第9話 売布宮のモノローグ 1

「当時の社会には苦痛な労働と、孤立化による孤独感が蔓延していました。人々は効率優先の生産システムに組み込まれ、システムの一部として個別に働かざるを得なかった。常に競争にさらされ、時には家族や同僚とすらも学歴やノルマの争いをしなければなりませんでした。それに企業から離れたとしても国家というシステムが国民一人一人にIDを付与して、一人ずつ管理しています。もっともそれは今もそうですが。


そんな社会の現実を前にして、人は自分一人の力だけで、誰にも頼ることなく自己責任で人生を設計していくしかありません。国や企業は労働者や国民を個人として管理するだけで、人間の幸福とか、どう生きるべきかとかは考えていませんからね。


すべての他人が競争相手として現れてくるような社会では、誰もが個人として生きざるを得ず、勝ち負け以外の意味を見いだせなかった。労働を離れた余暇や自分の時間をいかに快適に豊かに過ごすか、それだけを追求するようになり、大金を得て豊かな消費者となることが人生の成功と同じ意味になってしまいました。


人類史上でも類を見ない富豪を生み出していく一方で、孤独で自分勝手な人間を大量に生み出しました。それは、時に自暴自棄になった人の暴走を招き、社会自体を大きく傷つけることにもなりました。


そんな状況を覆すことができると期待されて登場したのが、今のAIです。AI、ロボット、自動化、それらの集大成である人型のアンドロイドを、人間の代わりに生産システムに組み込み、AIが生み出す富をベーシックインカムとして分配することで、人間は非人間的な労働に就かなくてもよくなるという考えです。そして人間は、AIにはできない創造的なこと、やりたいこと、志や趣味を同じくする人たちとコミュニティを形成して、そこに参画することにより、誰もが必要とされる社会を構築することが期待されています。


例えば、パン作りが趣味の人は、同じくパン作りを趣味とする人たちや、小麦粉をつくっている人たち、あるいはパンを食べてくれる人たちと交流しながら、パン作りの腕を磨くことに集中することができます。ほとんどノーリスクで店を出すこともできますから、そのまま趣味が高じて街のパン屋さんになることもできます。そうやってパン作りという創造的な労働を通して、社会にとって必要な人間になっていくわけですよ。素晴らしいこととは思いませんか。他人に自分の価値を認めてもらうことほど、うれしいことはないですからね。


そして、このベーシックインカムの目論見は、ある程度は成功し、多くの人は苦痛な労働や孤独から解放されました。それにより、自由になった時間でやりたいことに取り組み、何らかの自発的で創造的なコミュニティに関わって、互いに尊重しながらそれなりの役割を果たすことができています。


しかし、それでもやはり、孤独で自分勝手な人間が生み出されているのが現状なのです」


これまで売布宮の抑揚は、一本調子で退屈だったが、ここに来て調子が上がり、ようやく本題が始まるのだなと思った。

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