大賢者たる魔法使いの女、千年後の世界で必死なようです

@ksksski

海嘯の魔女

第1話

 ここは魔王城。


 およそ人の手になるとは思えぬ醜怪な装飾で覆われた玉座の間には、人ならざる巨大な存在──魔王が鎮座している。


 玉座と呼んでよいのかとも思える奇妙な石くれを、縛りつけるように、しがみつくように、無数の形容しがたい触手が包み込み、それらの触手によって人体を冒涜的に模倣したような忌まわしい「何か」が、抗いようのない威圧感でそこに「在った」。


 は、身動きをとれない存在だった。だが、魔をもって全てをかしずかせる存在が、手足を動かして自ら糧を口に運ぶことなどあろうか。汚穢おわいを拭うことなどあろうか。


 魔王。人類の宿敵。

 歴史書に残らぬほどのいにしえより、はすでに在った。

 なぜの存在が人間、エルフ、ドワーフの人類三族を戮滅せんと欲するのか、誰にもわからない。

 魔王に率いられた「魔族」と呼ばれる奇怪な生き物や生き物でないものは、ただ人々を襲い、街を焼き、村を焼き、畑を焼き、そして喰らう。


 人類が団結し、強大な帝国を築いて魔王に抗した時代はすでに遠い。

 いまや魔族の潜む広大な森や荒野からなる「海」に、ぽつりぽつりと人類の領域が「島」のように浮かび、それらが細い道で結ばれて、辛うじて人々の命脈を保っている有り様だ。


 もはや人類は黄昏の時代を迎えているかに見えた。


 その玉座の間に──どす黒く汚らわしい魔物の血にまみれながら、重厚な鎧を着こんだ一人の若武者が、剣風を巻き起こしながら飛び込む。


 部屋を守る親衛の魔兵士を肉片と化しながら。


 彼こそは、この世界バリオンに生きとし生けるもの──人間、エルフ、ドワーフの三族より選ばれた最強の剣聖、リアスタン。メーノン王より【勇者】の称号を授かりし男。


 人類最後の切り札は、周囲に澱む瘴気を払って立ち上がり、朗々と気を吐いた。


「ようやく会えたな、魔王!」


 人類最大の敵は応える。


「ようやく来たな、人間。吾を討ちに来たか。しかし、単身とはな。随分と仲間が減ったではないか」


 魔王の声が部屋全体に響く。いや、声ではない。部屋全体が震えて音が鳴り、人間の声のような何かを響かせているのだ。


「少々、剣の手習いに長けておるだけの人間風情に、吾が遅れをとることはない」


 と、魔王が言うや否や、リアスタンの背後を死者の巨人どもが襲う──振り向きざまに折れかけの剣で薙ぎ払うも、腐臭を放つ肉の塊を押しとどめるのが精いっぱいだ。


 見れば、リアスタンの鎧から滴る血は、魔物のどす黒い血だけではない。

 人類の英雄は、満身創痍であった。


「残念だ、人間よ。わぬし一人では吾の足元にもたどり着けなかったな」

「誰が……ひとりと言った?」


 その直後──取っ組み合うリアスタンと腐肉の陰から、何者かが辺りに充満する瘴気を切り裂くように飛翔した。


「ミュリエラーっ! 後は頼んだッ! 俺の屍を越えて行けぇーーっ!!」

「果てるつもりもないくせに、よう言うのう! じゃが、そういうとこ、わりと好いておるぞ!」


 彼女は【海嘯の魔女】ミュリエラ。燃え盛るような赤毛とは裏腹の二つ名を持つ、【勇者】リアスタンの懐刀である。数々の知略と魔術の技でリアスタンを助け、【中原ちゅうげん最大の賢女】【大賢者】と呼ばれるに至った才媛。


 おとぎ話に出てくるような、傘のように大きい魔女のとんがり帽子。

 深く蒼い海の色のマントとローブ。

 それらをひるがえして飛ぶ姿は、「海嘯」の二つ名を思わせるに充分である。


 歳は二十といったところであろうか。いや、三十にも見えるし、四十にも見える。

 どのみち、余人には計りかねることであった。魔法で歳を止めているのか、子供の頃うら若い彼女と会ったと称する老人もいるのだから。


 真偽の定かでない噂が神秘性を高め、おそれは畏れを呼び、やがて恐れとなる。彼女はその恐れをすべて我がものとしているようであった。


 その【海嘯の魔女】がいま、人類の宿敵に迫ろうとしている。


 魔王城への殴り込み、一気呵成の大博打。【勇者】パーティーの面々をほとんど捨て石にして、パーティーでも最大の火力を持つ彼女を魔王の眼前へ肉薄させ、刺し違える覚悟で人類の敵を屠る作戦だった。


 その最後の捨て石が、【勇者】リアスタンその人。


「リアスタンよ! わらわが魔王をたおすと同時におぬしは【加護の極宝珠】を砕け! さすれば、おぬしは崩壊と共に爆ぜ散る魔力の余波から護られよう! 手はず通りに、な!」


 リアスタンの胸元には、赤子の握りこぶしほどの大きさの七色に輝く宝珠がぶら下げられている。


「世に二つとない超級魔導具【加護の極宝珠】……割り砕くのは惜しいな」

「惜しむなや! これ以上に相応しい機会はあるまい」

「かくの如き至宝は……可憐なる婦人を守るためにこそ用うべし」

「こんな時に気障きざを申すな! 嫌いではないがな」


 飛翔するミュリエラだが、魔王へ近づくにつれて見えない何かに押しとどめられ、速度が落ちる。魔法の素養のあるものにしか感知できぬ、この世に満ちる不思議のエッセンス──「魔力」の渦により見えない壁が築かれ、魔王を護っているのだ。


「やはり思った通りじゃ魔王よ! そなたの周囲は高濃度の魔力で充満しておる! わらわ以外の者には耐えられまいのう!」


『ミュリエラ様……魔力の濃度が常人の致死量を越えております。いかに貴女様といえど持ちこたえられるのは一ミヌータも無いでしょう』


 ミュリエラの耳元に囁くような声が届く。ビブリオティカ──彼女がまとうマントの声だ。【海嘯の魔女】ミュリエラの創り出した多目的対話型魔導具。意志を持ち、主人の求めに応じて知識を提供する、彼女だけの司書だった。


「一分か。ならば呪文を唱えてお釣りがくるのう! 充分じゃ!」


 高濃度の魔力と瘴気を押しわけ、ミュリエラは魔王の胸元へと迫る。

 そこには、魔王がこの世へ受肉するさい「依り代」となった古代の魔女の骸が溶け込んでいた。


 これこそはかつて、魔術の深奥を究め、時の王を助けて中原ちゅうげんを統一し、ついには王妃の座に上りつめながらも、さらなる力を求めて「魔の王」を我が身に招いた女──その成れの果てだという。


「お初にお目通り賜りまするぞ、いにしえの大魔導士──【黒王妃】ギュメディア陛下! 人の身に許されざるおづを請い願うた末に、衆生へ仇なす存在ものへと成り果てたるを、如何におぼし召すや!?」


 むろん、ギュメディアの骸は答えない。


『お見立て通りです、ミュリエラ様。ギュメディアの骸は魔王の依り代にして核──此処を打ち穿うがてば魔王を葬れます』

「あれを出せ」

『御意』


 ミュリエラがまとう魔法のマント──ビブリオティカから、まるで奇術師が操る手品のように、ばらばらと呪紋様を書き記した羊皮紙が落ちる。ミュリエラが予め魔力をこめて書き記しておいた、強力な防御魔法の呪文書だ。


 ビブリオティカは、ほぼ容量無限の【道具箱】としても機能するのであった。


 ミュリエラは宙に浮かび、手にした魔法の短杖に意識を集中し、術式を展開する。

 羊皮紙が舞って焼け焦げ、呪紋様だけが光の跡となって浮かび、魔王の眼前に織りなされる。それはやがて、円錐形の漏斗ろうとに似た形となって作り上げられた。


我命ず、万物を通さざる壁よイーア・ブローカ・スクパフォ、ヴァーロ・ガイスタン・アイレン……」


 魔の顕現の発祥たる【黒王妃】ギュメディアの骸は、この世でもっとも魔力の濃い場所だ。これを目前にして魔法の呪文を唱えるのは、頭から油を浴びて焚き火へ近づくに等しい。


「気が触れたか【海嘯の魔女】よ! 其処で魔法それを放てば──わぬしもリアスタンも魔力の横溢おういつでこの世から消し飛ぶぞ!」

「もとより承知の上! わらわが散った後に新しい世を作るのじゃ! 英雄として凱旋する【勇者】リアスタンがのう! 其れが為の【加護の極宝珠】じゃ!」


 哄笑しようと開いたミュリエラの口から鮮血がほとばしる。

 濃密な魔力に当てられたのだ。


「や……これは……思ったより余裕がないの。あの世で魔導をご教授ねがいたい、ギュメディア陛下。女の世間話というやつじゃ」


 このやり取りに顔色を変えたのがリアスタンである。


「ミュリエラっ! お前が死ぬなど聞いてないぞ!」

「すまぬ、騙したのじゃ」

「お前は防御魔法で身を守れるはずだったろう!?」

「流石のわらわでも、防ぎきれぬ。おぬしは女子供を見捨てん男じゃからのう……斯様かような策を聞き入れるはずがない。勇者どの、偽りの儀、許し給え」

「謝って済むか!」

「そんなことより、わらわ達をここに寄越すべく、まだ徒党の皆が道中で戦っておるではないか。彼らを助ける算段を立てよ」

「だめだ、徒党パーティーの長として命ず、戻れ!」

「一生を魔術の探求で棒に振った年増の石女うまずめにも優しい言葉をくれる。やはりおぬしは、身命を賭するにあたう男じゃのう」

「ミュリエラーーーーっ!!」

「さらば。実は、本当に好いておったぞ、こんな時に何じゃが」


 呪紋様で織りなす漏斗がついに完成する。その切っ先は、ただしく【黒王妃】ギュメディアの骸へと向けられていた。魔法の素養のないリアスタンの目にすらそれが映るのは、濃密な魔力ゆえだ。さながらそれは、魔力という霞に照らし出される霧虹であった。


 ミュリエラが意を決して、力ある言葉を声に出す。


「──≪魔径漸窄極点撃ドゥナ・ゲル・イヒ・グレゲナン・アラス≫」


 炸裂した魔力が熱と衝撃に変換されて撃ち出される。ごく基本的な攻撃魔法でしかない≪火炎波ドゥラ・エリディ・ヴーヴァ≫──ただし最大火力の──だったが、漏斗状に織り上げられた防御魔法のトンネルを通すことで一点集中させ、貫通力の高い攻撃魔法へと変化させるのだ。しかもそれは、魔王の周囲に澱む濃密な魔力のせいでさらに威力を増している。


 錐で突くように、【黒王妃】ギュメディアの骸が魔法の閃光に貫かれた。


 とたんに魔王の咆哮が、いや咆哮を意味する玉座からの魔の振動があたりを揺らす。その振動を意味のある言葉として捉えられる存在──魔物たち──は、一匹残らずただちに滅びた。リアスタンが押しとどめていた死者の群れも灰塵に帰す。


 魔王と称されていたものが抱え込んでいた、膨大な魔力があふれ出す。


 忌まわしい肉の偽造物には幾重もの亀裂が走り、崩壊の時を迎えていた。

 魔王の断末魔は人類の勝鬨であった。

 ただひとり、ミュリエラという女の犠牲をもって──


 ──そのはずだった。


 この世に二つとない超級魔導具【大加護の宝珠】──いかなる状況であろうとも、宝珠を身代わりとして所持者の身を救う魔導具──が、リアスタンの手からミュリエラに向かって投げられた。


 ミュリエラの側で宝珠が壊れ、まばゆい光が彼女を包み込む。

 宝珠に封じ込められていた加護の力だ。


「ば……馬鹿者ッ!! なんのために宝珠それをおぬしに渡したと思うておるのじゃ!?」


 ミュリエラに罵られたリアスタンの顔は、涼やかだ。


「尊敬するひとを目の前で死なせて、己が生き残ると? 栄達を得て、子々孫々栄えると? 御免こうむるよ、そんな人生」


 ほとんど泣き叫ぶように、ミュリエラは吠えた。


「駄目じゃ駄目じゃ駄目じゃ!! おぬしは生きて戻るのじゃ! わらわは……おぬしを王と見込んだのじゃあ!」

「さらば、友よ。俺もお前には──」


 ミュリエラの視界が光で満ちる。

 それから、どうやってその場から逃れたのか、ミュリエラの記憶はあやふやだ。が、一つだけ確かなことがあった。


 崩れゆく魔王城から逃れるミュリエラと仲間たちの中に、【勇者】の姿は無かった。

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