IとUの間にDEFは存在しない

 Markup布教とは関係ないのだが、 WEB上の小説を見ると空行や字下げといったさまざまな『お約束』の用法が様々にある。


 よく見るのは「改行ばかりの小説は却って読み難い」という意見[要出典]や、「場面転換などの場合と時間経過の場合で空行を使い分ける」という手法[要出典]などだ。


 だが、この手の意見は Markup的な視点から見ると比較的クソである。失礼、口が過ぎた。おクソ喰らえである。


 ここまで強い感情と言うとそれはそれで嘘になるのだが、言っていることの根の部分は正直な気持ちであって、つまり、文書中にいたずらに意味をもたせた表現を入れないので欲しいのである。


 小説を読む際に何を楽しむかというのはそれこそ千差万別であって、中には活字のフォントの美しさを(も)楽しむ類の人々すら存在する[要出典] 。なので、寿司を頼んだらソーセージ盛り合わせがついてきたからと言って怒るつもりはない(しかし、本当に出てきたら少なくとも不機嫌になるかもしれない)。


 だからと言って、小説における暗黙の了解にも許容できる段階という物は存在するだろう(そして、おそらくその基準は読者のそれぞれに依るはずだ)。


 例えば、意味的に異なった内容を表現しているブロックを明示的に分離せよという要求は、情報の整理という点でも有用であるし、それなりに妥当と思われる。そして、この実装として、文の頭を一字下げるという実装は非電子媒体との整合性を保ちやすいために合理的に見える。また、別の実装として空行を開けるという実装も一字下げと同じ理由で合理的だろう。あるいは、この2つを同時に用いることもコスト面を考えなければ有用と思われる。


(筆者は自身で用いることをあまり好まないが)空行を包括的ブロック毎のセパレータとみなし、字下げを各包括的ブロック内の意味的ブロックのセパレータとみなすことも、階層構造が視覚的に明らかであるからやはり有用に思える。


 しかし、この分離目的で導入された記号にさらに追加の意味を持たせることについては、賛否が分かれるだろう。


 例えば、上で上げた場面転換と時間経過での空行の数の使い分けを考えるために、時間経過を1-CR(一改行)、場面転換を2-CR(二改行)としよう。この表現での2-CRについて考えると、表示上では 1-CR + 1-CR = 2-CR であるが、意味上は(時間経過)+(時間経過)=(場面転換)が必ずしも正しくない(もちろん、 1つの場面に登場した次の瞬間に何をするでもなく旅立つ主人公ならば必ず正しい)。


 この不一致は場面転換を1-CR、時間経過を2-CRとした場合も同様である。さらには、場面転換と時間経過のどちらに1-CRを割り当てるかは読者の持つ認知において多くの場合同等の重みを持つ。つまり、 Markup的な意味で文書の解釈がパーサ(読者)次第で変わってしまう。


 このような必ずしも共有されない定義を小説の文章の外に置くことは、基本的には避けるべきと思われる。このことは、上の説明で n-CRなどというものを導入したことで多少は実感してもらえるかもしれない( CRはファイルの文字列中で改行を表す特殊記号の 1つで、先頭戻しを意味する)。


 小説は内部で閉じない情報媒体である[要出典] から、意味的に連続した経路を保証するためには、読者の視点に頼ることで、物語が張る空間の内、少なくとも物語の視点の近傍における連続性を担保しなくてはならない。


 その際に読者に与える意味の不確実さをいたずらに増加させる表現は避けるべきだろう(例えば1つ前の文はわざと一般的な表現を用いて書いていない)。もちろん、不確実さがない文書はもはや報告書か何かであるから、行間に様々な意図を込めてもらって良いのだが、それを実際の表示上で必要以上に表現するべきではないと主張しているのだ。


 そして、重要なことは、上の主張よりも優先されるべきは版元からの指示であるということである。筆者が考えるに、彼らにとっては文章の中身よりも、文章のもたらすもの(もちろん感動や知見のことですよ)の方が重要であるようだから。そのような場合は、版元ごとの長年の慣例というものがあると思われるので、用意されたフォーマットで書くのがよろしいでしょう(上の行開けの例などは、公募だとよくある[要出典] みたいですね)。


 さて、もう1つ挙げた 0x0(註:16進法の0がなぜか入ってしまった)例を見てみよう。


 改行ばかりの小説は読み難いという主張である。


 この主張に関しては、個人の趣向に強く依存するので、どうするべきであるとも言えない。


 と、ここで終わってしまうと人工無能になってしまうので、もう少し考えてみよう。もちろん、別の問題として筆者が無能であることは否定し得ない。


 実のところ、このような問題について、 Markupは(少なくともHTML において)解決策を用意している。


 HTMLはこの文書で見た通り、文章の部位それぞれに意味をもたせる種類の言語である。では、その意味を表示する方法はどのように決めるのか。これはCSSと呼ばれる言語で管理されている。 CSSはHTMLで定義されている各意味部分を実際に表示する際にどのように表示するかを色や幅、形などを指定することで決定する言語である。


 このCSSはかなり柔軟で、 JavaScript(以前も出てきたアルミカンの方)と組み合わせることで、表示をかなりの自由度で制御することができる。例えば、段落と段落の間をどれだけ開けるかもこのCSSで設定するのだが、要するにこのCSSをうまい具合に調整すれば同じ内容の文書を様々な形式で表示させることができる(例えば、カクヨムにも縦組みモードがある)


 ここまで(どのような意図があるかは筆者の預かり知らぬところがだが)目を通した読者ならば筆者が言いたいことがそれとなく分かるかもしれない。つまりそれぐらいサイト側が(例えば、例えばだがカクヨム側が) CSSやMarkupで対応しても良い問題なのである。


 こんな事を言うと、ユーザーが投稿した作品に手を加えるのはいかがなものかという意見もあるだろうし、実際筆者もどうかとは思うのだが、カク側とヨム側の両方を最大限満足させるにはこれが最もシンプルな解決法に思われる。


 そもそも、カクヨム記法という(ルビと傍点しかできない) Markup記法を採用しているのだから、表示されているのはカク側の投稿したそのままの作品ではない(もちろん、カク側が意図して記法を使っているのだが)。この延長で、改行を完全に潰すようなCSSや上限で潰すCSS、あるいは必ず改行ごとに一行開けるようなCSSや原文そのままの表示のCSSを選択できるようにしても良いはずなのである。


 似たような問題としては、感嘆符一文字開け問題(例えば! こんな感じの規則)や三点リーダ偶数個問題(おそらく活版印刷時代の版組的制約あたりから来ると思うのだが…… )、上で挙げた字下げ問題等がある。これらの問題は根本に「見やすさ」の追求があるため、意味付けを行う Markup言語側が対応「できる」問題だろう(リーダの数についてはその数に意味を込める手法もあるだろうが、先に述べた理由で私は気に入っていない)。


 一方で迂闊にMarkupが触れられない小説の見た目(作法)も存在するだろう。例えば、漢数字の原則(例えば、二億九千九百七十九万二千四百五十八米毎秒。もう少し賢い書き方もあるが)は、漢数字とアラビア数字で通念的な意味合いが違ってくるので、迂闊に触ることができないだろう。


 おそらく、このあたりのことはサイト作成の際に議論はしていると思うのだが、カクヨムに限らず様々な小説掲載サイトで縦書き以上のスタイルを許容していないあたり、カク側の表現したい意図に最大限配慮しようという立場なのだろう(にしては、文字装飾が …… これ以上はやめておこう。)。


 あまり全方位に喧嘩を売るとトリの中の人の上司の人(人であるとここでは仮定する)から警告が来るかもしれないので、さっくりと話を打ち切りに入ると、 WEB上に掲載される小説は話の長短に関わらず、印刷媒体の小説に比べて、読者の内容の受容に対する読者各人の認知による効果が大きいと感じられる。


 また、文書の執筆者と受け取る読者の間に存在する「編集者」における価値観の有無も違いとして挙げられるだろう(だからといって、間にAIを挟めという話ではない)。「編集者」による読者に向けた情報の翻訳の性質の違いによって、筆者と読者それぞれの多様さが良くも悪くも直接的に影響すると考えられる。


 ここで強調しておきたいのは、ここに挙げた主張はあくまで Markup的な意味付けの視点から見た主張であるということである。この小節で述べた考えに反することで読書体験がより豊かなものになると信じられるのであれば、戸惑いなくこの主張を破らなくてはならない。


 このWWWが一般に開かれてからの新しい形の小説に対する接し方については筆者もまだ確実な価値観を確立できてはいないが、 1つ言えることは次のことである。


「私(I)とあなた(yoU)の間に絶対的な定義(DEFinition)は存在しない」


 CPU上に乗ったHTMLだろうが、セルロース上のカーボンだろうが、あるいはガス上の圧力勾配であろうが、あなたとあなた以外の誰かの見る世界を絶対的に共有するための定義は、(科学の記法を持ってしても完全には!)そこに存在しないということである(反論のある方はどこかの学会誌にその考えを投稿することを是非検討していただきたい)。


 せっかくの日本語ユーザであるのだから、「こ」なたと「そ」なたの間にある事を「さっし」てみるのも良いのではないだろうか。


 とはいえ、余計な気を揉むぐらいなら特に考えず作法に従う! これが一番のおすすめだろう…… 。

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