第21話

「ん……あれ、よーくん……?」


 日和子が目覚めたのはすっかり夜になってからだった。ベッドの中に俺がいないことに気付いたのか、上半身を起き上がらせた日和子はきょろきょろと周囲を見回す。近くに立っていた俺の姿を見つけた彼女は安心したように柔らかく顔を輝かせた。


「よーくん、おはよぉ」

「まあ、夜だけどな。もうちょっと寝てていいぞ」

「よーくんは?」


 寝起きで舌が回っていないのか、ふにゃふにゃとした声で言いながら日和子は目をこすった。俺は彼女の頭に手を置いて笑いかける。


「ちょっとコンビニ行ってくる。何か買ってくるか?」

「よーくんが私を想って選んだものならなんでもいいよぉ」

「選択肢絞れねー」


 何選んでもそうなっちゃうだろ。

 くすくすと日和子が笑う。俺は彼女のそんな様子を見て息を零した。日和子がぽすんとベッドに身を横たえる。元からうつらうつらとしていた日和子は、すぐに二度寝に移行した。俺はそれを見てから部屋を出る。廊下に置いていた鞄をさっと取った。

 俺はエレベーターのボタンを押したが、待ちきれずに早足でマンションの階段を降りた。じっとしていることに耐えられなかった。

 空には薄く雲がかかり、月の光もぼかしていた。縁起が悪く薄暗い。俺は歩をモールの方へ向けて進めた。日が沈んでいるのに下がりきらない気温のせいか、はたまた緊張のせいかじっとりと手が汗で湿っている。鼓動が早い、それに合わせて自分の歩調も少しずつ早くなる。

 俺は肩からかけた鞄を指で軽く撫でた。薄い布はその下にしまわれ物の感触を透かす。鋭く息を吐いて腕時計に視線を落とした。時間にはまだ余裕がある。意識をしてゆっくりと歩くようにしたが、脚がもつれてしまいそうだった。

 モールへ向かう住宅街は、今日も相変わらず閑散としている。まるでこの世界から自分以外の人間が死に絶えてしまったかのような気分だ。だが、それでいい。

 俺はその中にぽつんとある寂れた公園の入り口に立った。街灯の下に一人の女性が立っている。黒い髪が光の下で美しく輝き、白い肌は血の気がなく透き通っている。公園の土を踏むと同時、彼女は俺のことに気がついて顔を上げた。


「待ってたわ、堤くん」


 水戸先輩は何一つ怯むことなく、不審に思うこともないように悠然と微笑んだ。


「突然呼び出してすみません」

「いいえ、いいの。堤くんなら大歓迎よ」


 彼女が一歩こちらに踏み出してきたので、俺は歩みを止めた。街灯の光を斜め後ろから受ける彼女の表情は逆光の効果もあってどこか禍々しく見える。

 俺は息を吸った。不自然に見えてもまずは心を整えたい。


「日和子さんは元気?」

「おかげさまで……先輩もお元気そうですね」

「そうなの! ここ最近毎日楽しくて仕方がないわ!」


 くるくると水戸先輩が舞い踊るように回り、スカートの裾が翻る。本当に楽しくて仕方がないのだろう。その姿は無垢な精霊のようにも見えるが。


「調査は捗ってますか」

「当然よ、私は一歩ずつ真理に近付いている! これまでの人生はなんだったのかしら!」


 それは重畳なことだ。俺は覚悟を決めて一歩彼女に近付いた。風が吹いて、彼女の髪が巻き上げられる。清らかな破滅の香りがした。


「先輩の望む、異常にはなれましたか」


 俺の言葉に水戸先輩はうっそりと笑った。


「ええ、選ばれたのね、私は」

 何に、の言葉は必要ない。視線は全てを曝け出しあった。怪異を産み出したのは、彼女の狂気だ。そしてその狂気をこそ怪異と呼ばずしてなんと呼ぼう。

 彼女こそが日和子を傷つけている原因だと俺は断言する。

 もう躊躇はなかった。鞄から包丁を取り出し、水戸先輩に突進する。こういうときは大きな叫び声が出るものかと思っていたが、掠れた息しか喉から溢れなかった。

 全てがどうなってもいい。日和子が幸いであるためには。


「無駄よ」


 だが、刃は届かなかった。

 否、衝撃はあったのだ。捕らえたと思った。だが、知らず知らずのうちに瞑っていた目を開き手元を見ると、黒い靄のようなものが刃を阻んでいた。

 顔を上げれば、水戸先輩が目を細めて天使のように、悪魔のように笑っている。

 先輩が俺の手首を掴んだ。そのまま骨が折れそうなほどの力でギリギリと引きはがされる。額と額がくっつきそうなほどの距離で水戸先輩が囁く。


「言ったでしょう、私は選ばれたの。そして貴方は選ばれていない」


 強い力で振り払われ、俺は尻餅をついた。包丁が明後日の方向へとすっぽ抜けた。先輩が俺を見下ろしている。街灯の光を背中から浴びてきらきらと光の粒子をまき散らしている。

 反射的に殺されると思った。巨大な獣が目の前で口を開けていたらこんな気持ちになるだろうか。


「貴方に私の邪魔をする権利はないわ」


 水戸先輩の身体の上を黒い影が這い上っていく。先輩の全身を覆った影は、大きく膨れあがると新たなシルエットを先輩の背後に産み出した。

 どろどろと、肉片をこねて固めたような巨大な怪物。頭から二本のパーツが伸びていることから、俺はとっさにウサギを連想した。

 ゾンビのウサギだ。だが、そこに可愛らしさはない。

 俺は反射的に地面を転がるようにして距離を取った。砂が口の中に入って気持ち悪い。

 その次の瞬間、さっきまで俺がいた場所をウサギの攻撃がぶち抜いた。地面が揺れ、土煙が舞い、俺は前後不覚に陥る。


「見なさい、これが私の力よ」


 あはは、と新しいおもちゃを買ってもらったような笑い声に邪悪なところはない。ただ純粋に自分の力を見せつけたいだけなのだろう。だがこちらとしてはたまったもんじゃない。

 先輩が腕を振るたびにウサギも腕を振る。楽しそうに身を翻すごとに鞭のように耳がしなる。無邪気な動作の一つ一つが破壊を産む。

 俺はかろうじて体勢を立て直したが、その時にはもうウサギが前足を振りかぶっていた。

 あ、やばい。

 そう思った次の瞬間ふわりと身体が浮いた。


「よーくん!」


 ああ、この声を聞くのは二度目だ。反射的に安心してしまう。


「日和子……!」


 俺の身体を抱えた日和子は、そのまま公園の入り口付近で着地した。突然の乱入者に水戸先輩は目を丸くしているが、それで余裕が崩れた様子はない。その証拠に、追撃を加えることなく数メートル先から楽しげに俺たちを見ている。

 俺を地面に下ろした日和子は、眉間にしわを寄せ俺と向き合った。その表情はどこか泣きそうにも見えたので、心が罪悪感で痛む。


「助けに来たよ」

「ああ…………ごめん」

「言いたいこと、いっぱいあるけどそれはあとね。危ないからよーくんは……」


 と言いかけて、日和子は口を噤んだ。しばらく言葉を選ぶそぶりを見せてから、俺の手を握る。


「危ないかもしれないけど、近くにいてよ。その方があたし、頑張れるもん」


 久々に見せた、わがままを言うときのあどけない表情。俺はきっとぐしゃぐしゃになった顔で「わかった」と頷いた。


「絶対に離れない」

「うん、ありがと」


 日和子は立ち上がると、ゆっくりと一歩一歩踏みしめるようにして水戸先輩の元へと向かった。数歩分、その気になればすぐに埋められるであろう距離を開けて二人は対峙する。

 彼女たちの表情は対照的だ。日和子は警戒して険しい表情をしているが、水戸先輩はにこにことして毒気がない。

 奇しくも、初めての邂逅の時と似ていた。


「よーくんに手を出さないでください」


 低く、力のこもった日和子の言葉。


「それは貴方次第ね」


 明るく、どこまでも麗らかな先輩の言葉。


「最終決戦、良いじゃない。さあ、かかってきなさい!」

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