第2話

 美弥子は、ここ喫茶『ひといき』で働いて、もう5年目になる。

 大学3年の時にバイト募集の張り紙を見て、キャンパスからの近さや条件の良さで応募した。

 最初は全くひといきの事を知らなかったけれど、二週間もすればある程度慣れてくる。

 ご近所の常連さんが多い事。そこまで駅近という訳ではないのに、ランチの時間は程々に混みあう事。メニュー数も多くはないけど、ボリュームがあるのでそれ目当てに来てくれるお客さんが多かった。

「彩矢ちゃんも優斗さんもとりあえず座りましょ。今日はカウンターにします?この時間だし、軽食はナシでしょう?」

「そうですね、いつものブレンドで。それじゃ店長さんの前しつれいしてもいいですか?」

「はいはい、いいですよ。こいつの相手もしてやってくれる?」

「私はウインナーコーヒーでお願いします。この子っていつもここに座ってますよね、可愛い~。こちらこそ、お喋りしてあげてくれるかな」

 店長がこいつと呼び彩矢が話しかけたのは店長のトイだ。カウンターの端に座るその子の頭を撫でて、彩矢達へ示している。

 トイに接客させる事でとりあえずの時間を手に入れた店長は、豆の準備にとりかかった。それと気付かせない話術と慣れた手付きは美弥子が手に入れたいものの一つだ。

 そして、店長の淹れる珈琲の美味しさもまた、ひといきの魅力の一つ。

 いや、仮にも喫茶と名乗っているのだし、そちらが主だと言うべきだろうか。

 美弥子はバイト初日に、まずは飲んで欲しいと言われてブレンドを頂いて……深いコクと酸味と苦味と……珈琲にはあまり詳しくなかったから上手く表現できないけれど、とにかく缶コーヒーなんて目じゃない程に驚き、美味しい、といつの間にか口からため息と共に零れ落ちていた。

 その美弥子の感想を聞いた店長は、口元を緩めて、年齢に見合わず少年の様に嬉しそうに笑ったのだった。

 優斗と彩矢も、常連の皆様も、いつも一口くちに含むと、頬が綻んで温かい嬉しそうな表情に変わる。その顔を見るために、カップを片づけているタイミングだったとしても、珈琲を運んだ後はしばらく店内側を向いている事を美弥子は知っていた。飲んだ人達の緩んだ表情を見て、店長の頬も緩む事も。



 美弥子はバイト二年目の進路に迷っていた頃、やめるかもしれないと店長に溢したことがあった。当時ひといきのバイトは美弥子のみで、それはつまり店長が一人で店を切り盛りすることになる。

 そんな、大変な状況にさせてしまうかもしれない事は勿論美弥子だって心苦しかったけれど、美弥子にだって事情があった。就職活動だ。

 大学の4年。本当なら3年のうちに当たりをつけ、説明会へ参加し、顔を覚えてもらい、と足しげく色々と通う必要があったけれど、バイトに慣れる大変さと心惹かれる企業が無かった事を原因として、本気で取り組めずにいた。

 美弥子だって、真面目に取り組まないと卒業後の生活に関わってくると解っていたけれど、気が乗らない惹かれない企業へ就職したところで机に向かってパソコンを叩いてもなぁなぁでしか仕事にあたれないのは見えていた。

 それよりかは、ひといきで常連のお客さんとお喋りをし、慣れてきた軽食の用意やデザートの用意をし、と一日がくるくると回るような楽しさでキラキラと輝いていた方が楽しそうだった。

 そうか、ひといきに就職したらいいんだ。

 唐突に思い至った。むしろここに至るまで何故考えなかったのかとすら思ったし、それはこれ以上ない名案に思えた。

「店長、私をここで雇ってください」

「へ……?何言ってるの美弥子ちゃん、きみとっくにうちのバイトでしょ」

「違いますよ、正社員として、です」

「はぁ?」

 あっけにとられたように美弥子を見つめ食器を拭く手を止めた店長に、ふふんと小生意気な笑みを浮かべた美弥子はまだ若かったな、なんて今になって思う。

「私ホラあと半年もしたら卒業なんです。まだ内定なんにもなくて、就職したいとおもう企業もないんですよ。そしたら、ここがあったじゃないですか!私以外バイトいないし、私がよそに就職しちゃったら店長一人きりで毎日は大変でしょう?お買い得だと思いません?」

「うーん……でもねぇ、バイトと正社員じゃ扱いが変わるんだよなぁ。雇う側も色々大変なんだよ?そう簡単には決められないって。」

 ちょうど来客が途切れたタイミングで、店内には店長と美弥子しかいないため、体裁を取り繕う必要はなかった。言い募る美弥子へ向かってしかめ面を見せた店長は、少し迷った風を見せながら頷く姿勢は見せなかった。

「それじゃ私いなくなってもここやっていけるんですか?店長一人で?」

「またバイトさん雇ったらいい話でしょ。美弥子ちゃんしっかり就職活動しないとこの先困るよ?」

「今まさに就職活動中だから大丈夫」

「……それで?」

 胡乱な店長の視線は、茶番にいつまで付き合ったらいいんだ、というものだろう。けれど、美弥子にしてみたら茶番ではなく、真面目な話なのだ。真面目に受け取ってもらわねばならない。

 美弥子はカウンターの椅子に腰かけていた身を改めて、店長の正面に背筋を伸ばして気を付けの姿勢をとり、口を開いた。

「関美弥子です、大学4年、来春卒業見込みです。こちらでの接客は楽しく、また不都合なく出来ていると思っています。接客以外の雑事も慣れましたし、新しい人を雇うよりも私がこのまま継続できた方が、店舗のためになるかと思います。さらに店舗のサービス向上と集客のために何ができるかを模索していきたいと思っています。どうぞ御一考のほど、よろしくお願いいたします」

 ピシリ、と腰から折って大仰な程に下げた頭を、店長がどう見ていたのかは解らないけれど、かすかにため息が聞こえたのはわかった。僅かに震えた声に気付かれたろうか。やはり、こんな攻め方では無理だったかもしれない。そう思っていた美弥子の頭に、少し硬い店長の声がかかった。

「……期待以上の働きを、見せて頂けると思って構いませんか?」

 どくり、と心臓が跳ねた。

「っ、ハイ!勿論です!」

「わぁかった、解ったから頭上げてくれる?むず痒くなってくるから。あーあ、色々調べなきゃなぁ」

 結果として、美弥子は押し切る形でひといきに雇ってもらう事が決まり、諸々の書類を書いて、正式に雇い主と店員という関係になったのだった。



「ん~、いい香り~……うん、甘くって美味しい」

「はぁ……うまい」

 美弥子が過去に想いを馳せている間に、彩矢と優斗の注文は出来上がったらしい。二人は湯気の立ち上るカップ(片方は真っ白なクリームが乗っていて解らなかったけれど)に口を付け、それぞれに幸せそうな顔を見せている。

 その二人の顔を見て、店長の口元がまた僅かに綻んだ。この顔を見逃したくない美弥子としては、お客へカップを届けた後すぐは何をしていても視界の端に店長の姿をいれるようになってしまった。もはや日常の一部と言ってもいい位に。

 そんな美弥子を見ていた彼女のトイは、すすすと寄ってきて、すり、とカウンターに置いた美弥子の手に擦り寄ってきた。

 素敵よね、わかるわ。そんな感じだろうか。

 美弥子は指先でちょいちょいと擦り寄るトイの頬をつつく。アナタだって店長のトイを見てるでしょ。

 美弥子が視線をカウンターを挟んで対峙している三人に戻しながら、ふう、と吐いた溜息は思いのほか重みがあった。

「ありがとうございます」

 見られている事なんて気にすらしてないだろう店長はすぐに接客用に整えた笑顔で二人へお礼を言って、カウンター内の片付け作業を始める。

「美味しいわよねぇ、あたしもバイト初日に淹れてもらったブレンドで、ずっとここで働こうって思ったもの」

「へぇ?」

「すいません嘘です、でも美味しいって思ったのは本当」

「わかります、美味しいですよね」

 美弥子は店長を見ていると気取られぬように、彩矢と優斗へ向かって話しかけながら、さっきまで思い出していた、ひといきへの就職が決まったシーンをもう一度思い返していた。

 あの時店長に言わなかった、ひといきから離れたくない理由が一つあった。

 何のことは無い、ほのかな恋心だ。

 他所へ就職して、もう来なくなってしまうんだな、と思った事でやっと自覚した、離れがたい思い。

 でもそれは、店長がにべもなく断ってくれたらきっぱり諦めようという程度のもののはずだった。

 そこからすくすくと育ってしまう事は……予想の範囲内だったけれど、胸の奥が焦れて焦がれてしまう程育つとは思ってもみなかった。

 そのうち飽きるか、お店にやってくるお客様の中にいい出会いがあるかもしれないと思っていたのに。

 飽きずに三年目を迎えてしまった。


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