第4話

「いらっしゃいませ!」

 カランカラン、というお馴染みのドアベルの音がしてすぐに、彩矢の気持ちの良い挨拶がかけられる。

「お一人様ですか?カウンターでもよろしいでしょうか?」

「ああ。それでいいよ」

「ではこちらへどうぞ」

 奥のテーブルへランチのセットを運んでいた美弥子は、後方から聞こえる彩矢の声に耳をそばだてつつも目の前のお客への礼は欠かさない。これくらいは接客を生業としていれば慣れてくるものだ。

 聞こえた声は若くもなく年でもなさそうな男性のものだけれど、聞き覚えのないものだった。常連の誰でもなく、初めてのお客様かな。

 ごゆっくり、と声をかけてテーブルを後にしてカウンターの中へ戻りながら、四席あるカウンターの一番端へ座った人物を失礼のないように観察する。

「ご注文がお決まりになりましたらお呼びください」

 見たところスーツ姿のサラリーマンで、年は30から40手前というところだろうか。

「んー、じゃあランチのセットで……ブレンドとハムサンドにしよっかな。お願いしまーす」

 こちらの声かけに対してサッと注文を決めてくれる辺りは好感が持てる。最後の一言が自然とつけられる事も。単に昼休憩の時間がないだけかもしれないけれど、決められない人はあれこれと悩んでは結局どうしようかなと時間ばかり浪費するから。それだけで飲食店の店員としては好感度が2割増しだ。最後の一言だって、普段から言いなれていないと出てこない。きちんと相手が自分のためにしてくれる、ということを解っていて頼むんだと理解しているか、それが当たり前だと思っているということ。この当たり前が出来てない人って意外といるんだよね。と美弥子は少しだけ嬉しくなった。

 男性がカウンターの奥の端に座ったことで、自分のトイはどこへいったかと思ったけれど、美弥子のトイは、カウンターの入口側……いつもの定位置である奥側ではなく、普段なら店長のトイが座っている所に居た。

 どうも、ここ最近店長のトイがトックスに入れられてしまう事が増えたからか、美弥子のトイが同じ位置に座るようになった。本人としては、店長のトイが居ない代わりに私が店内を見守るわ!とでも言いたげだ。それか、単純に彼のトイの居た場所に座って、少しでも近くに居たいという気持ちでもあるのだろうか。どちらにしても、美弥子としては少々恥ずかしいのだけれど、まぁ、トイがそうしたいのなら止めても仕方ないと解っているので、したいようにさせていた。この子の気持ちは私にはわかんないしね。

 男性のトイはというと、頭の上に座っている。よくある定位置の一つだ。彼のトイは店内をきょろきょろと見まわしたあと、美弥子のトイと目が合って、にっこり笑っていた。うん、イイ人っぽい。

「かしこまりました、少々お待ちください」

 良い印象を抱くと、それがそのままついつい顔と声に出てしまうのは仕方がない。ついでに新規のお客が足しげく通うようになってくれればいいなと、美弥子は笑顔を出し惜しみせずに振り撒いた。

 彩矢は別のテーブルに呼ばれていて出払っていて、店長もちょうど裏へ引っ込んでしまっている。ならば相手をするのは美弥子しかいない。

 けれど、相手が話をしたいタイプかどうかで変わってくるので、まずは静かに注文の品の用意にとりかかった。

「ねぇ、ここの店って大分前からやってんの?」

「そうですねぇ、今の店長になってからは6年目らしいですけど、その前はお歳のマスターが大分長い事やってらっしゃったみたいですよ」

 どうやら話したがりのタイプだったらしい。ならば、他の客の迷惑にならない程度に相手をするのが店員の務めである。美弥子は声量を落としつつ、当たり障りない返しをした。

「ふぅん、いつもは駅の向こうばっかりだったから知らなかったな」

「ご来店いただきありがとうございます」

「こんな可愛いコがいるんだったらもっと早く知りたかったなー」

 しまった、ナンパな類だったか。ならばもう少し愛想を減らさなきゃ。そんな風に美弥子がこの後どう返すか考えた時だった。

「不破、か?」

 店長の声が美弥子の後ろから聞こえてきたが、その声は誰かを形容している。

「は?誰だ……って、オマエ阿部か?は?!まじで?」

「バカ野郎、声がでかい。皆様大変失礼いたしました」

 ガタン、と勢いよく立ち上がり声をあげた男性は、驚きからか目を見開いている。キーンと耳に響きそうな程の声量では簡単に店内に行き渡ったことだろう。店長は不破と呼ばれた男性を諫めつつ、埋まっているテーブルのお客様達にお詫びをいれた。

「悪い、いやでもしょうがなくねぇ?」

「わかるけどな。悪い、こっちも驚かせちまった。ホラ座れって」

 裏へと続く扉を後ろ手で閉めた店長が、美弥子の隣までやってきて不破と呼ばれた男性を着席させる。まだ何も出してなくて良かった。お冷はあったけど、零れはしなかったらしく被害はない。ほっと一息ついた美弥子をよそに、二人は軽快に話し始めた。

「しっかり久しぶりだな、何年振りだ?」

「お前がウチをやめて以来だから、6年だよ。なんだこんなとこに居たのか」

「こんなとことは失礼な、大事な俺の店だぞ」

「お前の?え、マジでか。あ、じゃさっきその子が言ってたここの店長って阿部のこと?」

 不破は美弥子へ視線を向けて、ついさっき交わした質問への答えに含まれていた店長が、横に立った男であることを理解したらしかった。

「ええ、そうです」

「何、コイツになにか聞かれたの?」

「ここがいつからあったのかと聞かれましたので、店長になってから6年らしいですよ、と」

「ああ…なるほど。そーだよ、会社辞めて、ここを以前のマスターから譲り受けたんだ。良い店だろ?」

「まじか…全然知らなかったのすげぇ悔しいんですけど。なんだよこんな良い店いつ知ったんだよ」

「昼休憩でしょっちゅう来てたんだ。マスターの珈琲が旨くてさ。あ、不破お前注文は?」

「先ほどいただきました、ランチのセット、ブレンドとハムサンドです」

 美弥子は手元でハムサンドを手際よく用意しながら、店長に告げる。

 サンドやデザートは美弥子と彩矢もできるけれど、珈琲を淹れるのは彼の仕事だ。ちなみに美弥子は時折練習しているものの、全然上達がみえない。センスがない、と諦めるべきか迷っているけれど、それはまた別の話。

 目の前のお客様が店長の知り合いだろうと、おまたせして良い理由にはならないので、二人の会話が途切れるタイミングを待っていた美弥子だけれど、うまいこと店長自身が話題に出してくれて助かった。

 話題に出した、というよりも、その前の話題から転換させたかったのかもしれないけれど。

「了解、お客様少々お待ちください」

 少し畏まった言い方をして、一旦会話を終わらせた店長は、豆やカップ、フィルターの用意を始め、手際よく薫り高い珈琲を淹れ始めた。

 ふわり、と立ち上る、お湯を入れた最初の香り。

 カウンターに座っていた不破にも届いたのか、じっと店長の手元を見つめていた視線が眇められた。

「いいな……うわ、めっちゃ美味そう」

「美味いんだよ、大人しく待ってろ」

 コポコポとお湯を注ぎながら、褒められたことで嬉しそうに口角を上げた店長が言う。

 本当、どうやったらそんなに美味しく淹れられるの。

 美弥子は出来上がったハムサンドを皿に乗せてカウンターに置きながら、店長の手元でカップに注がれていく褐色の液体を見つめた。

 待ってろ、と言われた不破は、真剣な目つきになって手元を見下ろす店長の雰囲気に何かを感じたのか、それ以上は何も言わず、言われた通り大人しく待っている。

 ソーサーに乗せられ、カチン、という音と共にハムサンドの隣に置かれたブレンド珈琲は、良い香りを漂わせた。

「ほい、おまたせ」

「おう、楽しみだ。頂きます」

 唇を湿らせて待ってましたと言わんばかりに珈琲とハムサンドの皿を自分の前に置いた不破は、きちんと手を合わせる。うん、好印象はここでもしっかりある。基本的には悪い人じゃなさそう。ナンパっぽいけど、それを除けば、ね。

 けして静かすぎるわけではない店内のはずだけれど、店長も、美弥子も、なんなら美弥子のトイも、珈琲のカップに口をつけ、一口啜った不破の動向をじっと見つめてしまう。

 窄められた口先が、一瞬固まって、表情がわかりやすく変化した。

「…………ぅ、っま……。まじで?え、めっちゃんまいな?!」

 その一言を聞いて、隣に立つ男の目じりが下がり、口元があがる。

「だぁから言ったろ?『美味いぞ』ってさ」

「くぁ……やられた、阿部のくせに〜〜」

 やられた、と口では言うけれど、その評定は清々しく晴れやかに嬉しそうだ。よほど気に入ってくれたらしい。自慢気に嬉しそうに笑う店長の顔と声を聞いて、美弥子も自分ごとのようにつられて嬉しくなってしまった。トイなんてわかりやすくホッとした顔をしてる。

 あーダメだなぁ、こんなにわかりやすくしてちゃ。ん、でもお店の商品を気に入ってもらえたってことなんだし、喜んでも別におかしくはない…よね?そういうことにして欲しい、と美弥子は接客用の笑顔に戻しながら内心でとても喜んでいた。

「くせにってこたないだろ、正直に褒めてくれていいんだぜ」

「あーはいはい、美味いよ。ほんとに。凄いなお前……」

「別にどってことないさ、ずっと淹れてりゃ、こうなる」

 そうはならないと美弥子は身をもって知っている。

 これだけ上手に珈琲を淹れられる店長だって、店が閉まったあとに試行錯誤しているのを何度も見ていた。

「なわけねーだろ。わかるよそんくらい」

「ん、ありがとな」

 気安い言葉の中に紛れ込む、心からの賛辞に店長は目元を綻ばせる。

 互いに良く知っている者同士の空気が流れて、互いに目くばせをしてからふはっと笑いが零れた。一区切りついたところで店長は片付けを始め、不破はハムサンドに手を伸ばした。


 あまり傍にいて見知った二人の会話の邪魔になってもいけないので、美弥子は少し離れて洗い物や他の接客を探す事にして場を辞した。

 昼どきだし、別のお客から手があがることはいくらでもある。彩矢もいるけれど、追加注文やレジ業務、テーブルの片付けと新規客の案内など、雑務は次から次へやってくる。いくら小さい店とはいえ一人のお客にだけかまけている時間はないのだ。

 店長と自分の知らない頃の彼を知る人、という組み合わせの会話は確かに気になるけれど、それは接客をするうえで要らない要素でしかない。

 それに、美弥子はそれを聞いていい関係性でも、ない。

 自分で思って、ズキンと胸が痛んだけれど、当たり前でしょ気にしてちゃ駄目よと自分を叱咤してカウンターに座る不破の事は頭の隅から追いやった。

 けれど、背後から聞こえる声がどうしたって耳にはいってしまうのは仕方がないと目をつむってほしい。

「あれ、お前のトイは?」

「ああ、今ちょっとな」

「ふぅん?なにまたぺったり病?」

「それやめろ。まぁ、そんなとこ」

「ふーん……相変わらずだな」

「ほっとけ」

 ぺったりびょう、とはなんだろう。トイの話題なのだから、トイに関する事だろうけど、そんなワード聞いた事も見た事もない。

 市役所で成人の儀の後に貰った簡易説明書にも、そんな単語はなかったように思う。何かトイだけがかかる病や具合の悪い症状でもあるのだろうか。もしもそうだとしたら店長のトイが心配だけれど、ご主人である店長はまったく心配してる風でもなく飄々としている。ならばそこまで気にするほどでもないのか。

 知らない事を、忙しいこの時間に考えてもキリがない。美弥子は聞きなれないワードが気になって仕方なかったけれど、頭を振って意識を切り替えた。 


 昼休みの時間というのは大体どの企業でもおよそ一時間ほど。

 そうなると、店内で休憩をとれる時間は行き帰りの時間を鑑みても多くて4~50分がせいぜい。

 13時を過ぎれば店内でランチに舌鼓を打ってくれていたお客達もぱらぱらと引き上げ始め、代わりにやってくる客はその数を減らす。

 本日のひといきの客足も、大分落ち着き始めて、店内にはあと3組の時間の余裕がありそうなお客様とカウンターに座る不破のみとなった。

 レジで制服姿のOLの支払いを終わらせた後、ささっと店内を見まわした美弥子は、何の気なしに視線を向けた先で不破と目が合った。

「うし、じゃそろそろ行くわ」

「おー、気を付けてな」

 ゆっくり立ち上がった不破は来た時と同じようにトイを頭の上に乗せたままだ。少しだけ寂しそうに見えるのは、店長のトイと遊べなかった不満ゆえだろうか。

「あ、ちょっと待て」

 何かに気が付いたらしい店長は不破へ声をかけて待たせると裏へと続くドアをくぐり、いくらも経たずに戻ってきた。

 その手の中には少しだけ眠そうに目元を擦っている店長のトイが抱えられていた。

 目をしぱしぱと開こうとしているそのトイを見た不破のトイは、頭の上からひょんっと飛んで店長の手の中へ突っ込んでいく。

 そしてがっくがっくと聞こえそうなほどに店長のトイの肩を掴んで揺らし、自身を見させたあと、ちゃんと認識して驚いたように目を見張った店長のトイとハイタッチを交わした。 こういうところ気が利くんだよなぁ。

「いいのか?」

「折角会えたんだ、こっちも話がしたいだろうさ」

「そうだな……なんか楽しそうにじゃれてやがる」

「前からだろ」

「いえてる」

 男二人が手の中でじゃれるトイを見つめる、というのは端から見たらシュールかもしれないが、微笑ましいその二人の視線は決して悪いものではなかった。

「おっとそろそろ時間がやべぇ、お会計お願い」

 腕時計を見た不破はにわかに慌てだした。時刻は13時20分になろうとしている。かなり走らないと間に合わないかもしれないのではないか。

「800円になります」

 美弥子は慣れたランチの金額を告げ、レジを打つ手元を見た。が、店長の待ったがかかった。

「500円でいいよ。その代わりまた来い、いいな?」

「っだぁ、言われなくても来るっつの!さんきゅ!」

 時間に追われてる相手に条件を突きつけるのはいささか良くないとは思いつつも、不破も笑っているから元よりそのつもりではあったのだろう。

 美弥子は差し出された500円硬化を受け取り素早くレシートを打ち出して不破に手渡した。

「ありがとうございました」

「気を付けてな」

 カランカランカランと慌ただしく駆けてゆく背中を見送って、ふうと一息つくと、後ろから声がかかる。

「賑やかな方でしたね」

 彩矢は店長が不破にかかりきりになっていた分、美弥子と二人で店内を見てくれていたが、それでもきちんと不破がどんな人物か目を光らせていたらしい。彼女もかなり接客業務に慣れてきたものだと感心してしまう。

「そうだなぁ、俺がここを始める前と全然変わってなくて逆に驚いたよ」

「それじゃ人気があるんじゃないですか?」

「会社の女子たちにはそこそこ人気だったと思うよ。バレンタインのチョコとか、袋で持って帰ってたんじゃなかったかな」

「わぉ、それはすごい」

 美弥子がおどけて言うと店長は苦笑していた。

「それなりに手を出してたっぽいから、まあアイツはそーいうやつって事だな」

 ふぅん、と彩矢と美弥子は相槌を打つにとどめてドアの外を一度見るに留めておいた。しばらくして店の奥からすみませんと声がかかり、彩矢はそちらへ向かってくれた。

 追加があるかな、と頭の隅で思ったけれど……それよりも、美弥子は今とても気になることがあった。

「店長、あの、その子離してあげないんですか…?」

 ついさっきまで不破のトイとじゃれていた店長のトイが今、店長の手の中で……なんというか、しっかり捕まえられて?いるのだ。

 端から見るに、店長の手の中でじたばたともがいていて、自由になりたそうにしている、のだけれど。

「あー、いや、大丈夫。遊びたりなかっただけだろうから。まだ本調子じゃなさそうだし、またしばらくトックスにしまっとくよ」

 気のせいか、カウンターの端に座る美弥子のトイを見ている気がする。助けてほしいのかな。でもご主人たる店長の意向は絶対よねぇ。

「あの……差し出がましいようですけど、あんまりトックスに入れすぎるのも良くないって聞きますし、しばらく出しててあげても良いんじゃないですか…?」

「うーん、なんかこのまま離すと遊び足りないって騒がしくしそうだし、やっぱりしまったほうが良さそうかな。店が終わったら出しても平気でしょ」

 そうまで言われてしまえば美弥子には何も言うことはない。

「そう、ですか」

「うん、ちょっと入れてくるね」

 どこか余所余所しくそう言った店長は、彼のトイをまたトックスへしまいに裏へと続くドアの向こうへ姿を消してしまったのだった。


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