MS-Wordはエディタなのか

 結論から言うとMS-Wordはエディタではなくワードプロセッサ、つまりタイプライタの仲間である。


 これからエディタとワードプロセッサ(ワープロ)の違いについて書いていくわけだが、その前にはっきり言っておくと、ここで主張したいのは「どちらか片方が完全に優れているということではない」ことである。


 ワープロを使うなと言っているわけでもない。筆者も場面次第でエディタとワープロを使い分けるし、あらゆる文書をエディタで書くべきだとも書こうとも思わない。


 つまり、ワープロもエディタも有利になる場面はそれぞれに存在するため、それぞれの場面で使い分けた方が便利だと言いたいのである。


 先に例示するならば、本質的には何が書かれているかが重要なコンテンツ、例えばソースコードや手打ちのデータベース(例えば日記)などはレイアウトが用途に関わらないため、レイアウトを「調整しない」もしくは「後で」調整するエディタが適しているだろう。


 一方で、印刷媒体と電子媒体を同時に扱うようなコンテンツ、例えば報告書や求人票などはレイアウトのばらつきが問題になる可能性があるため、レイアウトを「先に」提示するワープロが適しているだろう。


 さて、以上のことを踏まえて、ワープロとエディタの違いを見ていこう。


 例に取り上げるワープロは表題にもしたので、 MS-Wordを例にしよう。パット見が似ているので Google Docsでも別に構わない。これはワープロの細かい(つまり種類によって仕様が変わるほど詳細な)機能には踏み込まないということだ。


 エディタはもちろんVim 。と言いたいところだが、奴は生きた化石みたいなモノなので別のエディタが良いだろう(でも本当に良いエディタだから。使いにくいとか最初はみんな言うのよ。でも大丈夫だから。そーいうのじゃないのよ。 Vimは大丈夫なやつだから)。


 大抵のマシンで使えそうなエディタ(少なくともGUIで)はなにかないかと、五分ほど心当たりを探ったが満足行く答えが見つからなかったため、以下のように言おう。「右クリックで作った『新しいテキストファイル.txt』を開いたときに立ち上がるプログラム」をエディタの例にする。とりあえずこれを「メモ帳」と呼ぼう。


 エディタの歴史というとそのエディタ次第でまたいろいろで、ここでedからはじめてcatで頑張れやらecho含めるのはどうなのよとか話しても良いのだが、ヨム方もカク方も飽きると思われるので、大ざっぱにedからvimに進化するよりも、もう少しグラフィカルな進化をしたぐらいの認識で良いと思う。


 ed前のエディタと言うと、懐紙やら帳面とか、なんならローマや中世ヨーロッパの蝋板with鉄筆でも良い。


 要するに、エディタは「文字」を書くためのツールである(懐紙なりには絵もかけるだろと言われそうだが、顔文字やアスキーアートの存在を忘れてはいけない)。そして、大抵の場合、エディタで編集されたものは他人の目に直接は触れないものだ。


 一方でワープロの歴史というとまた多様になると思うのだが、マニア以外が歴史を知ってどうするんだという気もするので、詳しくは調べないし、述べない。


 MS-Wordからざっくり過去に遡っていくと、「ワープロアプリ」のMS-Word の前に「ワープロ専用機」を様々な会社が発売し、そのワープロがコンピュータ制御になる前に「タイプライタ」の類があり(どうも、文字を削除する機能を持つタイプライタもあるようだ。すごいね人類史)、その前をどこに求めるかというと活版印刷とか、パピルス紙withインクfeat. SYO-KI-KANとかで良いんじゃないだろうか。


 要するに、ワープロの系列は人の目に触れる「文書」制作のツールである。


 ここで、この文書で一応は気をつけて使ってきたが、陽に説明していない概念(そして、既知にも関わらずいまいち意識しない概念)について触れよう。


 エディタは文字、ワープロは文書を扱うと書いた。


 辞書的な定義は引く辞書で細かくは変わるだろうが、小説を前提とした場合は以下のように言うことができるだろう。すなわち、こうである。


『まず手元に言葉があった。言葉から文字が生まれ、文字は文を作った。文は互いに文章を成し、やがて文章は文書となった。文書はそして言葉となり、また本となった。人は言った、「心を育めよ、本棚に増えよ、知に満ちよ」』


 つまり、文字は割と私達の手元(言葉)にあり、文書も割と私達の手元(本)にあるのだが、使用シーンとしてはかなり離れたところにあるということである。


 どちらが上下ということもないのだが、小説の本をゴールにおくとする。このとき、小説は文書か文章のカテゴリであるからこれを上と定義しておくと、エディタはボトムアップで書くツールであり、ワープロはトップダウンで書くツールと言い換えられるだろう(筆者の観念的には上下が逆なのだが、小説は積み上げていくものとも言うし、こう定義しておく)。


 このように書いておくと、どちらのツールがどのような作業を得意としているのかが解りやすくなる。


 エディタはボトムアップなので、細かい単位で作業するのに向く。なので、小さな処理を積み上げて一つの大きな処理を行うプログラミングや、その日の出来事を一単位として記録する日記などには、エディタが向いているだろう。


 一方、ワープロはトップダウンなので、成果物を直接作業するのに向く。つまり、書式を指定して、内容に集中できることが重要な報告書や、必要な情報がどこに記載されているかを最短で把握したい求人票などには、ワープロが向いていると言える。


 これはアプリケーションの設計思想からも見て取ることができ、手元の「メモ帳」を開いてみると、文字を打つ以外何もできない。本当に何もできない。


 少し出来の良い「メモ帳」ならば文字の検索なり置換なり、マクロ機能なりがついているかもしれないが、基本的には全部文字を打つための機能である。設定をガチャガチャいじると文字の書体なり大きさが変わって見えるかもしれないが、それで変わっているのはアプリケーションの方であり、打ち込んだ文字が「か」から「ふか」に変わることはない(逆方向に変わってほしいことはあるが、残念ながら変わらない)。


 一方で手元のMS-Word (かGoogle Docs、面倒なので「ワード」で良いですよね)を開くと、まず文字は打ち込める(ライセンスが切れていなければ)。まあ、これぐらい出来てくれないと困るだろう。


 次に、(設定でいじっていなければ)上にある色々なツールを適当にガチャガチャやってみる。すると、文字の色が変わったり、よくわからないテキストボックスが湧いて出たり、画像フォルダの中に一万枚はある(私は保存しないタイプなのでマシン上には少ししか持っていないのだが、読者のフォルダにはもう少しあるかもしれない)猫の画像が貼り付けられたりする。


 しかもこの状態で保存したファイルを一旦閉じてから開き直すと、同じ状態の文書が表示される。これはエディタにはない特徴だ(エディタの設定変更を保存していなければ)。


 そして、私達もこれらのアプリケーションを使う際に、この違いをなんとなく理解しながら使っているだろう。


 例えば、「メモ帳」で書いた日記に、「今日は河豚を家族のみんなで食べた。明日からは食事を一人で食べる」と書いてあったとしよう。もし、「~食べた。」と「明日から~」の間に改行がいくつ空いていようが、私達が注目するのは「河豚を食べた」ことと、「明日から一人飯」であることだけだろう。そして、どんな書き方をしても、河豚が豚に変わることもないし、一人飯が家族団らんの食卓に変わることもない。


 一方で、「ワード」に同じ文章が書いてあり、おまけで可愛いうさちゃんの画像も貼ってあるとしよう。この文書の「~食べた。」の後に改行を大量に挿入すると、やがてページが追加され、一人飯は違う「世界」(紙面)の住人になる。もはや、この「ワード」の画面から読み取れることは可愛いうさちゃんの絵と、河豚を食べたことだけである。


 そして、うさちゃんが首を傾げれば(つまり画像を回転させれば)、うさちゃんがいつの間にか小憎たらしいアヒルになって読者をあざ笑う(だからといって、モニターを殴りつけることは……少し忠告が遅かった場合もあるが)。


 こういった機能は「見た目を整える」機能で、出版用語で言うところの「組版」機能の賜物だ。


「ワード」のようなワープロはこの組版を直接扱えるので、直感的に見た目を変えることができ、最終成果物を即座にイメージしたいときによく使う。


 一方で、「メモ帳」のようなエディタは文字しか扱えないので、組版は他のアプリケーションなり人物なりに文字を使って(もしくは言葉を使って)頼む必要がある。その際に組版部分を担うのは、この文書で言えばMarkup(つまりHTML, LaTeX, Markdown)言語である。そもそも組版が必要ない場合には、頼まなくて良いので、それこそ用途次第だ。


 そういうわけで、MS-Wordがエディタかという問題についての答えは、「No. それはワードプロセッサです」という事になる。


 たった55文字ですむ(この文字数なら、旧ツイッターにも投稿できる)話にどうしてこんなに長々と説明を続けたかというと、次に検討する問題をどうするかが非常にセンシティブ(原意で)だからだ。


 つまり、「どっちで小説書いたら良いの」問題である。


 筆者個人の見解で言うならば、こんな文書を書いていることから解るように「エディタで書いて、組版は別のプログラムに任せろ」なのだが、それはそれとしてワープロにもメリットが有る。


 例えば、 WEB掲載するつもりはなくて、少なくとも同人誌として印刷してばらまいてやるぜというような小説の場合、余白などがあらかじめ解った状態で書けば、「長らくそうして」が「長ら」「くそうして」になる悲しい事故を防ぐことができる(「う」は「を」の誤字ではありません。いいね?)だろう。あとから直しても良いのだが、往々にしてこの手の間違いは見過ごされるものである[要出典] 。


 他にも、挿絵をミリ単位で調整しながら挿入したい場合はやはりワープロのほうが便利だ。組版ソフト(例えばLaTeX)で外部ツールを使わずに画像の位置を微調整しようとすると大変である。ものすごい大変である。どれくらい大変であるかというと、メッチャものすごく大変なのだ(そして、大抵は最終的にデフォルトの配置が試した中で最も美しいことに気がつく)。


 このように、レイアウトと綿密に連携してやりたい場合は、ワープロで書いたほうが良いだろう。


 逆に、たった一文を一時間(あるいはそれ以上)かけて悩み、何度も手直しをして表現の細部にこだわりたいという場合にはエディタで文字とだけ向き合い、他の要素はノイズになるので排除した方が良いだろう。例えば、作業用に流している音楽も止めた方が良いだろうが、チョコレートバーについては必要かもしれないので適宜判断すること。


 これらの例を見てやると、どうにも「出版物」としての小説には「ワープロ」が向いているようであるし、「情報」としての小説には「エディタ」が向いているように見える。


 本来は出版物が情報を含んでいるはずなので、なめらかに移り変わることができる概念のはずなのだが、私達が使う、言語を含んだツールの離散性(つまり数を数えられるということ)から、事実上は上手に移り変われないようだ。


 そのため、実際の執筆にあたっては適宜、使うべきと「信じられる」物を使うのが最もスマートなやり方だろう。


 ただし、全ての文書をワープロ(もしくはエディタ)で書きたいのならば、それもまたあなたの信念なのでご自由に。

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