第10話

 突如として決まったアニエのドレスのデザイン変更に加え、ミュリエラ用のドレスのサイズ直しまで依頼されたルドラルフ夫人の店は、大わらわとなった。


 まともな思考能力を持っていればせめて後者は断るべきだが、店の主人はいま正常な頭ではない。霊感により次から次へと湧き出る創意に恍惚とした表情を浮かべ、ルドラルフ夫人は「やりますよ。やってやろうじゃありませんか」と、追加作業を請け負う。その後ろでは、助手と針子が戦慄していた。


 チャリンド邸に戻ると、ミュリエラは自室に引きこもり、いい加減、先延ばしにしていた問題の解決に取り掛かった。「お披露目式」とやらの正体の見極めである。


「まず何のための儀式なのか知っておかねば、立ち振る舞いも装えぬからなあ」

 と、ミュリエラはビブリオティカに話しかける。

「わらわは異国の者ということになっておるので、所作の多少は大目に見てもらえるであろう。肝心なのは、何のための儀式なのかじゃ……。アニエ嬢の晴れの舞台ということは分かるが、“目立つ”だの、“家格を上げる”だの、どうも他家との競争の要素があるようなのじゃ」

『ミュリエラ様。それでしたら、私にお尋ねください』

「なに?」

『わたくしめは数十年間、ラコール男爵の応接間ロイリンケルヤに飾られておりました。その間、この国の上流階級の人々の会話を余すところなく聞いております。ある程度まで推察が可能です』

「それは重畳!」


 ビブリオティカの説明によると──


 長い冬を越し、雪解けが終わって春を迎える頃。

 メーノン王国の上流階級における「社交シーズン」が開幕する。

 その最初の重要イベントが「お披露目式」なのだそうである。

 貴族や、それに準する名家の生まれで、その年、結婚適齢期を迎えた娘たちが、王城へ集まって玉座に座する者に対し「挨拶」をする。

 この儀をもって娘たちは「社交界デビュー」したこととなり、晴れて成人として「結婚市場」に参入するというのだ。


「結婚市場じゃと?」

『はい』

「分からぬな。市場も何も、娘の結婚は家の都合で決まるものであろう」

『そのような一面もありますが。社交界に名乗りを上げた娘は、なるべく着飾り、評判を損なわぬよう立ち振る舞い、立派な殿方の目に留まり、よき縁談を手にせんとするものなのでございます』

「売り物はわが身か」

『貴族の娘は多うございますが、買い手は少ないのです。現在、メーノン王国の爵位継承は限嗣継承法によって、直系の男子ひとりのみに爵位と家産が引き継がれると定められております。そして貴族家の数は一定で、まずめったに増えません』

「つまり、その少ない爵位持ちの男性の妻の座に……無数の貴族家の娘が群がっておるわけじゃな。加えて、チャリンド家のように、爵位を授かって上流階級にのし上がろうとする富裕な家の者も」

『ご明察』

「これは市場ではないな。戦争じゃ」

『さよう、生存のための闘争です。爵位を持つ男性の妻になれなくとも、次男坊や三男坊であれば、ある程度の収入は期待できますし、チャリンド家のような富裕な家に嫁ぐこともできます。法律家や軍人といった社会的地位を持つ平民の人物の妻になる者もおります。しかし、それすらあぶれた女性は……』

「おおかた察しは付く。聞きとうない」

 お披露目式とは、あの朗らかで汚れを知らぬアニエの将来を左右する、重要な戦場であったらしい。これは自分も気を引き締めねばなるまい、とミュリエラは思った。

「知識じゃ。知識が必要じゃ」


 昼食はチャリンド夫人に誘われて、屋敷の温室ビントグラデルヤで取ることになった。

 温室とは何かと思ったが、ガラスを壁一面に張り巡らして陽光を取り入れつつ、寒風を防いで植物を温暖に育てる部屋のことらしく、暖かさと庭園の趣きを兼ね備えた住居空間として利用されているようだった。


 このチャリンド夫人との昼食は、これまでのミュリエラの人生でもっとも緊張し、気を使ったものとなった。


 昨夜、鴨料理をたいらげた際、ビブリオティカに指摘されたのだ。

「食べ方がこの時代の貴族にふさわしくありません」と。


 ミュリエラの時代、王侯貴族であろうと、肉もパンも指を使ってつまんで食べるのが普通であった。ところが、当代では、あの見慣れぬカトラリー、「フォーク」とやらを使って、ナイフで料理を小さく刻んで、突き刺して口に運ぶものだという。

 姿勢はあくまで美しく、ナイフと皿をこすり合わせたりせず、音もなく優雅に。


 ミュリエラは、とにかく小食を装ってチャリンド夫人の所作をひたすら観察した。

 それをなるべく自然にまねて食事を口に運ぶ。

 肉を詰めたパイとスープからなる食事がまた唸るほど美味で、すべてを忘れてかぶりつきたくなってしまうのが憎たらしい。

「チャリンド夫人、ひとつお願いがあるのじゃが」と、食事の作法でぼろを出す前にとミュリエラが切り出す。

「なんでございましょう」

「わらわはこの国に来て日が浅い。知識を身につけたいのじゃ」

「あら。ご殊勝でございますこと。何がお要りようですか」

「この国の歴史などを学べましたら望外の喜びでありまする」

「そうですね……それでしたら、ドリアス先生がお詳しいとは思いますが」

「その御仁は?」

「当家の家庭教師をお頼み申し上げている方です。アニエもドリアス先生の薫陶を受けたのでございますよ。本日も、コリノの授業をなさっておいでのはずです」

「ご紹介いただけますかや?」

「もちろん。あとは、当家の図書室ビブリオティケルヤがお役に立つかと」

 図書室と聞いて、その言葉が今でも通じることにミュリエラは内心喜ぶとともに、驚きもした。

「(富裕とはいえ、個人の邸宅に図書室を備えおるじゃと……!?)」


 図書室には、すぐに案内された。

 と同時に、ドリアスなる人物との顔つなぎも行われた。

 コリノの午後の授業に備えて、資料を用意していたのである。


「初めまして。センティナ山で金床を打たれたる、ドリアスと申します」

 教師のドリアスは、ドワーフの男性であった。

 ドワーフと言えば鉱夫か職人か戦士と思っていたミュリエラは、彼らが知的生産活動に従事する日が来るとは考えてもいなかった。

 彼らの髭といえば、なるべく野放図に伸ばして束ね、リボンその他で装飾するのが常と思っていたが、目の前にいる男性は灰色の髭を短くもなく長くもなく切りそろえており、身だしなみは清潔で、ごつごつした手で図表や書籍を丁寧に扱う、落ち着いた人物だった。

「この国の歴史にご興味がおありとか」

「ええ、そうなのですじゃ。何も知らぬでは、海千山千の王宮では戦えそうにもありませんからの。知は力なりですじゃ」

 ドリアスは眼鏡の奥の目をきらりと光らせた。「慧眼でございますな」

 授業のための荷物を手早くまとめながらも、ドリアスは本棚の区画を指し示し、ミュリエラに助言を与えた。

「通史ならば、そこに見える全五巻の“メーノン王国年代記概略”がよろしいでしょう。王宮に関する事物でしたら、そこの西の棚にご興味を引くものがあるかもしれません。そうですな、“聖都書簡抜粋集”などは参考になります。ただ、外交史に関する書籍は、午後の授業で用いておりますので、閲覧はいささかお待ちいただくことになりますな」

「かたじけない。わらわも一緒に授業を受けたいくらいじゃ」

「失礼ではございますが」

 と、ドリアスは慎重に言葉を切り出す。

「立派にご成人あそばしたご婦人が、かくも書物にご興味を抱かれるのは、いささか珍しくあります」

「興味を持たずにおかれましょうや。知を蓄え、養うことこそ、この世でもっとも高貴な仕事とわらわは思うておりまする」

「……まことに。貴族の奥様がたへ、どうかそのお考えをお広めください」


 ドリアスが去った図書室に一人残され、ミュリエラは興奮と期待に胸をふくらませながら、宝物庫にもひとしい知の宮殿を見渡した。「さあて、と……」

 ミュリエラはとりあえず、適当にその辺の一冊を手に取り、開いてみることにした。


 この時代に来て、驚くことは山ほどあった。

 建築に驚いたし、木綿ボミュムとやらに驚いたし、滑るように動く馬車の仕組みにはまだ慣れないし、使用人以外のエルフにまったく会わないのも不思議だったし、ルドラルフ夫人の服飾の腕にはドワーフが石と金属を布に持ち替えた時の威力というものをまざまざと見せつけられた。食事にいたっては、自分がいかに原始的な生活をしていたか、思い知らされたものだ。


 だが、それらの驚きも、このたった一冊の本を開いた時の衝撃に比べたら、微々たるものだった。


「これは……いったい何じゃ!?」


 ミュリエラの知っている「本」ではない。

 それは、羊皮紙とは確実に違う、布とも思えぬ未知の薄い皮膜でできており、ほのかに植物性の香りのするものであった。

 ミュリエラは「紙」というテクノロジーをここで初めて意識することとなった。


 木に似た香りがするということは、何らかの草木を原料として生成する羊皮紙の代用品ということになるだろう。羊と草木では、供給の量が桁違いである。つまり、この皮膜は、大変な安価で生産できる可能性を秘めている。


 文字を見て、また驚く。

 最初はなんとも几帳面に字を刻む写字生がいるものだと思ったのだが、よく見ると、ペンで書かれた形跡がない。ミュリエラはこれが写本ではなく、「版画」の一種であると理解した。それに、気味が悪いくらい同じ筆致の文字が同じページ、また違うページにも使われている。

 まったく同じ形の文字の一組を、繰り返し用いて製作する、版画の図書……。


「まさか、これは……文字の一つ一つを小さな版刻にして、それを並べて文章を綴っておるのか」


 であれば、その版刻を並べた板にインクを塗って、この植物性の羊皮紙を次から次へと押し当てていけば、筆耕とは比べ物にならないくらい素早く「書物」が生産できることになる。

 ミュリエラはもう一冊、別の本を開けてみた。同じ技術が用いられている。

 さらに一冊。同じだ。

 図書室を見渡す。


「この部屋の書物すべてが、かような技術で……」


 大きな都市や教会に一つあれば良い方の「書物を集積した施設」が、ただの商家の屋敷に備わっている理由が分かった。この時代、本はありふれているのだ。

 と同時にミュリエラは、それが示す可能性とヴィジョンの波に襲われた。

 まるで牛歩のような筆耕の遅さに妨げられていた叡智の保存と啓蒙が、圧倒的な量の「版画の本」の激流に乗って、世界のすみずみまで届き渡り、誰もかれもが文字を読み、知識や情報を共有する世界……。


 ミュリエラは眩暈がして、椅子に座りこんだ。


「なにが【大賢者】であろうか。この集合せる知の前では、わらわごとき、毛ほどの価値も持たぬ」

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