第7話 ハチワレ猫の名

「あら、わたし動物の心の声も読み取れるのね!」


 目をパチパチさせる澄香に、猫は尻尾を振り振りおねだりをする。


(ねぇ、あたしに名前を付けてちょうだい。『あんた』呼びはイヤよ。できるだけ、カワイイやつをお願い~)


 名前かぁ……、澄香はしばしのあいだ顎に手を当て宙を見やる。

 そして、ポンッと手を打つと猫の方を振り返った。


「『ハチ』ってどうかしら? ハチワレ猫の『ハチ』とわたし、澄香の『香』を合わせて『ハチ香』!」


 猫はピンッと尻尾を立て、ベッドの上で円を描くように走り始めた。


(よかった、気に入ってくれたみたいね)


 ホッとしたからか、喉の乾きを覚えた澄香は、ナイトテーブルに置いてあるグラスに手を伸ばした。

 そのとき――。


「澄香! アタシの名前を取り戻してくれて、ありがとっ!」


 少女のものと思われる声が、澄香の耳にはっきりと聞こえた。


 えっ?! と反射的に振り向くも、そこには誰もいない。

 ――ハチ香を除いては……。


「――ひょ……ひょっとして、今の、ハチ香?」


 澄香は恐る恐る尋ねる。


「うん、そう! 澄香! アタシが喋ったんだよ」


 猫はそう言うと、なんと片方の目をバチンと閉じてこちらに投げてよこしたのだった。

 驚きに声を失う澄香に、ハチ香は話し始める。


「驚かせてごめん。アタシは元々、猫のあやかしだったんだ。人間の言葉が話せたものだから、たまに道端で人間の子供に突然話しかけて驚かせたりして……まぁ、イタズラっ子だったんだよね」


 そう言うと、ハチ香はペロリと舌を出した。

 表情まで人間のようである。


「ある日、いつものようにイタズラをしかけたら、相手の子――派手な着物を身にまとったお金持ち風の女の子だった――が真っ赤な顔をして、そこら中の石を手当たり次第に掴んで、アタシに投げつけてきたんだ」


 石を投げつけられているハチ香の姿を想像しただけで澄香は苦しくなり、思わず胸を押さえる。


「そのときだった。通りかかった巫女がアタシを助けてくれたんだ。何かの神事に向かうところだったのか、花かんざしを挿して鶴の柄が入った羽織を着ていた。巫女はアタシに『ハチ香』という名前をくれた。名付けの理由は澄香と同じでね、彼女は『穂の香』という名だったんだ」


(……えっ?! わたし、この子に元の名前を付けたっていうこと……? そんなことって……)


 あまりの偶然に、澄香は息を呑み口に手を当てる。

 ハチ香は言葉を続ける。


「しばらく穂の香の元で暮らしていたんだけど……穂の香は人間で、アタシはあやかしでしょ。だから、じきに別れがやってきてね……。それからは、ひとりぼっち」


 澄香は、あやかしの宿命ともいえる“孤独”が少しだけ理解できた気がした。


「そして今から何年前だったかな……ついこの前のことだよ。人間の少女が猿のあやかしに襲われそうになっていたところに偶然居合わせてね。大昔のアタシだったらそのまま放っておいたんだろうけど、穂の香のおかげですっかり人間が好きになってしまっていてね……。気が付くと、その少女を助けようと無我夢中で鳥の前に飛び出していたんだ」


(――さ、猿のあやかしに、少女……?!)


 澄香はもはや声を発することもできない。

 ハチ香はそんな澄香の様子に気付かず、話し続ける。


「まぁ、一介の猫のあやかしがやまこ――猿のあやかしに勝てるわけもなくてね……。アタシ、あっという間に吹き飛ばされちゃった。あ、でも安心して。その女の子は鬼に助けてもらっていたから。で、猿のあやかしに楯突たてついたアタシは“裏切り者”のレッテルを貼られてしまって……呪いをかけられてしまったんだ。以来、人間の言葉を話すこともできなくなった。要するに“ただの猫”になったってわけ」


ハチ香は、そう言うと肩をすくめてみせた。


(――『鬼に助けてもらっていた』ですって?! 『呪い』? 『ただの猫』?)


あまりの情報量に、澄香は思わず頭を抱える。


「ちょっと待って! っていうことは、今のハチ香は『ただの猫』なの?」

「うん、さっきまではそうだった。でも、澄香が名前を取り戻してくれたでしょ? それで呪いが解けたみたい! こうしてまた人間の言葉が話せるようになったし、あやかしに戻れたみたい! 澄香、ありがとっ!」


 そう言うと、ハチ香は部屋中をグルグルと猛スピードで走り回り始めた。


(役に立てたのかな? だったら、よかった……。それにしても『鬼に助けてもらっていた』少女って……まさか、わたし?)


 走り回ってすっかり疲れた様子のハチ香に、澄香は思い切って尋ねる。


「ねぇ、その人間の少女を助けた鬼って、どんな見た目だった? 髪の色は? どんな目をしてた?」


 後ろ足をお腹側に持ち上げ、舌を伸ばして毛繕いを始めたハチ香は、ウーンと唸る。


「ゴメン。そのときにはアタシ、もう吹き飛ばされていたから鬼の姿は見ていないんだ。ただ、あの炎玉えんぎょくと凄まじい殺気は確かに鬼のものだったよ」


(――あのとき、ハチ香がまずわたしを助けようとしてくれて、そのせいで吹き飛ばされてしまった……。その後で、わたしを救ってくれたのが、旦那様……)


 確証はなかったが、澄香にはなぜだかそれが真実であるという根拠のない自信のようなものがあった。

 澄香は、毛繕いを終えすっかり寝入っているハチ香の背中を撫でながら、ありがとう、と何度も呟いた。


(旦那様にも、いつかお窺いしたいわ……。でも今の状態ではとても無理ね。まずは、わたしが鬼神の心を読むのか、それとも読まないのかを確認しなければ……。あぁ、それにしても本当に驚くようなことばかりだわ!)


 澄香はハチ香の小さな頭に顔を寄せると、目を閉じた。


(ダメよ、今眠ってしまったら、夜眠れなくなってしまうわ……)


 西日が薄く差す部屋で、気付くと澄香はぐっすりと寝入ってしまっていた。



 

 コンコン、とドアをノックする音に澄香は飛び起きた。

 今何時だろうと寝ぼけた頭で考えながら、はい、と返事をする。


「澄香様、夕餉のお支度ができました」


 どうやら、小一時間ほどのあいだ昼寝をしていたらしい。


「ハチ香、お多江さんが呼んでいるわ。行きましょ」


 昼間、獣医から健康状態について太鼓判を押されたハチ香は、流唯と澄香と同じ部屋で食事を取ってもよいことになったのだった。

 澄香はハチ香を抱きかかえると、階段を降りていく。


(――旦那様と目を合わすことができたとして、もし心を読んでしまったら……。臆病なわたしのことですもの、3年前のことをお尋ねすることなどできなくなるわ)


 不安を感じながらダイニングルームに入っていくと、朝餉のときと同じように着流し姿の流唯がドアに背を向けて座っていた。


「旦那様、この度はハチ香――この猫を勝手に連れてきてしまったことをお許しくださり、本当にありがとうございました」


 澄香はそう言い、深々と一礼する。

 あぁ、と短く答える流唯。相変わらず手元の書類に目を落としたままだ。

 澄香は朝餉のときと同じように、流唯の隣に腰を掛けようと椅子を引いた。

 ――ハチ香を腕に抱えたままの状態で。

 

 そのときだった。

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