第2話

 俺が日和子と出会ったときのことを振り返ることは出来ない。

 なぜなら物心がつくより先に俺たちは出会っていたからだ。堤家と蘭家はマンションの隣の部屋で、親同士が元から仲が良かった。俺が生まれた五ヶ月後に日和子が生まれ、一緒に遊んだり互いの家に預けられたりするうちに、俺たちは仲良くなった。いや、仲良くなったっていうんだろうか。側にいるのが自然になっていた、これくらいが合う。

 俺の物心ついて初めての記憶は積み木のお城を日和子に崩されてわんわんと泣いているところから始まる。かつては取っ組み合いの喧嘩をしたものだが、いつしかそれはしなくなった。


「日和子ちゃんに優しくしてあげるのよ」


 俺の母親は何度だってそう言った。


「あたしに優しくさせたげてもいーよ」


 そんな風に胸を張るのが日和子だった。


「何があっても俺が日和子を守るんだ」


 幼い日の俺は、難しい事なんて何も考えずにそう言い切った。

 もしかしたら一種の刷り込みなのかもしれない。俺があいつに逆らえないのは。昔から俺は悲しくなるくらいこの女の召使いだ。


§


 俺たちがモールと呼ぶ大型商業施設は駅直通で、この近所に住む人間なら老若男女一度は行ったことがある。俺達の住むマンションからは徒歩二十分。閑静な住宅街を通ることになるので、夜はどうにも暗い。

 晩飯の下準備を終えた俺は、軽いとは言いがたい足取りで駅に向かう。春といえどもこの時間になるとシャツ一枚では少し肌寒く、自然と身体が強張った。上に何か羽織ってくればよかったかもしれない。

 スマホで送った『家出たからな。七時には改札前にいろよ』に返信はない。むやみに約束を破るタイプではない、と信じているのだが、買い物に夢中になって……というのはありえる。

 昔っからそうだ、あいつは俺を軽んじる傾向がある。ごめんね、と言われると許してしまうのが悪いのだろうか。でも許さないと拗ねるんだもんなぁ。あのときだって、と遡るとキリがないので無理矢理思考を再起動。

 はぁ、と溜息をついて俺はスマホをポケットにしまった。光源が消えると、ぽつぽつと所在なさげに並んだ街灯のみがあたりを照らすこととなる。どこか空虚な光だ。俺はぼんやりと足下から前に視線を移した。


「……ん?」


 少し先にある公園、その街灯の下に人影が見えて俺は目を細めた。黒い髪の女性、だ。後ろ姿だからここから顔は見えない。他に誰もいない場所にぽつんと立つその姿は、言っちゃなんだが不気味だ。

 ふと、千川さんとの会話を思い出す。不審者、殺人鬼、七不思議、この状況に本来関係ないはずの単語がぐるりと頭を巡った。

 俺はほんの少しだけ歩調を緩めて公園の側に近付いた。女性は俺に気付いていないのか、ぼんやりと中空を見上げている。そこで俺は、彼女が葵ヶ丘の制服を着ていることに気がついた。同じ学校なのか。……今彼女が在籍しているのかはわからないが。

 俺は彼女の視線の先がほんの少しだけ気になって、彼女の目が向いている方を辿った。樹だ。彼女は花も散り、葉の青々と茂る樹を見ている。もしやその樹で……などと縁起でもないことを考えてしまい首を振る。

 改めて目をこらすと、枝の先に何か紙片のようなものが引っかかっている。もしかしてそれを見ているのだろうか。


「あの」


 俺は思わず声をかけていた。声をかけられたことで初めて俺に気がついたのか、ゆっくりと俺に顔を向ける。少し青みがかったようにも見える大きな目に吸い込まれそうだ。


「私が見えるの」


 かき消えそうなウィスパーボイスだった。耳から背筋にぞくりと寒気が駆け抜けて、俺は口をパクパクとさせた。女性はこちらをじぃっと見ている。清楚で整った顔立ちをしているが、肌は透き通るように白く、生命感が薄い――、


「なんて、冗談よ」


 ふっと彼女が表情を緩めた。それと同時、頬に微かながらも血色が戻り、彼女は一瞬にして可憐な女性になった。

 俺は張り詰めていた空気のやり場もわからず、きっと馬鹿みたいな顔をしていたのだと思う。くすり、と彼女が笑い声を零すが、けして嫌味な感じはせずにただただ上品だ。


「あの枝に」


 彼女がすっと白魚のような指を伸ばして先ほど見た木の枝を指さした。


「私の大事な物が引っかかってしまったの」

「……取りましょうか?」


 八割方生きている人間だと確信できたので、俺は提案してみた。どう考えてもそれを期待されている流れだったし。彼女は嬉しそうにぱっと顔を輝かせる。


「お願いできるかしら」

「それくらいなら、任せてください」


 背伸びして手を伸ばすと、ぎりぎり届かない。それならばとジャンプして枝葉を揺らすとひらひらと目的の紙片が落ちてきた。空中でキャッチして女性に手渡す。


「はい、これ――」


 と差し出したところで俺は固まった。

 御札だこれ。

 変わり種の栞かな、と思ったが御札だこれ。黄ばんだ紙に朱色の墨で謎の模様やみみずがのたくったような文字が綴ってある。陰陽師が使っているような、あるいはヤバい廃墟に貼ってあるような御札だこれ。

 自分でもわかるほどに顔を引きつらせている俺とは裏腹に、彼女はほくほくとした顔でそれを受け取り胸に抱いた。


「ありがとう、とても助かったわ」

「はい、えっと、あの」

「水戸こあら」


 俺は彼女の告げる言葉の意味がわからず(というかさっきから何もわからないのだが)にぽかんとした。


「葵ヶ丘高校三年、水戸こあらよ。貴方は?」


 そこでやっとそれが彼女の素性なのだと言うことに思い至った。そして俺の素性も尋ねられているのだと言うことにも。


「葵ヶ丘二年、の、堤陽一です」

「そう、堤くんというのね……堤くん、どうか付き合ってくれないかしら」

「はい……はい?」


 ナチュラルな話の運びに流されそうになったが、すぐにその異変に気付いて聞き返した。聞き間違い、じゃないよな。

 困った。付き合って、と言ったのかこの人は。一つ理解すると次の意味不明が襲いかかってくる。彼女……水戸先輩はにこにことおしとやかに笑っているが、その瞳にはなかなか強い光が宿っている。

 思わず一歩下がろうとしたところで、手を握られた。温かい、柔らかい、それ以上に力強い。


「どう? 悪い提案ではないと思うの、きっと貴方に素晴らしい蜜月をあげるわ」

「急にそんなこと言われても……で、出会ったばっかりですよ?」

「運命を感じたの」

「運命って!」


 じりじりと綺麗な顔が近づいてきて、ハーブみたいないい匂いがふわりと漂った。え、なんだこの状況。こんな風に女性に迫られた経験なんてあるわけもない。俺は一体どうすればいいんだ。ぐるぐる思考と視界が回る。


「何やってんの」


 俺を現実に引き戻したのは冷たい声だった。

 一気に体温が平熱まで戻った俺ははっと水戸先輩の手を払って振り向く。

 そこには、ポケットに手を突っ込んで不機嫌そのものの日和子が立っていた。


「ひよこを待たせるとか有り得なくない? 連絡しても出ねーし、わざわざ来てあげたら、何? この状況」


 ずかずかと近づいてきた日和子は俺の肩を掴むと乱暴に水戸先輩から引きはがした。

 じーっと日和子が水戸先輩を見つめる。対する水戸先輩の表情を一言で表すなら「きょとん」が最適だろう。


「日和子、どうどう」

「よーくんは黙ってて」


 俺が二人を取り持つべきだろうに、ぴしゃりと黙らされた。こいつ、気が強い割に人見知りするはずなんだけどなぁ。今だって警戒心のままに水戸先輩を見たきり、なんて言えばいいのかわかんなくなっているっぽいし。

 沈黙に戸惑ったのか、水戸先輩が少し困った笑顔を浮かべて首を傾げた。


「あなたは、堤くんのお友達?」

「ちがいます」


 ちがいはしないだろ。そこは話がややこしくなるから頷いてくれ。


「ただ、あたしこいつと待ち合わせしてたんで」

「そう。彼を引き留めてしまってごめんなさい」


 水戸先輩がしずしずと、綺麗な角度で頭を下げた。自分には到底出来ないようなおしとやかな仕草に日和子はうっと唸った。


「まあ、いいですけど……」


 困惑、といった様子で日和子が呟くと水戸先輩は顔を上げて艶然と微笑んだ。ありがとう、と優しい声つきだ。

 日和子は俺の背に隠れるように一歩下がった。わかる。お前はこういう純粋培養人間出来てる系が一番苦手だよな。借りてきた猫のようになった日和子が俺の横顔を見上げた。


「なんの話してたの? ていうかこの人誰?」

「えーっと……」


 なんと説明したものかと言葉に窮していると、水戸先輩が一歩前に出た。


「自己紹介が遅れてしまったわね。私は水戸と申します、堤くんとは一生を左右する大切なお話をしていたの」


 すらすらと爆弾発言をぶち込んだ水戸先輩に、日和子は眉間に皺を寄せた。


「は?」

「それはだな、日和子」

「よーくんうるっさい」


 俺の誤魔化しも、日和子の不機嫌な声も、水戸先輩を止められない。


「私は……私、どうしても堤くんに……」


 俺の額を冷や汗が伝う。水戸先輩が大きく息を吸った。


「私の部に入ってほしいの!」

「そうじゃな、え、ん? はい?」


 完全に聞いていない話に俺は素っ頓狂な声を上げた。恋する乙女のように胸の前で手を組んだ水戸先輩は、少女漫画もかくやというほどに目をキラキラさせている。


「一目見て確信したわ、堤くん、あなたは選ばれた人間よ。その力をもってすれば、あなたは我がオカルト研究部のエースにだってなれる――!」


 なれる――る――る――――と静閑な夜の住宅街に叫び声が響き渡る。鼓膜を震わされ、俺はただ目を丸くしてフリーズすることしかできなかった。

 日和子がくいっと俺の服の裾を引く。


「ねえ……帰ろうよ……」

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