第12話 暗闇の聖女と鋼の騎士1



 大陸のいたるところで争いが起こり、善悪関係なく大量の血が流れた後に形ばかりの平和が訪れ、そしてまた大戦が勃発した。

 傷ついた人々の嘆き、愛する者を失った者たちの救いの声が耳にこびりついて離れない。

 慎重に水を植物にあげながら魔女は物思いにふける。

 幾つもの季節を過ごしている間に、この広い庭の手入れにも慣れてしまった。

 咲いては枯れてまた懲りずに芽吹く花々は、まるで人の命のようだ。

 儚くも愛おしい。

 思いを飛ばしていた魔女の耳に、規則正しい足音が届いた。


「シア」


 魔女が顔を上げれば、そこには焦げ茶の髪をサラリと流した侍従の姿。

 もう侍従と言う関係も一般的ではなくなり始めている。

 であれば、二人のこの果てしなく長く続いた繋がりは何と呼べるのだろう。

 恋人よりもドロドロしていて、家族よりもがんじがらめなこの関係。


「シア?」


 かつて常に冷たい空気を纏い、憂いに沈んだ顔をしていた彼は柔らかな笑みを浮かべて魔女の名を呼ぶ。


「丸くなったなと」

「え? 太ったってことです?」


 自分の体の前後を確認するように腰をひねるレゾル。

 清潔な白いシャツをズボンにきっちりしまい込んでいるため、引きしまった体と細いウエストを強調している。

 街の中にこんな男がいたら、女たちが放っておかないだろう。男手が減った昨今では特に。

 シアは小さく笑って手に持ったジョウロをおろす。


「そう言う意味じゃなくって」

「そう言う意味じゃなくって良かったです」


 白い歯を見せて笑い、彼は手に持った麦わら帽子をぼすっと魔女の頭の上に乗せる。

 整いすぎた魔女の顔と、素朴な麦わら帽子のミスマッチにレゾルは喉奥でかすかに笑う。

 本当に終始笑みを絶やさなくなった。それが幸せな日々の象徴であるならば嬉しい、と魔女は眩しすぎるその顔から視線をずらした。


「戦争が、また始まったって」


 ささやくような魔女の声に悲嘆が混ざる。

 努めて何の感情も乗らないようにしたはずなのにうまく行かず、魔女は薄い唇を引き結んだ。


「いつの時代も戦いは起こります。大義名分を掲げていても、結局は一部の自分勝手な人間の争いです。あなたが憂慮することは何もない」


 そう断言した彼は魔女の頬を両手で包み、麦わら帽子で隠れてしまいそうな顔を上に向ける。

 片手にジョウロを持ち、繊細な黒のドレスを纏い、美しい銀の髪の上には所々からワラが飛び出た麦わら帽子。

 囚われたままでは絶対に見ることが無かったであろう魔女の無防備でどこか間抜けな姿に、レゾルは自分がそれをかぶせたにも関わらず肩を震わせる。

 先ほどまでの眩しい微笑みと違うその笑いに、魔女は不満を前面に出して口を尖らせた。

 その唇を指でそっと摘まみ、レゾルは太陽を浴びた右の藍い瞳をわずかに細めて切り出した。


「嫌な噂を耳にしました」


 その言葉に魔女は金の瞳をいぶかし気に細める。

 この人里離れた商人以外はほとんど人が訪れることが無い家で、噂を耳にする機会は少ない。

 偏った情報が載った新聞、少しずつ広まり始めた大衆無線機、そして実際にここに足を運ぶ商人。

 嫌な噂を運んでくるとすれば商人か。


「何を聞いたの?」


 こくりとつばを飲み込み覚悟を持って魔女は尋ねる。

 だが愛する人の口が紡いだその言葉に、金の目を大きく見開いた。


「教会が聖女を見つけたと」






 聖女――それは神と呼ばれる存在から特別な力を与えられた者。

 クロノスターシャがかつてそう呼ばれていた。

 魔女と言う呼び名は、あくまで教会がその檻から逃げ出したクロノスターシャの地位を貶めるために付けただけのこと。

 なぜなら“特別な力を与えられた者”が聖女ならば、間違いなくクロノスターシャは聖女なのだ。

 それはクロノスターシャが神を呪った何千年も遥か昔から変わらない。





「聖女様、新しい護衛が参りました」


 感情のない冷たい声が石造りの部屋に響く。

 シアは両目を厚い布で覆われた顔を声がした方向に向ける。

 数秒してカチャカチャと金属が触れ合う音と、普段は聞きなれない重い足音がシアの耳に届く。

 教会の神父の眠りそうなほどに鈍い足音や、召使いたちの無遠慮で慌ただしい足音とも違う。

 体重の運びに気を使い、全身を制御することに長けた足音だ。

 もっと言うならば、名誉だけで選ばれた前の護衛とも違う。

 最も、シアの力の一端を垣間見ただけでシアを怖れ、半日足らずで護衛の任務を放りだしてしまったが。

 今度の護衛はどれほど続くだろうか、という幼稚な期待を抱かなくなってどれくらいになるだろう。

 教会と言う狡猾な罠にかかってすぐ、シアは周囲が良い方向に変わるなどという望みは捨てた。


「本日より聖女様の護衛になった、」

「名前はいらない」


 低く腹からはっきりと出される深い声音。

 長く聞いていたい気持ちに駆られるが、シアはその護衛の言葉を遮った。


「名前を呼ぶことは無いから」


 顔を背け、シアは続ける。

 真っ暗な視界の中、シアの周囲に何人も侍ることはない。

 例え転んでも手を差し伸べる人はいない。食事をこぼしても拭う人はおらず、物を落としても拾ってくれる人はいない。

 転べばその手を踏まれ、食事をこぼせば薄笑いが響き、落とした物は遠くへと蹴飛ばされる。

 生きるのがくだらないほどに教会は腐っていた。

 そんな教会にすすんで力を求めてくるような者の名前など、知りたいとは思わなかった。


「承知しました。ではいつか興味を持たれましたらいつでもお尋ねください」


 思わず頷きたくなるような柔らかな声で護衛が答える。

 今までの相手であれば不機嫌を隠すこともなく声を荒げたり、勝手に名を名乗ったりしてきた。

 どうやら今回の護衛は少しばかり違うらしい。だがそう思い通りにはしない。

 シアは厚く覆われた包帯の下で目を細める。

 それが長く永く続く、魔女と侍従の始まりだった。





「聖女様、もうちょっと食べましょう」

「食べた」

「あれは摘まんだというのです。家に棲みついているネズミの方がまだ食べますよ。ほら、口を開けてください」


 何も見えない視界の中、カチャリと言う音と顔の近くに何かを寄せられる気配がする。

 ふんわりと甘酸っぱい香りがシアの鼻腔をくすぐった。思わず開きそうになった口を引き結ぶ。

 数日前に手で振り払ったらフォークで手を傷つけてしまい、男が大層慌てていた。

 胸のすく思いがしたが、その後大げさなほどにぐるぐると包帯を巻かれたため、もう怪我をしないようにしようと決めた。

 極力反応を見せないと努めて来たが、いい加減無視するのも拒否するのも疲れて来た。

 シアはおずおずとわずかに口を開ける。その隙間を狙ってぐいぐいっと押し付けられた何か。

 柔らかなそれを招き入れるように、シアは口を広げた。


「美味しいですよ。この季節にしか取れない果実です」


 言葉と同時、シアの舌に甘さが広がる。お腹など空いていないと思っていたのに、口の中に唾液が溢れた。

 シアは慌てて果物に歯を立てる。大した抵抗もなくその果物は二つ、四つと割れて崩れていく。

 あっという間に喉を滑り落ちたそれをシアは惜しいと思った。


「はい、もう一つです」


 甘い香りよりも甘い声に誘われ、シアの唇は餌を待つ雛のように従順に開く。

 近付く果実の気配に、シアはハッと気付いて慌てて口を閉じる。だがその前に果実の切れ端が口に滑り込んだ。

 甘く濃厚な果実が小さな口の中をいっぱいにする。文句を言おうと口を開くにも、果汁が口からあふれ出してしまう。

 今は大人しく食べるしかないとシアは悟った。


 シアが抵抗をあきらめたのを感じ取ったのか、騎士の空気が和らいだ。

 騎士は何度もフォークを伸ばしてシアの薄い唇に果実を当てる。それに促されてシアは黙々と果実を食べ続けた。


「これで最後ですよ」


 騎士の声にシアは驚きと共に顔を上げる。

 完全に無防備になっていた。

 覆われた目の下、半分隠れている頬が羞恥に赤く染まる。

 差し込まれた果実。カチリとフォークがシアの前歯に当たった。


「外は間もなく春です。今は雪解けで足元が悪いので外は出られませんが、その間にしっかり食べて体力を付けましょう」


 騎士が皿とフォークを片付る微かな音に混ざって低い声がする。

 見えないがきっとほほ笑んでいそうなその声に、シアは口を曲げた。

 だが重なり合った唇から先ほど食べた果実の味がして、シアはペロリと唇を舐める。

 名残惜しげなその仕草に、騎士が声もなく笑ったのにも気づかない。


「果実以外にも美味しいものがあります。明日は蜜漬けをかけたパンをお持ちしましょう」


 名前だけでも甘そうな響きに、シアは小さく頷く。

 褪せてぼさぼさになった銀の髪がピョコンと揺れた。

 それを細めた藍の眼で見つめてから、騎士は部屋の中を見回して他に聖女に必要な物を確認する。

 ありとあらゆるものが足りていないこの場所を少しずつ変えるために。


 そしてシアは騎士の思惑も本当の狙いも知らないまま、運命の流れに巻き込まれていった。



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