第9話 画家

翌朝、適当な緩衝材はないかと一人で探していると奇跡の粘土が目に付いた。それを左肘と義手の間に挟んだ状態で、義手を取り付ける。


突然、まったく予想もしていなかった出来事が起こった。左手の義手の指がピクリと動いた気がするのだ。と同時に、肘に触れていた粘土や義手の感覚も消え、ただ自分の左手の感覚だけがそこにある。試しに手首を回そうとすると、手首が回り、五指を動かそうとすると、なめらかに指が動く。手を動かそうとすると、手が動く、そんな当たり前の事象を前にして、何が起こっているのかを理解するのにしばらく時間がかかった。


この義手は、自分の意志で自由に動かせるのだ。さらに、義手に触れると、義手に触れられている感覚すらあるような気がする。


ヨーケルは興奮のあまり、使用人たちに見せびらかしたい衝動に駆られた。しかし、店主の『手の魔女かもしれない』という話が、彼を冷静にさせた。自由に動く義手など、常識を超えている。常識を超えた義手が知られてしまえば、手の魔女かもしれないという危惧は瞬く間に広まるだろう。それは自分の立場を極めて悪くする。最悪の場合、迫害される可能性や家族に迷惑を掛ける可能性だってある。身内であっても知られるわけにいかない秘密が増えた。


左手に手袋を嵌め、工作室を出てアトリエに移動する。アトリエに向かう途中、使用人たちとすれ違ったので、アトリエのドアには決して近づかないように厳命しておいた。使用人たちは、筆を持つのも難しいヨーケルがアトリエに入るのを不思議に思ったけれど、もともと気分屋のヨーケルのやることにいちいち疑問を持っていては仕事が進まない。それ以上は特に気にもしなかった。


彼はアトリエの内側からドアの前にソファを置き、簡単にはドアが開かないように細工をする。使用人がうっかり入ってきてしまう事故を防ぐためだ。そして左手で絵筆を取り、木枠に張った白いキャンバスの前に立った。義手がどれほど忠実に動くのか、試してやろうとの心づもりだ。


筆に青い絵の具を取り、心の赴くままに右から左へと水平に線を引く。ただの一本の線のはずなのに、とても美しい。いままでに幾度引こうとしても引けたためしのない線だ。自分で引いた線なのに、自分を遙かに超えた天才が引いた線だ。


あまりの感動に、呆然と立ち尽くす。左手を失って以来、その悲しみと理不尽さに対する怒りが原動力となって、彼に詩を作らせていた。その行為は、彼に大きな慰めをもたらした。彼にとって創作とは、そういった負の感情を慰める手段だった。しかし、今、絵筆を取る彼に湧き上がってくる感情は、それとはまったく別のものだ。


我を忘れ、筆を動かす。青い線が海となり、青空となった。遠くの島、砂浜にたたずむアコニット、その髪を透かす光。そのすべてが今を生きる著名な画家ですら知らない表現技法で描かれていく。自分が絵を描いているというよりも、左手がこの世界を切り出しているような感覚がある。悲しみも怒りもなく、ただ描きたいものを描きたいだけ描く。負の感情ではなく、好きなものを好きなだけ描ける悦びが原動力となり、彼に創作させる。初めての感覚だった。この感動を味わえただけで、もう満足だ。


ものの数時間のうちに、これまでの彼の作品の中で、最高傑作とも言える作品が出来上がっていた。これは、自分の手元には収まりきらず、やがてこの時代の最高傑作になる予感がある。と同時に、この左手は手の魔女としか言いようのないものであることを確信した。自分の手のようでありながら、まったく次元を超えた別人の手のようだ。

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