第6話

 僕、白石兎和の朝は早い。

 体調にもよるが、起床時間はだいたい5時半ごろ。目を覚ましたらすぐにベッドから出て、日課のランニングを行う。 


 我が家は三鷹駅(中央線)のほど近くに所在するばかりか、すぐ裏手には『井の頭公園』の敷地が広がっている。同地の弁天池は、カップルでボートに乗ると別れるという都市伝説でも知られる。

 僕が利用するのも、この池の周辺。とても自然豊かでお気に入りのランニングコースだ。

 走行距離は、基本10キロ。ダッシュの区間も交えて、いつも40分~50分ほどで完走している。

 

 ランニングが終わり次第さっとシャワーを浴びて、ダイニングで母の作った朝食をいただく。タンパク質多めのメニューが常である。

 他の家族はすでに食べ終えているので、テーブルには僕一人。ただし寂しく思うようなことはない。


「ママ、兎唯の体操服ないんだけど」


「体育あるの!? なんで昨日のうちに言わないの!」


「母さん、この靴下の片方が見当たらないんだが」


「お父さんは自分で探して! 兎和、お弁当ここに置いておくから。忘れないようにしなさいよ」


 中学の制服を着た妹と、ネクタイを結びかけの父が入れ替わりやってきて、あーでもないこーでもないと母を困らせる。我が家ではお馴染みの朝の一コマ。

 ひと足先に会社へ向かう父を見送りつつ、僕は着々と食器を空にしていく。

 朝食を済ますと登校時間が迫る。制服に着替え、リュックを背負って支度をととのえる。


「あ、お兄ちゃん。途中まで自転車の後ろ乗せていって」


「二人乗りなんてダメに決まってるでしょ!」


 妹もちょうど家を出るところだったらしく、玄関で鉢合わせした。

 このちゃっかり者は、登校時間がかぶるときまって僕の自転車の後ろに乗りたがる。そして毎度のごとく、母のガードによって阻止されている。


「いってきます」


「いってきまーす」


「はい、いってらっしゃい。二人とも車に気をつけるのよ」


 母に見送られ、兄妹そろって自宅をあとにする。僕は自転車に乗り、兎唯は当然ながら徒歩で学校へ向かう。途中までは一緒だ。


「ちぇー。たまには二人乗りしたっていいじゃんねー」


「いや、道交法違反だから」


「お兄ちゃん。そんなわかりきった答えしか出ないようじゃ、いつまでたっても彼女なんてできないよ。顔がイマイチならユーモアを磨かなきゃ。このままだと不合格だけど、どうする?」


 かわいい妹が圧迫面接の人事みたいなことを言いだした。

 愛読のティーン雑誌にそう書いてあったらしい……答えは無論ノーです。どうもしません。

 しかし指摘自体は一理あると認めざるを得ず、ユーモアに乏しい僕は反論もできず、くやし涙をこぼしながら自転車をこぐハメになった。


 ***


 妹に泣かされるというアクシデントがあったものの、学校へは無事到着した。以降の時間の流れは平凡そのもの。

 あくびまじりに出席をとる朝のSHL。教師の朗読が眠りへ誘う現代文。公式がゲシュタルト崩壊をおこす数学。いくら考えてもスペルが腑に落ちない英語、その他等々。


 休み時間のたびに友達の須藤慎とくだらない話で盛りあがる。時おりあけた窓から春風が吹き込み、タッセルで束ねられた白いカーテンがふくらむ。

 気づけば、時計の短針はてっぺんを指していた。チャイムが鳴り、にわかに騒がしくなる教室。同時に慎がこちらへやってきて些細な変化をもたらす。


「おつかれ、兎和。今日は千紗も一緒でいいか?」


 入学してからというもの、昼休みになれば僕の席で一緒に弁当を食べるのがお決まりのパターンとなっていた。しかし本日は、彼の恋人かつ同級生の『三浦千紗(みうら・ちさ)さん』が参加を希望されているとのこと。


「別にいいけど。逆に僕、お邪魔じゃない?」


「そんなことないって。千紗も兎和と話したがってたし」


「なら全然オッケーです」


 サムズアップとともに快く了承する……けれど、内心では少し不安を感じていた。

 前に軽く紹介されたとはいえ、三浦(千紗)さんときちんと顔を合わせるのは今回が始めて。軽い人見知り僕は、ちゃんと会話を成立させることができるのだろうか。


「やっほ、兎和くん。お邪魔させてもらうね」


「や、やっほ、三浦さん」


 己のキモい反応はともかく、心配の方は杞憂に終わる。お隣のC組からやってきた三浦さんが気さくに挨拶をしてくれたおかげだ。


 彼女の第一印象は、天真爛漫。表情がコロコロと変わるタイプで、笑顔になるとエクボができる。ガーリーなボブヘアがさらに純真さをプラスする。

 体格はかなり小柄で、長身の慎の横にいるとまるで大人と子供である。ただし、カップル間の力関係に身長差は影響しないようだ。


「ほら慎、さっさと机寄せて。わたしが座れないじゃん」


 空いている前の席を拝借して三人分の昼食スペースを確保する。

 指示をだすのは三浦さんで、実際に働いたのは慎。この二人の場合、主導権は完全に彼女サイドが握っている。


「じゃあ食べましょう。いただきまーす」


 三人揃って手を合わせ、食事開始。

 さっそく僕が弁当の蓋をあけると、朝食同様にタンパク質多めのおかずが顔をのぞかせる。主食は雑穀米。

 それを見た三浦さんが、続けて「わっ」と驚きの声を発した。


「兎和くんのお弁当、なんかヘルシーじゃない? でもすっごく量が多い!」


「おお、今日も大盛りだな。兎和はこうみえて、俺よりも食うんだぜ」


「ほえー。慎のほうが体は大きいのに、ちょっと意外だね」


 僕の食生活は、母によってきっちり管理されている。そのうえ『サッカーに適した体作り』にフォーカスされているため、接種カロリーは通常よりも多め。

 とりわけ部活前の昼食は重要なので、おかずの種類は豊富。よって二人が驚くのもむりはない。言うまでもなく、メニューは栄養素とエネルギーのバランス抜群である。


「ていうか、慎はそれで足りるの?」


「いんや、俺は部活前に購買かカフェでなんか買って食うし」


 なんだそれ、くそ羨ましい……栄成高校には、食堂の他にも軽食などを販売する購買や自販機は当然として、独自で運営する『カフェ』までもが併設されている。

 特にカフェは外部の大手チェーン店の監修のもと多数のメニューが用意されており、生徒からの人気は絶大。混雑時は上級生優先となるほどだ。


 どちらにしても、そこはかとなく青春の香りが漂う。ぜひとも一度は利用してみたい。否、するべきである。


「今日の放課後さ、ちょっと三人でお茶しない?」


「いや、部活あるんだが。兎和もだろ? のんきにお茶してるような時間なくね」


 即答する真面目な慎であった。

 ちなみに目の前にいるカップルは同じ中学の出身だそうで、受験前に実施されたオープンスクールの折にカフェを利用したという。三浦さんが「カフェラテが美味しくておすすめ」とついでに教えてくれた。

 

 恋人とカフェ……思わず血涙をこぼしそうになるほど魅力的な響きだ。

 その後も二人が日頃からどのようなデートを楽しんでいるかを聞かされつつ、穏やかに昼休みは過ぎていった。


 ***

 

 授業がすべて終われば、あまり嬉しくない部活動の時間が訪れる。

 栄成サッカー部の休みは、基本は『月曜』と定められている。他はだいたい試合か練習で日程は埋められており、全力で活動していたらブラック企業の社畜並みに忙殺される。

 

 それはともかく、始まったものは仕方がない。

 僕も部室でトレーニングウェアに着替える。外の指定ゾーンでスパイクを履き、ピッチ脇の空きスペースで体をほぐしつつ開始時刻を待つ。


 気分がのらずノロノロ準備していたせいか、間をおかず豊原監督とコーチ陣が登場した。総勢約130名もの部員が、すかさず部室棟の前で半円形に整列する。

 

「では、始めるぞ。まずは全体でアップ。終わったら上級生はメインピッチに残ってくれ、追って指示をだす。『Dチーム』はサブピッチへ移動して、トレーニングメニューのレクチャー。後半は紅白戦を行う。フルピッチ、15分を三本の予定だ」


 陣の中央に立つ監督からスケジュールが発表された。

 新入生はフィジカルがある程度できあがるまでの間、よっぽどのことがない限りはまとめて『Dチーム』へ配属される。チーム昇格はひと月ほど経て解禁となる。

 

 またDチームは事実上、これが各種トレーニングへの初参加。そこで、まずはコーチの説明をうけながらトライする形となる。

 後半にはフルピッチでの紅白戦。おそらく、現段階の実力を把握するための特別メニューだろう。メンバーを入れ替えて行うので、新入生の全員に出番があるはず。

 

 そうなると期待新人、白石(鷹昌)くんの実力がついにヴェールを脱ぐ……彼のプレーは本日が初見となる。入学前のセレクションでも紅白戦を行ったが、僕とは日程が合わなかった。

 少しワクワクする。果たして、同苗の他人を『じゃない方』と揶揄するに足るだけの才能を示す機会となるか。


 若干高めのテンションで一連のアップを済ませた僕は、50人をこえる新入部員の群れにまざってサブピッチへ向かった。


「お、来たな。少し話をするから、皆こっちへ集合してくれ」


 移動先では三人のコーチが待機していた。それぞれトレーニングウェアとスパイクを着用しており、ホイッスルを首から下げて準備万端といった様子。

 その中には、昨日のフィジカル測定でおしゃべりをした『永瀬コーチ』の姿もあった。しかも進行役を務めるらしく、Dチームが整列するのを待ってから口を開く。


「一年は全員サッカー経験者だから、馴染みのあるトレーニングメニューも多いと思う。だが、ユース年代からはあらゆる面で要求水準が高まる。特にプレーとシンキングのスピードは練習の段階からガンガン要求していくぞ。はじめは戸惑うかもしれないが、頑張ってついてきてくれ。では、始めよう!」


『はいっ!』


 永瀬コーチの訓示を受け、Dチームの面々が唱和する。

 とても理にかなった育成方針だと思う。


 ユース年代(高校)ではフィジカル面の成熟に伴い、走力やボールスピードが格段に上昇する。あわせて肉体の接触もより強く、より激しくなる。しかも戦術面まで複雑化するというおまけつき。

 ひと括りにサッカーといっても、ジュニアユース年代とはまるで別物。この数段とばしのステップアップへ対応するためには迅速なプレーの判断が、ひいてはシンキングスピードの向上が必須となる。


 僕的には自信のある分野だ。父が設定する自主トレには、脳の処理速度をアップする系のメニューが多く組みこまれている……メンタルの問題(トラウマ)が思いっきり足を引っ張って持ち腐れ状態にある能力だけれど。

 ともあれ、いよいよボールを使ったトレーニングのスタートだ。


「最初は軽くリフティングからな。ゴールは向こうのマーカーで、ボールを落としたヤツはその場でスクワットだぞ」


 まずは歩きながらのリフティング。

 ピッチを横に使い、スタートとゴールの両位置には目印のマーカーコーン(皿コーン)が設置してある。最後までボールを落とさず移動できたら成功だ。


 インサイドキックとアウトサイドキック、さらにヘディングのバージョンがあり、ボールを頭より高く上げることを意識する。

 何人か失敗した罰としてスクワットやるハメになるも、明るい声が飛び交う中でトレーニングは進む。


「次いくぞ。マネージャー、三号球もってきて」


 永瀬コーチがホイッスルを吹き、続いての『ボールコーディネーション』へ移る。

 これはかなり独特なメニューだ。ライフキネティック、いわゆる脳トレの要素を組みこんだトレーニングで、通常使うボールよりもサイズの小さい『三号球』を使用して行われる(重さは同等)。


 やはりピッチを横に使いってサイドライン間をドリブルで移動するのだが、ただボールを蹴るのではなく足の様々な部位を使用し、リズミカルなボールタッチで進む必要がある。


「最初は、足裏通しな。ゆっくりやるからよく見てろ」


 コーチ陣のお手本が披露される。

 ボールをしっかり斜め後ろに引いてから、『V』を描くようにインサイドで斜め前へ押しだす。その際にボールは軸足の裏を通過し、かつ同時に軸足を切りかえて足裏でボールを止める。それを左右の足で交互にくり返しながら前進。


 脳と体の動作をスムーズにする効果があるらしいが、まるでダンスでも踊っているみたいなトレーニングだ。しかもわりと難しい。

 僕は経験済みなので問題ないが、案の定苦戦するメンバーが続出である。


「今できなくても焦らないでいい。このトレーニングは毎日やるから、そのうち皆できるようになる。まあ種類が豊富で、慣れるまではちょっと苦労するだろうけど」


 永瀬コーチの言う通り、多数のバリエーションが存在した。当然だ。ワンパターンで終わるワケがない。


 アウトサイドでボールを押しだして足裏で止める、アウトプッシュ。

 足裏で引いてインサイドでボールを押しだす、プルプッシュ。

 足裏で転がしたボールをまたぐ、シザース。

 インインからアウトに切りかえてボールを動かす、インアウト。


 連続エラシコ、ジンガ、ダブルタッチ、アウトにボールを動かしてからのクライフターン、足裏でボールを転がしつつのアウトターン、その他等々。


 共通するのは、リズミカルかつ左右交互に行うこと、戻りは後ろ向きでトライすること。

 僕をふくむ経験者は比較的うまくやれているが、不慣れなメンバーは失敗多発。全バリエーションを消化するまでけっこうな時間を要した。

 幸い、ミスしても「あー」だの「わー」だのと騒ぎ、全体の雰囲気は終始明るいままだった。

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