第7話

 何もなくとも時は無情に過ぎ去ってゆく。

 店長の知り合いらしき人たちが来店してから…正確には立花と呼ばれた女性が来店してから二日が経っていた。

 日曜日の今日は雨降りで、窓の外にはしとしとという雨音が聞こえてくるかのよう。店長も雨を意識してか、BGMに雨の曲を流していた。ピアノ曲のそれは優雅で雨の物悲しさをあまり感じさせない。蒸し暑い中さめざめと降る雨から逃げて、屋根の下で珈琲とともにのんびり一息ついてもらうには、ちょうどよさそうだった。

 雨のおかげか、気温もさほど高くなく、今日はアイスコーヒーよりもホットの方が良くでていた。

 とはいえ、そこはやはり雨なので客足は途絶えがちだし、全体の注文数で言えば少ないのだけれど。

「ありがとうございましたー」

 今も、ランチには少し遅いけどまだまだ稼ぎ時の13時半を回ったところなのに、たった今見送ったお客を最後に、一人も居なくなってしまった。

 たまたまといえばそれまでだし、雨の日曜日だってお客が途切れない日もある。

 今日はこんな日なんだろう、と美弥子は自分に言い聞かせるように気持ちを切り替えた。

 ……けれど、滅入る日というのは、色々と続くもの、なのかもしれない。

 今日もまた、自分のトイはカウンターの向こう端で背中を丸めて座っている。様子を一言で言うなら、しょんぼり、だ。

 何故かはお分かりだろう、店長のトイが居ないからに他ならない。

 今日も彼のトイはトックスの中、らしい。らしい、というのは美弥子が今朝、店に来た時にはもう居なかったから。そしてどうしたんですかとは聞けず、カウンターの隅を指さして店長のトイがココにいないと寂しいですね、とだけ声をかけた。けれど返ってきたのは、ごめんね、今日もなんだか眠たそうでさという苦笑だけ。

 店長本人はカウンターの中、いつもと変わらない顔色で使い終わった食器を洗い片づけている。

 トイが眠そうだというなら、自分だってそうだろうに、その気配は微塵もない。

 今までだって、定位置に座ったままウトウトしていた事くらいあったのに、どうして今更、と何度目か思う。でも聞けない。そしてまた気になってしまう。

 ええいやめ、切り替えるんでしょ、と美弥子はぶんぶんと頭を振って仕事中に考えるにはよくない思いを振り切った。

 タイミング良く、カランカランと来客を告げるベルが鳴ったのが聞こえて、パッと笑顔を作った美弥子はドアへ向かって来店のご挨拶を元気よく告げる。

「いらっしゃいませ!お一人様ですか?」

「ああ、はい…………あの、そこでも、いいですか?」

 女性の一人客は近年増えていて、ひといきでもよく見られる。カフェ巡りを趣味としていたり、一人の時間を楽しんでいたり、理由は様々だ。そのためこのお客さんもそんな一人なのかなと思ったのだけれど。……美弥子の問いかけに対する返事は妙に歯切れが悪かった。趣味を楽しむ人なら、もう少しこう…雰囲気や気持ちが少なからず上向きなんじゃないだろうか。それに……、

「こちらですか?」

 美弥子が案内するよりも先に女性が示したのはカウンターだった。しかも、カウンターの中に立つ店長をじっと見つめて、美弥子には目もくれない。

「構いませんよ、どうぞ」

 驚いた顔を見せた店長が皿を拭く手を一瞬止め、眉根を寄せた表情で返事をする。すると、濡れた傘をドア横の傘立てに置いた女性は真っ直ぐカウンターへ向かい、店長の向かいの椅子を引いて腰を下ろした。

「……あ、の、っ」

 何事かをのどに詰まらせたような雰囲気で話し出そうとした女性に、店長は手のひらを見せて、おしとどめる。

「まずはご注文をどうぞ。うちは喫茶店なんで、ご注文いただけないお客様にはお帰り願わなきゃいけないんです」

 それは嘘だった。

 雨宿りしてもらう位どうってことないというタイプの店長は、たまに酷い雨に降られたからと常連のお客さんやちびっこが入ってきても笑顔で迎え入れる。それに、何も注文しなくともまた来てくださいねと送り出すし、ちびっこには飴玉をあげたりもする。

 つまり、相手の女性はできるならお帰り願いたい人らしい。

「あ、えっと、じゃ……この、ブレンド?で」

 焦ったように女性はカウンターの上に置かれていたメニュー表を見た。そして、ぱっと目についたのだろう一番上に書かれているブレンドを注文する。

「はい、承りました。セットなどはよろしいですか?」

「そんなのいいわ……それより悟と話がしたいの」


 悟、と言った。


 店長のことを。


 先日の立花と呼ばれた女性のように阿部くんでもなく、不破のように阿部でもなく。

 明らかに親しい関係を匂わせるその呼び名に、美弥子は自分のセンサーが全てカウンターの二人に集中するのがわかった。

「落ち着けよ。俺は逃げも隠れもしないから。あと、店(ここ)で下の名前で呼ぶのはやめてくれないか」

 ずっと立ち尽くしてしまっていた美弥子をちらりと見る視線が2つ。

 店長と、女性客二人から同時に見られた美弥子は、慌てて言葉を紡ぐ。

「アッあの!お気になさらず!あっそうだ店長、私休憩入っていいですか?奥の席で休んでますから!」

 美弥子や彩矢の休憩は店の奥の席、カウンターからだと死角になる位置で交代で取るのがいつものスタイルだった。

 今なら他に客は居ないし、今日はあまり来そうにないひどい天気だからしばらくゆっくりできるだろう。

「いいよ、了解。それじゃ美弥子ちゃんの分もブレンド淹れるから、それ持ってって。サンドは好きなの作っていいよ」

「……ありがとう、ございます」

 本音を言えば物凄く気になる。

 そりゃもう、トイもめちゃくちゃ気になってるらしくさっきから微動だにしていない。あれは会話と二人の関係性がなんなのかに集中してるに違いない。

 女性のトイは入店したときからずっときょろきょろと辺りを見回していた。

 主人に続いてカウンターの上に腰掛けたけれど、どこか落ち着かない様子だ。

 ……きっと、店長のトイを探しているんだろう。

 彼らの雰囲気に、どこか居心地の悪さを感じたのか、美弥子のトイが肩の上に乗ってきた。

 すり、と頬にすりよる様子に心細さを感じた。美弥子が思っているのだから、トイもそうなのだろう。

 カウンターの中に入って店長の横をすり抜け奥に立つ。

 隣で珈琲を淹れるいい香りとコポコポいう音を聞きながら、食べたいサンドを手早く作っていく。好きなのを作っていいと許可は得た。それは好きな具材を挟んでいいという事。BLTと卵とハムサンドの3種類があるけれど、美弥子が好きなのはレタスとトマトと卵のサンド。自分専用オリジナルだ。それら3つの具材をパンに乗せてささっと周囲を片づける。

 カチャン、という優しく静かな音に隣の手元を見れば、お洒落な白いカップ&ソーサ―に入った一杯と、美弥子用マグに入った一杯が置かれていた。

「お待たせしました、どうぞ。美弥子ちゃんもはいコレ」

「ありがとうございます。それじゃ、向こうに居ますね」

 小さなトレーにサンドの皿とマグを乗せて、そそくさとカウンターを出て奥の席へ向かった。

 ここまで、女性は一言も喋らず、珈琲に手を付けてもいない。

 聞き耳をたてるのは良くないと解っている。もう何日も前になってしまったけれど、不破が来た時にもそう思ったばかりだったけど、ついつい、耳が頭が、駄目だと解っていても、店長の声を聞こうと働いてしまう。

「それで?今更何の用だ?」

 珍しい。彼のあんなにも呆れたような突き放したような話し方は、美弥子はほとんど聞いた事が無かった。

 過去に一度、自分に向けられた事があった。

 あれは確か正社員一年目、店長が気に入ってくれたいいなと、ほんの少しだけ香水を着けてきた時だったろうか。おはようございますも言わせてもらえず、厳しい目を向けられ、直ぐに帰れと呆れた声と有無を言わせない圧力に、何も言えなくなってしまった。

 それ以来、きちんと反省し、人工的・自然の物を問わず、香りがするものは一切手を出していない。

 その時くらい、彼の中で今日、カウンターに座る女性が来た事は、歓迎できない事のようだった。

「……謝りたかったの。あの頃、ずっとあの子が、トイがべったりしていた事に嫌気がさして、あんな、酷い言い方で悟を傷つけたこと」

 ぽつりぽつりと女性が話し始めたのは、おそらく、二人が……お付き合いされていた頃、の事なのだろう。

 皿にのったサンドは美弥子の一番お気に入りの具材だけれど、食欲なんてまるでわかなかった。

 けれど、食べなければこの後の仕事中保たないことも解っていたし、視界に入るだろう店長にだって怪しまれる。

 しかたなしに、両手で美弥子オリジナルのサンドを口に運んだけれど、味なんてちっとも感じられなかった。

「それこそ今更、だな。それで?それだけ言いにきたんじゃないんだろ?」

「あの頃は若かったし、そんなにくっつかれるのも気恥ずかしさとかあったのよ。いつでもどこでも抱きつかれてうんざりしてたのは本当だけど、でも、今になってトイと悟の気持ちがわかるようになってきたの……悟と別れたあと、何人かと付き合ったけど、みんな気の合う人だけどあっさりしてて、どこか軽くて。悟が一番私への愛情を示してくれてたんだって解ったのよ。私たち色々と相性は悪くなかったでしょう?もう一度」

「ストップそれは今こんなとこでいう事じゃないだろ」

 さっきよりも厳しめの店長の声で、制止がかかる。

 もはや二人とも声をおさえる余裕はないのか、奥の席にいる美弥子が耳を澄ませなくても店中に響き渡ってしまっていた。

「っ、ねぇ、あの子は?今どこにいるの?トックスの中はずっと入れてちゃよくないんでしょ」

「出して来たらいいのか?」

「お願い。トイだって、私のトイを見たら気が変わるんじゃないかしら」

「……はぁ……そんな事はありえないと思うけどな。待ってろ、連れてくるから」

 連れて、くるんだ。

 あの人がお願いしたら、出してきてあげるんだと、今日何度目かのショックに美弥子は打ちひしがれる。

 美弥子の肩に座ったままだったトイもなんだか泣きそうな顔だ。

 あの人は恐らく、まず間違いなく、店長の元カノ。それで、ヨリを戻したくてやって来たに違いない。

 美弥子がトイはどうしたのかと聞いても、疲れてるみたいだからトックスで休ませてるとしか言われないけれど、あの人は違った。

 しまっている子を連れてきてあげる程には親しくて、心を許しているように思えて、自分との違いを思い、美弥子の瞳には涙が浮かんできてしまう。

 まだ店があるから泣く訳にはいかないと、美弥子は気合で零れそうになる涙をおしとどめた。そして、もしや化粧がくずれてやしないかと、休憩に入る際に一緒に持ってきていたバッグの中から鏡を取り出して目元をチェックする。そのタイミングで、店長がバックヤードに続くドアを開けて戻ってきた音がした。

「ホラ。久しぶりだし、ちゃんとご挨拶しろよ」

 偶然、である。

 これは本当に。

 言い訳をさせてほしい。

 自分の顔を見るつもりで鏡を出したのであって、決して見るつもりなんて無かったのだ。


 けれど、見えてしまった。 

 カウンターの上、元カノのトイが悟のトイの前に立ち、じっと彼のトイを見つめる様を。

 そして、真剣な面持ちで見つめ合うトイ。元カノのトイは両手を広げているようにも見える。

 いくらかの時間がたった後、店長のトイが、はぁ、とため息をつきながら元カノのトイの頭を撫でる様子も。

 

 それはもう、ショックだった。

 

 出そうだった涙も引っ込むほどに。美弥子は気にしたら負けだと、何と勝負しているのかも考えられぬまま、鏡を閉じ、耳と目を強制的にそらした。

 残っていたサンドと珈琲を無理矢理に喉の奥へ押し込めて食べ終える。

 どこか遠くの方で、これ以上はここで話す事じゃないだろ、と閉店後に部屋へと誘う店長の声が聞こえた気がした。


 その日は、その後、どうやって仕事をして家に帰り着いたのかも、解らなかった。

 気が付けば、傘でかばいきれなかったびしょぬれの足元を見ながら、自分の部屋の玄関先で、涙を流して立ち尽くしていたのだった。



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