第10話 終転の魔女と真紅の二重螺旋1


 魔女は目の前に立つ人物を見て、ぼかんと口を開けた。

 金の瞳がせわしなく瞬きを繰り返すたびに、金粉のような光が舞い散る。

 魔女が国を移動し、そして最愛の人が逃れられない眠りについて長い時が経った。

 早く自分の所に戻って来てと孤独の中で涙したこともある。

 だが、これは、一体、どういう事だろうか。

 魔女は口を半分開けたまま、自分の胸ほどの身長しかない客の藍の目を見つめる。

 そう。それは、何度見ても愛しい人の瞳の色だった。


「レ、ゾル?」


 魔女があえぐように絞り出した名に、少年はかさついて赤い頬を更に赤くし染めて満面の笑みを浮かべた。


「はい! シア! 会いたかったです!」


 はきはきと元気な声。そして何よりもその答えに、魔女は猫よりも丸い目を更に大きくした。

 意志の強そうな太い茶色の眉と、藍色の瞳。まだ成長途中のふっくらした頬と、自分よりも小さな背、そして変声期前の幼い声。


「会いたくて、会いたいなって、どーーーーしても会いたかったので、頑張って早く来ました!」


 まるで褒めてと尻尾を勢いよく振る犬のように、少年が得意げに言う。


「頑張ったの?」

「ええ! 本当はもっと体が大きくなって、勉強も武術も全部かっこよくこなせるようになってからとも思ったんですけど、その間シアを独りにしていると思うと夜もちょっぴり眠れなくなったので」

「そ、そう……」

「嬉しく、ないですか?」


 眉がきゅっと寄せられ、藍の瞳が不安そうに揺らめく。

 魔女は慌てて両手を左右に振り、すぐに否定する。


「そ、そんなことないわ! レゾルに会えて、すっごく嬉しい!」

「やった! 良かったです! これからずっとずーっと一緒ですからね!」


 飛び跳ねるように魔女の手をぎゅぎゅっと握り、少年は顔を輝かせる。

 自分の手とはさほど変わらない、骨ばっていない柔らかな手に、魔女の胸がドキリと大きく鳴る。

 それはかすかな予感。

 今世のこの少年には、魔女は何をしても勝てないのだろうとおぼろげな予感を抱いたのだった。




 クッション性を重視した長椅子に寝そべり、レースカーテンから降り注ぐあわい光の中で最近はまっている小説を読みふける。

 技術の発展と共に薄く、小さくなった本はお菓子をつまみながらでも気軽に楽しむことができる。

 本を読み耽りながら、魔女はテーブルに手を伸ばす。そして白く細い指が空っぽになった皿の上をあてもなく彷徨った。

 顔を上げて、魔女は皿を睨む。そこにはわずかな欠片さえ残っていなかった。


「ここから良いところなのに」


 仕方なく起き上がり、皿を持って立とうとしたところで、腕まくりをして掃除をしていたらしい少年が部屋に入って来る。

 魔女は期待に顔を輝かせて少年を呼んだ。


「レゾル、ちょうど良かった。ね、クッキーまだあるよね?」

「無いですよ。さっき出したので全部です」

「じゃあ、他のでいい。新作の焼き菓子が届いていなかった?」

「あれは来週の分です。次に荷物が届くまでは甘いものはもう無いですよ」


 衝撃的な答えに、魔女は金の目を最大限に広げて少年を見つめる。

 次の便とは、町の商会から届く荷物だ。

 基本的に魔女が必要とする食べ物や物資は多くない。お菓子と本以外は。

 だから少年が荷物を受け取るタイミングしか、それらを手に入れることはないのに。


「次って、いつ?」

「二週間後です」

「ええ!? やだ! やだやだ! そんなに待てない!」


 駄々っ子のようなことを言いだす魔女に、少年は呆れた顔をする。

 客が来る時以外は、いつもこの長椅子に寝そべりひたすら本を読んでお菓子を食べる生活。

 魔女はそれでいいと思っているようだが、自分の訓練と勉強と家事に動き回る少年から見ればその姿は怠惰そのものだ。

 ため息をつき、少年は長椅子に不貞腐れた顔で座る魔女の前に立った。


「これは訓練です」

「く、んれん?」


 一体何を言いだしたのかと、魔女は小首をかしげる。

 さらりと銀の髪が揺れる。

 少年はその美しさに顔を赤くしながら、早口で告げた。


「そうです。いつかシアが僕と一緒に歳をとる時の訓練です」


 至極真面目な顔で、少年は藍の目を魔女に向ける。

 そして魔女が何かを言う前に、更に言葉を重ねた。


「今の生活に慣れ切っていたら、シアは食べすぎの上、運動しなさ過ぎてぶくぶくになっちゃうかもしれません」

「ぶくぶく」

「はい」


 こくりと少年が頷く。ショックを受けて言葉を挟めない魔女。真剣な顔のまま少年は藍の目をさまよわせる。


「ぽっちゃりしたシアも、か、可愛いとは思いますけど! でも、健康には良くないです」

「ぽっちゃり」


 魔女は視線を下げて今は真っ平なお腹を見る。

 食べ過ぎて、太る。

 これまで考えたこともなかった。

 魔女の体は憎たらしいほどに、時を止めたその瞬間から少しの変化もしていないのだから。


「少しくらい丸くってもシアは綺麗なままだとは思いますけど! でも不健康になったら悲しいです」

「そ、そうね」


 魔女の同意を得て、うんうんと頷きながら少年は続ける。


「だから、今度は一緒に庭掃除しましょうね!」

「は?」


 一体何がどうなったらそんな話になるのか。

 にっこりと顔をほころばせて輝くような笑みを魔女に向ける少年。


「庭いじりも楽しいですよ!」

「……そう」


 魔女は、きっと一生、この少年には勝てないのだろうと悟る。

 最も、彼が少年でない時でも勝てたためしはないのだが。





 その客は少年が魔女の元に来てしばらくたった頃に現れた。

 戦争が大陸中に広がり、健康な男子が容赦なく戦いへと放りこまれていく中、その男性は時代にそぐわない朗らかな笑みを浮かべていた。


「魔女様にお目通り叶いまして、大変嬉しゅうございます」


 三十代半ばも過ぎているが若々しく、初心な生娘であればころっと心を奪われてしまいそうな笑みだ。

 不機嫌な顔で彼を部屋へと連れて来た少年は、客をソファに座らせると執拗に魔女のベールの位置を確かめる。


「ずれてる?」

「いえ。今度、これよりも厚い生地を買ってきます」

「そうしたら前が見えなくなる」

「では目の位置に穴を開けましょう」

「え、嫌よ」


 分厚い布に開いた二つの穴を思い浮かべて魔女は顔をしかめる。どう考えても不格好ではないか。

 しかし少年はその答えに不満を抱いたのか、口をへの字に曲げて強い視線を客へと投げた。


「茶の、準備をしてまいります。そこで、掛けて、お待ちください」

「ええ」


 少年の失礼な態度にも客は薄っすらと柔らかな笑みを返す。

 ため息を隠して魔女はベールの奥から客の表情を探る。

 魔女に会いに来る客はどこかしら必死な雰囲気があるものだ。

 ここが最後の望みだと、縋る思いでやってくる。だが今日の客にはそんな様子は見られない。

 余裕なふりをするのが上手いのか、それとも魔女以外にも救いの手立てを残しているのか。


「お待たせしました」


 魔女が物思いに耽る間に、少年がティーカートを引いて戻ってくる。

 彼が魔女の元に戻ってから一番最初に練習したのが茶の入れ方だ。

 誰に学ぶでもなく、一人で何度も隠れて練習していたのを知っている。

 自分の抱くイメージと体の動きが合わないのか、幼い顔をしかめて何度もお腹がちゃぷちゃぷになるまで茶を入れなおしていた。

 その成果は、部屋に広がる香りだけでも感じることができる。


「どうぞ」


 無礼にも、客ではなく魔女の前に先に茶を出す少年。

 これはいつの時代のレゾルも同じで、魔女は思わず口元に笑みを浮かべた。

 魔女が誰よりも何よりも優先されるべき存在だという思いが、一つ一つの行動に現れている。


「ありがとう」

「ありがとうございます」


 魔女の礼の言葉にだけ満面の笑みを浮かべて、少年はとことこと魔女の座る長椅子の後ろに立った。

 魔女が何も教えなくとも、そこが彼の定位置だと知っている。

 しばらく無言で紅茶を楽しんだ後、客はそっとカップをソーサーに戻して目元を緩める。そして魔女が香りを楽しむようにカップを揺らしている姿をしばらく眺め、おもむろに話を始めた。


「私には妻と子がおります。私の妻はとても謙虚で温かい女性です。彼女を妻に迎えることができたことは、私にとって幸運でした」


 ふうっと憂いを含んだため息を吐く。

 柔らかな髪がフワリと彼の額で揺れ、髪の毛の動きまでもが端正な客の表情を惹きたてた。


「最近、前世を頻繁に思い出すようになりました」


 客は膝の上で両手を組み、重ねた親指の爪をゆっくりと交互にこする。

 それが考える時の彼の癖なのだろうか。

 魔女は紗の奥で金の目をわずかに細めて彼の動きを観察する。


「いつでも私は恵まれていたと思います。幸運なことに容姿に優れており、自惚れと聞こえるかもしれませんが女性関係にも困りませんでした」


 そう言って浮かべた柔らかで人好きのする笑顔は、それだけで女性の心をほぐすだろう。

 もっとも、”魔女以外の”女性だろうが。


 右親指の爪を左の親指の腹でこすり、そして指を組み替えて同じことを繰り返す。必死さを感じさせない男だが、その仕草は切羽詰まったものを感じさせられる。

 不安、怯え、恐怖――彼の心を押しつぶそうとしているのは何なのか。

 微笑みとゆったりとした語り草からは見えない何かが、彼の中に棲んでいる。


「転生の記憶の中で一番古いものからお話ししましょう。多分、あれが悪夢の始まりだったのだと思います」


 突如、彼の語りに暗い影がさす。

 だが、遠い昔話を孫に読み聞かせる祖母のような、滑らかな口調で彼は続けた。


「私は離れた町で、ある女性と出会いました。そして一晩を過ごしました。その頃の私は女性とそのような時間を過ごすことへ何の忌避感もありませんでした。だから安易に彼女に手を出したのです」


 小さく”お恥ずかしい”と呟き、客は決まり悪そうな笑みを浮かべた。

 後ろから聞こえたふんっと小さく鼻を鳴らす音に、魔女は首をそわりと動かす。

 どうやら少年は客のことが心底気に入らないらしい。


「そこから私の人生は変わりました。その女性は私に付きまとい、追いかけまわし、私の仕事や日常のあらゆる場面に現れるようになりました」


 きゅっきゅっと強く親指の爪をこする。そこだけが彼の心の不安定さをあらわにしている。


「私は逃げました。逃げて、逃げて、つかまりました」


 客の声が震える。ついに硬く握り合わされた両手が白く色を失った。


「私は死ぬまで、あの女に捕まりました」


 客の喉の奥がググッと鳴る。

 まるで吐くのを押さえるようなその音に、少年が片足を踏み出した。

 だが客は震える手を上げて何でもないと言うように振った。


「ああ、申し訳ないが、この美味しいお茶をもう一杯いただけるかな?」

「はい」


 客の求めに応じ、少年は新しいお茶の準備を始める。

 微かな茶器の音を楽しむように、客は大きく息を吸い、長くゆっくりと吐き出した。

 それだけで客は波立った感情を沈めてしまう。

 そして新たに入れなおされたお茶を味わい、彼は付け足しのようにその後の転生を語る。


「私は何度も彼女と会いました。そして逃げて、捕まって、動物のように部屋に押し込められ、檻に入れられ、鎖に繋がれ、足を失い、感情を失い……彼女の傍にいる事だけを考える人生を送りました」


 そう言って彼はほほ笑む。それだけが彼に許された表情のように。

 ありとあらゆる感情を隠し、ただ美しい微笑みを浮かべる人形のように。


 魔女はベールの裏でその美貌を歪ませる。浅くなった呼吸がゆらりと黒いベールを揺らした。

 金の瞳が忙しなくその視線の置き場を探す。

 狭い部屋に入れられ、光を閉ざされ、たまに戯れのように施される優しさを渇望し、それが幸せだと押し付けられる。遥か昔に乗り越えた悪夢のような日々が目の前を駆け抜けた。


「大丈夫です」


 柔らかな声が耳に届く。

 ふわりとぬくもりが魔女の背中を包み込む。

 少年が、後ろから抱き着くように魔女の肩に腕を回す。

 そして彼女の耳のすぐ横で少年はささやいた。


「貴方は自由だ。あの檻はもうここにはないから、安心して」


 まだ声変わり前の少年の軽やかな声が、魔女の波立った心を静める。

 早鐘のように脈打つ心臓が徐々に元のペースを取り戻した。

 深く息を吸いこみ、そして吐き出す。それは先ほどの客のしぐさと同じで、魔女は歪な客と自分との共通点を見つけて眉を寄せた。


「――あなたの状況は分かった。転生をやめればもう彼女に苦しめられることもないでしょう」


 これまでの話から結論はそれだろうと、魔女は断言した。

 しかし客の反応は違った。

 彼の微笑みが歪む。口は紛れもなく笑みの形を描いている。だが眉間には深い皺が寄り、その目は遥か遠くを見るように焦点がずれている。


「私は、苦しいのでしょうか」


 客はあどけない少女のように、小首をかしげて呟いた。柔らかな髪が一筋彼の額を滑る。


「もう分からないのです。数えきれない年月を共にし、何度も出会い、そのたびに私は彼女の愛を試しました。どこまで追ってくるのかと。他の誰でもなく、彼女だけが、私を心から愛しているのだと思うようになりました。私は、きっとそれが嬉しいのです」


 生まれ変わっても彼に会いに来るその姿に、男の心は囚われてしまった。

 見える鎖などなくても、彼は生まれ変わる度に彼女を欲した。道を歩く時も、食堂で食事をとる時も、公園で安らぐ時も、一夜を誰か別の女性と過ごす時ですら。


「この生でも、彼女は私の元に現れました」


 細く、透明な雫が客の目から零れ落ちる。

 呆然と、そしてどこか陶然と、彼は笑みの浮かんだ口を動かし続ける。


「彼女は相変わらず美しかった。生命力にあふれ、その苛烈な感情も、あの、私を見る瞳も、全て」


 恍惚ささえあらわに、客はあたかもそこに彼女がいるかのように謳う。

 そして、彼はその表情のまま、彼の罪を告白した。



「彼女は――私の娘なのです」



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