第38話 手紙

 目の前の青年は、黒目がちの瞳を揺らしながら澄香を見詰め返している。


(……いいえ、よく見ると旦那様ではないわ……。旦那様の方がもっとパチっとした二重だし、背も旦那様の方が高いわ。でもなぜ私はこの男性ひとを見た瞬間、旦那様だと感じたのかしら……)


 そんな風に戸惑っていると、空から突然金色に光る輪が降りてきて、あっという間に澄香を包みこんだ。


(あ……この温かい感じ……これはさっきの……)

 

 少女の意識はそこで途切れ、そのまま深い眠りへといざなわれていった――。




 ――再び目が覚めると、澄香は小さな和室にいた。


「穂の香、お先にお風呂いただいてくるわね」

 

 振り向くと、タオルを手にしたふみが、ふすまを開けて出ていこうとしているところだった。


「――ええ、行ってらっしゃい」


 ふすまが閉まると、澄香は部屋中を見回した。

 2人分の布団と枕、それから小さなちゃぶ台が目に入った。ちゃぶ台の上には新聞が置いてある。


(ふみさんと私は、ここで一緒に暮らしているのかしら……? そうだわ! 新聞を見れば日付がわかる! まずはそこからね)


 澄香は急いで新聞を手に取ると、日付欄に目をやる。


(――明治8年……大正から明治に来たっていうこと……?!)

 

 愕然とし、しばしのあいだ呆けていた澄香だったが、部屋の隅にある水色の小箱がふと目に入った。

 なぜだか気になって仕方がなくなり、少女は立ち上がるとその小箱を手にした。

 そっと蓋を開けてみると、何には横文字の記された封筒が何通も収められていた。

 横文字の読めない澄香ではあったが、“これは自分宛てに違いない”という確信に似たひらめきがあり、思い切って一通取り出すと、便箋を開いた。



『穂の香様、 お元気ですか。私は元気でやっております』


 少し右肩上がりのおおらかな文字を目にした瞬間、澄香の胸に懐かしい感覚が広がった。

 少女は目を細めて続きを読む。



『西洋での暮らしにも、徐々に慣れてきました。友人も少しですができました。勉学は大変ですが、なんとか付いていっています。穂の香さんもお仕事がんばっているのだろうな。あなたは患者さんたちにとって“癒しの女神”だ。これからもたくさんの人たちを救ってあげてください。私はあなたを心から尊敬しています。そして……心から、愛しています。帰国したら、一日でも早く俺の嫁さんになってください。穂の香……早く会いたい……。皇國の夏は蒸し暑いですから、お体には重々気をつけてください。また書きます。柴次郎より。 

 追伸:こちらで友人に撮ってもらった写真を送ります。これで俺のこと、いつでも思い出して』



(わたし……いえ、穂の香さんは、この柴次郎という人と深く愛し合っていたのね……。あ、この柴次郎さんって、ひょっとして……)


 澄香は封筒の中に残されていた写真を取り出す。


(……やはり先ほどの男性ひとが、柴次郎さんなのね……)

 

 そこに写っていたのは、しゃがみ込んで泣いていた澄香――厳密にいえば、穂の香だが――に優しく声をかけてくれた男性だった。


(旦那様にそっくりな柴次郎さんと、今わたしが体を借りている穂の香さんが恋人同士だったなんて……)


 澄香は不思議な気持ちで再度、手紙を読んだ。


(柴次郎さんは西洋に留学されているのね。いつ頃帰国されるのかしら。西洋まで会いに行くというのは、経済的にも容易ではないでしょうし……。穂の香さん、どれだけ寂しい思いをされていることか……)


 そう思っただけで、澄香は胸が痛み、頬をぽろぽろと涙の粒がつたった。


(……なぜなのかしら……わたし、穂の香さんの気持ちが手に取るように分かる……。まるで穂の香さんがわたしであるかのように……)


 そのときだった。


「――穂の香ぁ~! あんた宛に国際郵便が届いてるよぉ~!」


 階下から、中年女性のものとおぼしき太い声が響いてきた。

 澄香は、はい、と大きな声で答えると、手の甲で涙を拭いながら階段を駆け降りた。


「おやおや、そんなに慌てて! 愛しい男からの手紙かい?」


 女性は好奇に満ちた目を澄香に向けると、もったいぶるようにして手紙を渡した。

 少女は一礼すると踵を返し、階段を駆け上がる。

 高鳴る胸に手を当て、一度大きく深呼吸をすると、澄香は封筒に目を落とした。


(――え……この横文字……柴次郎さんの筆跡とは違うわ……)

 

 慌てて裏を返すと、横文字で“Yuriko Takamine”と記されている。

 澄香は、なんとなく嫌な予感に襲われ、封筒を開く手を一瞬止めた。

 そしてもう一度深呼吸をすると、意を決して封筒を開け便箋を取り出す。

 そこには、小さくて几帳面な文字が並んでいた。



『穂の香様、突然の手紙をお許しください。私は高峰柴次郎の母、百合子といいます。柴次郎があなたに頻繁に手紙を出していたことを知り、筆を取らせてもらいました。穂の香さん、驚かずに聞いてください。実は柴次郎は、二週間ほど前に流行り病で病院に運ばれました。あの子は本当に懸命に病と闘おうとしていたのです……。ですが、そんなあの子の思いも私たち家族の思いも虚しく、柴次郎は昨日、天国へと旅立ってしまいました――』



(――え……)


 澄香はへなへなと膝から崩れ落ちた。


(……う、嘘よね……わたしが読み間違えたに決まっているわ、そんなはずないもの……)


 そう自分に言い聞かせる澄香だったが、再び手紙を読む勇気がどうしても湧いてこない。

 少女は何も考えられず、ただ呆然と宙を眺めていた――。

 そのとき、ふすまを軽く叩く音がした。


「――ふぅ……いいお湯だったわぁ……穂の香も入ってき――ほ、穂の香? どうしたの?!」


 ふみは蒸気した顔を澄香に近付けると、そっと少女の肩を揺らした。


「――ふみちゃん……わたし、どうしたらいいの……?」


 澄香はそう言うと、便箋をふみに差し出した。


「……読んでもいいの……?」


 眉尻を下げ、小さな声で尋ねるふみに、澄香は黙って頷く。


 ――ふたりの間に、沈黙が流れた。


 長い沈黙を破ったのは、澄香の力の入らない乾いた声だった。


「……ふみちゃん……あの人は……柴次郎さんは、本当にいなくなってしまったの……?」


 澄香は一点を見詰めたまま呟く。


「――穂の香……穂の香ぁ……」


 ふみは穂の香の小さな体を抱きしめると、声を出して泣き始めた。


「ふみちゃん……わたし、もうあの人に会えないのね……」

 

 そう声に出した瞬間、せきを切ったように涙が流れ出した。


「……柴次郎さんの嘘つき……! 必ず……必ず迎えに来るって……そう約束してくれたじゃない……。どうして私を置いて、ひとりで逝ってしまったの……? 私も連れて行ってよ……」


 とめどない想いが澄香の中から溢れ出し、涙の粒を伴って言葉になっていく。

 

 そのときだった――。

 金色の光の輪が上空から降ってきて、澄香の体を包んだ。


(――わたし……完全に穂の香さんの気持ちになっていたわ……。旦那様……いえ、柴次郎さんを失ってしまった穂の香さんの気持ちが、わたしには手に取るように分かった……。もしかして、わたしの前世は、穂の香さんだったの……?)


 そこまで考えると、再び少女は深い眠りへといざなわれたのだった――。

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