ミスキャスト

コウ

第1幕 第1場 部室にて

 四月も半ばになり、東北地方の片田舎の桜の木もようやく満開の季節を迎えようとしていた。

「文化祭まで残り三カ月になったわけだが、ステージ発表で披露する演目について、何か意見のあるヤツはいるか?」

 黒板を背に、誕生日席に座っている僕は、すっかり硬くなった首を時計の針に習ってぐるりと回し、四人の部員たちに問いかけた。

 千歳恭典は机の上に裁縫箱を広げて巾着袋を縫っており、吾妻静央は長身の体をさらに天井へと伸ばしながら豪快なあくびを零した。吾妻の正面に座っている笹野梅子は頬杖をつきながら『TOEFLTEST必須英単語』のページを捲り、白鷹光司に至っては猫背でノートパソコンの画面を睨んでいる始末である。

 僕は台本を読み上げるように、一週間前にも今と全く同じ台詞を声に出していた。そのとき千歳は、幼稚園に通っている歳の離れた妹の誕生日プレゼントに、フェルト生地で猫のマスコットを作っており、吾妻は前日のコンビニエンスストアのアルバイトで疲れていると言って机にうつ伏せになっていた。笹野は『キャッチャー・イン・ザ・ライ』つまり『ライ麦畑でつかまえて』の原本を読んでおり、白鷹は時間を巻き戻したかのように、今と同じくノートパソコンの画面を睨んでいた。

 高校生という配役、部活というシチュエーション、部室という舞台装置は、つまらない日常を繰り返す歯車になっていた。その歯車の代わりに、黒板の上に取り付けられている時計の針が回転に合わせて音を立てている。

 演劇部の部室がある特別教室棟は、体育館やグラウンドから離れていることもあり、放課後でも静寂をまとっている。両隣の教室は、昔はとある文化部の部室だったそうだが、数年前に廃部になると同時に空き教室になったとのことだった。そのため、特別教室に部室を構えている部活は演劇部だけになっていた。

 僕は冷淡な静けさをごまかすように空咳を零し、一丁前に喉の調子を整えてから再び口を開いた。

「誰も意見がないのなら、部長特権としてオレが演目を決めるぞ。もちろん、文句は一切受けつけないからな」

 脅しに近い言葉に、六つの耳が同時に動いた。

「俺の台詞は少なくしてくれ。バイトのシフトを増やしたから、これからもっと忙しくなるんだ」

 吾妻が顎を手で摩りながら第一声を上げた。

「僕は衣装の用意が楽に済むなら、演目は何でもいいよ」

 千歳が針山に針を休ませ、見るからに邪魔そうな前髪を掻き分けながら言った。目にかかるほど長い前髪と線の細い体が、彼の性別を曖昧なものにしている。

「私は今までどおり、照明係にしてよね。もちろん英会話部の活動時間も確保してもらうわよ。私は英会話部の部員として活動するために、あなたたちには仕方なく、義理で付き合ってあげているんだってことを忘れないで!」

 艶のある黒髪に天使の輪を浮かべている笹野は「仕方なく」と「義理」の間に丁寧に一呼吸挟みながら訴えた。花弁が凛と咲き誇っているような睫毛で飾り付けられた目は、普段よりも一回り大きくなっている。

 僕と笹野の間に座っている白鷹は、僕たちの声が一切聞こえていないのではないかと思うほど、未だノートパソコンの画面に釘付けである。おおかた最近始めたと言っていたオンラインゲームでもしているのだろう。

「意見は一つも出さないくせに注文が多いぞ。ちょっとしたアイディアでもいいから何かないのか?」

 僕は都合よく態度を一転させた吾妻と千歳の顔を交互に見つめた。二人は僕の視線をものともせず、涼しい表情を浮かべている。文句の一つでも言ってやろうと口を開きかけると、白鷹がようやくマウスから離した左手を空へ掲げた。

「葉山先輩。話し合いを中断させるようで悪いんですが、新入部員はどうしたんですか? まさか、もう退部したんですか?」

 そう言うと白鷹は、眼鏡のレンズの奥にある目をギュッと細めた。白鷹の言うとおり、笹野の右隣の席が空いている。

「縁起の悪いことを言うな。舞鶴さんなら、今日は家庭の用事があるから部活を休むと連絡があった」

 僕は嫌な考えが一瞬頭をよぎり、身震いした体を自身で抱いた。

「そうですか。それならいいですけど……」

 白鷹が歯切れ悪く言った。

「今度の舞台に、一年生は出すのか?」

 頭の後ろで手を組んでいる吾妻が、椅子を前後に揺らしながら訊ねてきた。机の下に収まりきっていない長い足が何とも憎たらしい。

「今のところは出さない予定だ」

 表情を歪めたまま答えると、

「それならマイちゃんには何をしてもらうつもりでいるの?」

 完成したらしい巾着袋の縫い目を確認していた千歳が、顔を持ち上げて訊いた。

「舞鶴さんには、千歳の補佐役として衣裳係を手伝ってもらうつもりだ」

 彼女から入部届を受け取ったときから考えていたことを即座に答える。

「それなら私も裏方の作業を手伝うわ。それと発声練習や滑舌練習にはもう付き合わなくてもいいわよね。なんせ私は演劇部の部員じゃないんだから!」

 笹野が今にも椅子から立ち上がらん勢いで捲し立てた。

「何を言ってるんですか! 笹野先輩は正真正銘! まごうことなき! 演劇部の一員ですよ!」

 笹野の言い分に、白鷹の方が机に手をついて立ち上がった。その勢いで、黒縁の眼鏡が不格好に傾いた。

「そうだぞ。笹野は文句を言いつつも、演劇部の活動に参加してきただろう。今さら照れる必要はないからな」

 黙っていればいいものを、吾妻が茶化すように言った。

 笹野は眉間に皺を寄せて前髪を浮かせると、椅子にだらしなく腰掛けている吾妻を睨みつけた。

「別に照れていないわよ。英会話部が廃部になっていなかったら、私は演劇部になんか関わっていないんだから!」

 笹野も聞き流せばいいものを、むきになって吾妻に言葉を返した。

「なんかって言い方、気に食わねぇな」

 吾妻の顔から笑みが消えた。二人の間に険悪な空気が流れ始め、僕は本格的な喧嘩に発展する前に慌てて口を挟んだ。

「それよりも次の公演……と言っても、オレたち三年生にとっては最後の舞台になるわけなんだが、その文化祭での舞台を必ず成功させ、新入部員をあと三人確保しなければならないという重大な任務を忘れていないか?」

 僕は椅子から立ち上がり、背後にある教壇に上ると、手のひらで黒板を叩いた。その衝撃で白い粉が僅かに宙を舞った。黒板の右隅には「あと3人」と書かれている。ご丁寧なことに「3」はピンク色で強調されていた。

 僕の言葉に、僕と同じく三年生である吾妻、千歳、笹野が揃って顔を俯けた。

「そうですよ。もうじき引退する先輩たちにとっては他人事かもしれませんが、残される自分たち一、二年生のためにもっとやる気を出して下さい!」

 演劇部唯一の二年生である白鷹が、ここぞとばかりに拳を振って主張した。今の今までオンラインゲームに夢中になっていたというのに素早い身のこなしである。

「そうは言ってもなぁ……。体験入部のときは、けっこうな人数の女子が見学に来てくれたにもかかわらず、実際に入部したのはたったの一人。これ以上、何をしろって言うんだ。なあ、ヤス?」

 吾妻が千歳に向かって顔を傾け、相槌を求めた。縫い目の甘いところを見つけたのか、裁縫を再開していた千歳が針を動かしていた手を止めた。

「ほとんどの見学者がシズオを一目見ることが目的の女の子たちばかりだったから、人数はあまり参考にならないかもしれないね」

 千歳の言うとおり、素直に認めるのは悔しいが、体験入部に人が集まったのは吾妻のおかげだった。吾妻は顔が整っている上に百八十センチを越える長身だ。立っているだけで人の視線を奪うような外見をしている。新入生の女子たちは、演劇ではなく吾妻に興味があっただけだった。

「それに演劇部は、他の部活と比べて特殊というか風変わりしているというか……。演劇に対して純粋に関心を持っている人を探すのは大変だよね。だけど、このままだと愛好会に降格する上に、自由に使える部室や部費がなくなるわけだから、可愛い後輩たちのためにも何とかしないといけないね」

 千歳の言葉に、白鷹が嬉しそうに頭を振って大げさな相槌を打つ。その衝撃で、彼のトレードマークである天然パーマの髪の毛が楽し気に跳ねていた。

「オレたちは何としてでも、この伝統ある演劇部の存続を守らなければならない。そうでないと、高館さんに合わせる顔が……」

 僕は教壇から下りて椅子に深く腰を掛けると両手で顔を覆った。そのまま目を閉じると、制服を着た高館凪帆の姿がぼんやりと思い浮かんだ。真っ直ぐに切り揃えられた前髪に、勝気な性格を物語っている目尻。思い出の中の彼女は、なぜかいつも腕を組んで仁王立ちをしている。

「伝統といっても、開校から存続しているだけなんだけどなあ……。県大会常連の強豪校というわけでもないし」

 吾妻がすかさず減らず口を叩いた。

 僕はこれ以上、話が脱線しないよう、ここで本題を切り出すことにした。意識的に背筋を伸ばしてから口を開く。

「次の舞台を必ず成功させるために、オレから一つ提案があるんだ」

 僕の言葉に吸い込まれるように、四方八方に散らばっていた全員の視線がようやく僕の目の中に集まった。

 僕は途端に走り出した胸の鼓動に急かされながら言葉を続けた。

「今回は、五十五分の演劇に挑戦したいと思ってる」

 ここ数日間、ずっと胸に秘めていた思いをようやく言葉にできた。緊張ですっかり乾いた唇を舌先でちろりと舐める。

「五十五分!?」

 僕が突然場に提示したカードに、いつもは協調性の欠片もない部員たちの声が面白いほど綺麗に揃った。千歳は動揺して指に針を刺したのか、左手の人差し指を口先で吸い、椅子に浅く腰掛けていた吾妻はコントのように椅子から滑り落ちた。笹野は英単語帳を手から投げ出し、白鷹はノートパソコンをバタンと閉じた。僕は全員の反応を一つ、一つ見逃さないように観察しながら話を続けた。

「オレから提案しておいて、こんなことを言うのは正直気が引けるが……今までやってきた三十分の演劇と比べて一人当たりの台詞量が増えることは確実だから、やるからには覚悟してほしいと思ってる」

 吾妻を筆頭に、即座に反論が始まるかと身構えたが、部員たちは突然の事態に頭の処理が追いついていないようだ。拍子抜けするほど無反応であった。

 沈黙が流れる。時計の針の音でさえ、今は空気を読んで止まっていた。

「……本気か?」

 案の定、沈黙を破ったのは吾妻だった。吾妻は僕の申し出を冗談だと思っているのか、怪訝な表情を向けてきた。他の部員たちは、僕と吾妻のやり取りを遠巻きに見守ることに決めたようで、やけに背筋を伸ばして黙っている。

「オレは本気だ」

 僕はここ数週間の葛藤に、ようやく見切りをつけていた。

 白鷹は眼鏡のレンズで光を弾き、笹野は平常心を装いながらも小刻みな瞬きを繰り返し、千歳はヘーゼルナッツ色の目を泳がしている。僕は口内に溜まっていた唾を呑み込み、喉を鳴らしてから言った。

「五十五分の舞台をやるにあたり、演目が決定した後は、活動日を週三日から五日に増やしたいと思ってる。英会話部の活動は今まで通り水曜日に、平日の他の曜日は全て演劇部の時間に割り当てたいんだが、どうだろうか?」

 予告のなかった提案の連続に、部員たちの顔に戸惑いの表情が浮かび始める。

「僕は部活の他には用事がないようなものだから、別に構わないけれど……」

 千歳は自信なさげにしどろもどろに言うと、彼の隣にいる吾妻を上目遣いで盗み見た。千歳の視線に気づいた吾妻は、彼の心情を察して応えるように手をひらひらと振って見せた。

「俺はパス。バイトのシフトを減らすことはできない。だが、みんなが本気でやるって言うんなら、自分に与えられた仕事はきちんと果たすつもりだ。それに増えた分の活動日は、参加できるヤツだけが出ればいいだろう」

 吾妻は言い終わると同時に鼻を鳴らした。

「即答なのね。少しは考えるふりくらいしなさいよ」

 机に肘をつき手で顔を支えている笹野が、吾妻の顔を真っ直ぐに見つめながら不満げに声を漏らした。

「それは無理な話だ。こっちは生活がかかっているんだ」

 吾妻の地を這うような低い声に萎縮したのか、笹野は形のよい唇を結んで黙った。

「自分はもちろん大丈夫です! むしろ笹野先輩に会える日が増えて嬉しいくらいです!」

 白鷹は先程まで作っていた不安顔を一転させて笑顔を浮かべると、ずれた眼鏡の位置を直しながら答えた。打算的な性格をしている彼らしい答えである。

 白鷹の笹野に対する想いは、笹野本人を含め、部員全員が周知している。彼の軟派な言葉に、今さら誰も突っ込みを入れる真似はしない。白鷹と顔を合わせるたびにアプローチされている笹野に至っては、蚊が飛んでいるぐらいの反応を通り越して無反応である。

 僕は各々の反応をしっかりと確かめ、期待通りの映像に満足して頷いた。もちろんアルバイトに勤しむ吾妻からの否定も想定内である。

「それなら活動時間を増やす件は、吾妻以外は賛成ということで。今日休んでいる舞鶴さんにも今の内容を伝えておくぞ」

 僕の言葉に、それぞれが適当なタイミングで相槌を打った。この不揃い加減こそが湊高校演劇部の真の姿である。

「五十五分の演劇に挑戦するのはいいとして、脚本は大丈夫なの?」

 早速、次の問題に話を運んだ千歳が心配そうに訊ねてきた。

「大丈夫だ。いつもどおり、オレが用意する」

 実は僕の手の中には、既にカードは全て揃っていたが、次のカードを場に出すには時期尚早であった。

「わかった」

 千歳は僕の言葉を疑うことなく素直に頷いた。

 話し合いを締めようと思っていたところで、

「私は演劇部の部員じゃないから、あなたたちが決めたことに反対するつもりはないけど、葉山は自分たちに五十五分の演劇ができると本当に思っているの? 準備期間はたった三カ月しかないのよ」

 笹野が話を蒸し返してきた。彼女の無愛想な表情は、不安を物語っているというよりはどこか冷めた印象を与えている。

「できる、できないの問題じゃない。やるしかないんだ。オレたちに残されている道は、もうそれしか残っていないだろう」

 僕は笹野の態度を気にせず、熱のこもった息と一緒に言葉を吐き出すと、握った拳を宙に振るった。

「部の存続がかかっているんだからこそ、今までどおり三十分の演劇にしておいたほうがいいと思うわ」

 笹野がさらに反論してきた。今日は珍しく執拗に突っかかってくる。今まで演劇部の活動内容には、彼女が不利益を被らない限り、口出しをしない姿勢をとってきた彼女らしくない。笹野からの反対は予想外だった。

「確かに自分たちにとって、五十五分の舞台は未知の世界です。博打かもしれませんね」

 ノートパソコンを開き、オンラインゲームを再開していた白鷹が、笹野の意見に同調した。白鷹は笹野に骨抜きにされてはいるが、彼女の意見に理が非でも肩入れするような無責任な発言をする男ではない。博打だと感じているのは、彼の本心であろう。

 今までどおり三十分の演劇を無難にこなすか、一か八かの勝負に出て五十五分の演劇に挑戦するか。逡巡に逡巡を重ね尽くした僕にもう迷いはなかった。多少のアドリブこそあったが、演目決定までの筋書きは、僕の中では完結しているのだ。

 僕は、自分の台詞を口に出した。

「一人でも多くの観客に舞台を見てもらうには、上演時間は長ければ長いほどいい。何もオレたちは大会に出場するわけじゃないんだから、多少の時間配分のミスは許される。そういう環境でできる舞台が用意されているんだ。やらない手はないだろう」

 一言一句間違えずに言い切ると、一息吐いてから再び口を開いた。

「……それに、これが最後の舞台になるんだ。せっかくなら挑戦したいだろう?」

 僕の包み隠す気のない真正面からの挑発は、狭く埃臭い部室に低く響いた。

 廊下の窓が開いているのか、部室の戸が小さく揺れ、嵌め込まれている窓がらすが音を鳴らした。誰かが、ごくりと唾を呑み込んだ。

 短い沈黙が流れる。

「三年間の集大成にはぴったりかもしれないね。僕はケイタの意見に賛成だ」

 他の部員たちの意見を待たず、珍しく一番に口を開いた千歳が、僕に向かって柔らかな笑顔を見せた。

「俺もケータに任せる」

 吾妻が千歳の小柄な肩にゴツゴツと尖った右手を置いた。自然と部員たちの視線が笹野に集まった。笹野は居心地悪そうに身じろいだ後、

「葉山の言い分はとりあえずわかったわ。あなたたちに振り回されるのも今回で最後になるわけだし、仕方ないから付き合ってあげるわよ」

 無駄な贅肉が一切付いていない滑らかな背中を見せ、そっぽを向きながら言った。

「自分もわかりました。先輩たちの思い出に残る舞台になるよう、自分なりに精一杯頑張ります!」

 三年生の意見がまとまったところで、白鷹が自身の胸を叩き、賛成の意思を見せた。

「おう。みんな頼んだぞ!」

 僕は第一章の幕を無事に下ろせることに胸を撫で下ろした。とはいえ、安堵している暇はない。まだ手札は残っている。彼らに提示していないカードのことを考えると気は緩められない。

 吾妻が腕時計に目を落としたかと思ったら、急に椅子から立ち上がった。

「バイトの時間になるから、今日はこれで帰るな。急にヘルプを頼まれたんだ」

 吾妻は誰かに引き止められることを避けるように早口で言うと、さっさと部室から出ていった。慌ただしく帰っていく背中に、お疲れ、と声を掛けたが、おそらく彼の耳には届いていないだろう。

「シズオ、バイトのシフトを増やしたって言ってたけど大丈夫かな。今までだって、少なかったわけでもないのに……」

 後ろを振り返った千歳が、吾妻が出ていった後方の戸を見つめながら声を漏らした。

「吾妻なら心配ないだろう。自分の力量を誤って測るヤツじゃないさ。それよりも、進路はどうすることにしたんだ?」

 僕は部誌に今決まった内容を書き込みながら千歳に訊ねた。

「やっぱり就職するって。市役所を志望するって言ってたよ」

 千歳の答えに、白鷹が眼鏡の向こう側の目を一回り大きくさせながら口を開いた。

「吾妻先輩って、大学に進学しないんですか?」

 僕たちの通う湊高校は、進学校ゆえ、高校卒業後に就職する者は学年に一人いるかどうかの割合だ。白鷹が驚くのも無理はない。

「そうなんだよ。僕たちよりもずっと成績がいいのに、大学に進学しないつもりなんだ。何でも本人は、高校に入学したときから決めていたらしくて……。先生たちもしつこく説得しているみたいだけど、シズオは他人の言葉に耳を傾けるような性格じゃないからね」

 千歳が自分のことのように滑らかに語った。吾妻と同じクラスである千歳は、彼の進路事情に関しては、部員の誰よりも詳しく知っている。

 吾妻は見た目こそ派手だが、入試を首席で通過し、入学後の定期試験も含めて学年で一番の成績を保っている。部活に励む代わりに、塾に通う生徒が多い中、吾妻は塾に通っていないというのでさらに驚きである。それどころか演劇部の活動日が少ないこともあり、空いている時間はアルバイトに勤しんでいる。

「吾妻先輩には、大学に進学できない理由でもあるんですか?」

 白鷹が千歳を見ながらさらに訊いた。千歳が困ったように二、三秒黙り込んだ後、

「おそらく家庭の事情かな」

 と、遠慮がちに答えた。千歳は彼の母が営む手芸屋の手伝いこそするが、東京で単身赴任をしている父はIT企業を経営しており裕福だ。お金の苦労を知らずに育ってきたであろう千歳が軽々しく口にするには憚れるものがある様子だ。

「吾妻の家って、そんなに大変なの? 吾妻の成績なら国立も余裕で狙えるだろうし、今どきどこの大学も奨学金制度があるでしょう」

 今度は笹野が訊いた。彼女は普段吾妻とは口喧嘩ばかりしているが、本人がいないところでは彼のことを気に掛けている。

「金銭面の不安はもちろんあるんだろうけど、そんなことよりも吾妻自身が早く大人になりたがっていることが、大学に進学しない一番の理由だと思う。吾妻には、中学生の妹もいるからね……」

 千歳の言葉に、誰もがどこか思い当たる節があるようで、それ以上、この話が膨らむことはなかった。

 部活の終了時刻には少し早かったが、吾妻が早退したこともあり、今日のところは、基礎練習はせずに解散することにした。笹野が真っ先に部室から出て行くと、妹の迎えに幼稚園に寄って帰るという千歳が後に続いた。

「……吾妻先輩って、確か母子家庭でしたよね?」

 白鷹がノートパソコンの電源を落としながら訊ねてきた。部室には、僕と白鷹の他には誰もいないというのに、誰かの耳を気にするような声量だった。

「小学生のときに、父親が交通事故で亡くなったそうだ」

 僕が部誌から顔を上げて答えると、白鷹の喉がキュッと引き締まったのが、全身を使って引いた顎の動きからわかった。

 詳しいことは知らないが、吾妻本人から聞いた話だ。

「吾妻先輩は、坂田の生まれではないんでしたっけ?」

 前にそんな話を聞いたことがあるような、と白鷹が空を見ながらさらに訊いた。

「ああ、東京だ」

「ですよね。なんかオーラが違いますもん」

 白鷹が何度も頷く。

「そうは言っても、吾妻は小学校低学年のときに坂田に来てるんだ。それにしては、オレらみたいな方言や訛が一切ないのは不思議だよな。ふつうなら、もう少し染まると思わないか? 高校生になるタイミングで坂田に引っ越してきた千歳ならわかるんだが……」

 シャープペンシルを動かす手を止め、今度は僕が白鷹に訊ねた。

 訛りといっても、せいぜい語尾やイントネーションがおかしい程度である。祖父母世代はまだしも僕たちの世代になると、標準語に翻訳しなければ伝わらない言語で話すやつはいない。祖父母と同居をしていない世帯であれば、それこそ綺麗な標準語を使う。それでも日常会話の中に、単語レベルの方言がポロっと現れる。吾妻には、それすら見受けられないのだ。

「確かに、吾妻先輩は綺麗な標準語で話しますよね。口は悪いですけど」

「そうだな。口は悪いな」

 僕と白鷹は目を合わせて笑いあった。笑いの波が引くと、そう言えば、と白鷹が話を切り出した。

「この間、自分と吾妻先輩で、昇降口の掲示板に部の勧誘ポスターを貼りに行ったじゃないですか。自分がポスターを貼って、吾妻先輩がポスターの傾きを確認してくれていたんですけど、『かたがってませんか?』って訊いたら、吾妻先輩がきょとんとしたんですよ」

 なんかショックでした、と白鷹がノートパソコンの充電ケーブルを鞄の中に片付けながら嘆いた。

「『かたがってる』って、方言だったのか……」

 僕は思わず額を手で抑えた。こういうのをカルチャーショックというのだろう。

「吾妻は、東京にいたときは私立の小学校に通っていたらしいぞ」

 僕は額から手を離して言った。

「さすが東京ですね。自分らは中学受験ですら縁がないのに……」

 白鷹が感嘆の息を吐きながら言った。

 坂田市には、私立の小学校どころか中学校すら一校もない。この町に住む子どもたちは、親がよほど教育に熱心でない限り、中学生になって初めて受験というものを意識し始める。かくいう僕は、中学三年生の夏を過ぎてからようやく受験と向き合った。向き合ったというよりは、仕方なく通り過ぎたといったほうが正しいかもしれないが。

「なんでも幼稚園のときに受験して、エスカレーターで小学校に進学したとか言ってたな。オレは高校受験ですら死ぬほど嫌だったのに信じられない世界だよな」

「幼稚園受験って、ドラマの世界みたいですね」

「小学校には、制服を着て電車で通っていたらしいぞ。オレが小学生のときは一年中、半袖短パンだったっていう話をしたときに、そんなことを言ってたな」

 僕や白鷹にはフィックションにしか感じられない世界にいた吾妻にとっては、この町は何世代も前に発売された流行遅れのゲームみたいなものなのではないだろうかと思うときがある。この町で何年も過ごしてきたはずの吾妻がいつまでも方言を使わないのは、この町を受け入れたくないと思っており、彼なりの抵抗なのではないだろうかと。それを寂しいとは思わないが、どこか面白くないとは感じる。

「一年中半袖短パンで過ごす男子、学校に一人くらいはいましたね。一年中同じ格好をしていたのなら、最早それも制服じゃないですか」

 白鷹が笑いながら言った。

「母さんからは、服を買ってもらえないくらいに貧乏だと勘違いされるから止めてくれって言われてたな。今思い返してみると、よくあの恰好で風邪を引かずに過ごせてたなって、自分でも思うわ」

「バカは風邪引かないって……」

 白鷹は言いかけた言葉を途中で引っ込めると、空咳を一つ零してから、

「ところで、葉山先輩はもう志望校を決めたんですか?」

 素知らぬ顔で話題を変えた。僕は、赤点ギリギリ回避常連の白鷹には言われたくねえー、と声を上げてから、

「決まってるわけがないだろう!」

 と、部誌を閉じてスクールバッグの底に押し込んだ。

「開き直らないでくださいよ」

 白鷹が呆れたように眉を寄せてから机に手をついて立ち上がると、ショルダーバッグを肩から提げ、身支度が整ったことを無言で伝えてきた。僕は椅子から立ち上がり、スラックスのポケットから部室の鍵を取り出した。いつもどおり白鷹が先に歩き出す。廊下に出て、戸の錠に鍵を差し込む。

「吾妻先輩、幼稚園受験はしたのに大学受験はしないなんて……」

 僕の背後で、白鷹がぼそりと呟いた。最後まで言葉が聞こえなかったが、聞き返しはしなかった。僕は何も答えないまま鍵を回した。

 ガチャリ、と錠が掛かる音がした。

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