粒の涙を零す優陽。

 ガチガチと奥歯は鳴り、がくがくと足が震えている。

 恐れている、怯えている。

 まるで幼子のように震えて泣いている。


「……なんだ? どうなった?……」


 目の前の宿敵の余りの変化を訝しみながらもゼクウは腕を振り上げた。


「……気力が尽きたなら、砕け散れ!……」


 音が消えた。


 その一撃が黒い影を優陽に落とす。

 一瞬後の轟音。

 砕けた大地の破片が周囲に撒き散らされる。


 ……天河優陽は。


「うわあああああああああああっっ!!!!!!」


 ……彼女は泣き叫びながら跳んでいた。


「あなたなんかにっ!!!! 私は!! 負けない!!!!」


 空中の小石を蹴る。

 白い武者が一筋の閃光となる。


 遂に彼女の一撃はゼクウの巨大な腕の骨までをも断ち切り、大量の血を噴き出しながら残った肉と皮で獣の腕は半ばからぶらん、と垂れ下がった。


「……ゴアアアアアアアッ!!!……」


 獣が吼える。

 己の全てを憤怒と憎悪に変えて叫ぶ。


 震えているのに!!

 泣いているのに!!!!

 怯えているのに!!!!!!


「……何故先ほどより速い!!! 先ほどより重いのだァッッ!!!!……」


 怒りの王が吼えている。


「……何故我が怒りで砕け散らぬ!!! トキヒサァァァァァァァァ!!!!……」


 無事な方の腕を振り下ろす。

 泣きながら優陽はそれをかわし、跳ぶ。

 白い鎧は宙を舞い。

 ……そして彼女はその妖怪王の腕に降り立った。


「わからないでしょう!!! あなたには!!!」


 優陽が走る。

 ゼクウの腕を走る。

 針金の並んだ草原のような腕の上を駆けていく。


「私の大事な……大切な想いものの事なんてわからないでしょう!!!」


 零れる大粒の涙を後方に残しながら走る。


(……兄は今自分の足で走っている!!)


 刻久あにの声が聞こえた。


(……いつか優陽が私の言った事をわかってくれる日が来る事を祈っているよ)


 ウィリアムの声が聞こえた。


(……嘉神の英霊たちがお前を護るだろう)


 征崇あにの声が聞こえた。


 ……沢山の人の声が聞こえた。


「私が背負った……私の剣に宿っている想いものの事など、わからないでしょう!!!!」


 遂に優陽はゼクウの頭部へと到達した。

 泣きながら彼女が渾身の力で太刀を妖怪王の喉笛に突き立てる。


「……ゴッ……パッ……!!!……」


 喉を反らせたゼクウがその巨大な口から大量の血の泡を吹き出した。

 しかしこの一撃、いまだ致命に至らず。

 首が巨大すぎるのだ。

 だから彼女は、その大太刀を握り締めたまま走った。

 肩から背へ、そして反対側の肩へ首をぐるりと回るように……突き立てた大太刀でゼクウの首を切り裂きながら優陽が走る。


「だからあなたは……誰かの大切なものも、痛みもわからないあなたは……!!!」


 最後に刃を首の下に回しながら優陽はゼクウの鎖骨のあたりを蹴って飛び降りた。


「もう……地上ここから……退場しなさい!!!!」


 落ちる優陽に一瞬遅れて、それをまるで追いかけるようにして……。

 妖怪王ゼクウの巨大な首が地に落ちた。


「はあっ……はあっ……はあっ……」


 落ちた首の上げた砂埃から逃げるようによろよろと頼りない足取りの優陽が出てくる。


「優陽!!!」


 木々の間から駆けつけてきたウィリアムが姿を現した。


「………っ!」


 無言で優陽が走る。

 残った力の全てを振り絞って走る。


 そして腕の中に飛び込んできた彼女をウィリアムは優しく微笑んで抱きしめたのだった。





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