後宮 1話

「ありがとうございましたー!」


 女性は軽やかな声でそう言うと、頭を上げる。


 結局、黄色緑柱石ヘリオドールの装飾品を贈られることになった朱亞シュアは、宝石に触れないようにそっと首元を撫でる。金額は教えてくれなかった。


「あの、本当にいただく理由がありませんが……」

「これから『協力者』としてよろしくお願いします、という意味も込めているので、そんなに恐縮しなくても良いのですよ」


 協力者、と朱亞は口の中でつぶやいた。確かにこれから後宮でいろいろと動くことになるのは朱亞と桜綾ヨウリンだ。だが、動く前にこんなに高価なものをいただいて良いのだろうかとぐるぐる考え込みながら歩く。


 思考が三巡したところで、後宮についた。


「――ここが、後宮なのですか?」


 思わずぽかんと口を開けた。こんなに豪華な建物、見たことがない。全体が赤く塗られた壁に、金色でなにかが描かれている。桃、のように見える。


「……なぜ、桃?」

「桃は縁起が良いとされているからな」


 朱亞のつぶやきを拾ったのは、飛龍フェイロンだった。びくっと肩を大きく跳ね上げ、声のしたほうを振り返ると――そこには飛龍と桜綾が立っていた。桜綾は朱亞の首元に輝く黄色緑柱石の装飾品を見て、目を丸くした。


「どうしたの、これ」

梓豪ズーハオさんにいただきました」

「まぁ、そうだったの?」


 桜綾はちらりと梓豪を見る。彼は少し複雑そうな表情を浮かべてから、顔をふたりに向けて口を開く。


「民たちの反応はいかがでしたか?」

「上々、といったところか。すれ違う民たちは彼女の美貌に恍惚の表情を浮かべていた。民の心は掴んだようだ」

「さすが桜綾さん」


 朱亞は目をきらきらと輝かせた。桜綾の美貌なら、老若男女問わずに魅了されるだろう。


「――さて、後宮に入ると滅多に外出することは叶わぬが、心の準備はできたか?」


 飛龍に問われ、朱亞と桜綾は視線を交えてから真剣な表情で彼を見て、同時に首を縦に動かした。


「――その覚悟、確かに受け取った。梓豪、お前は後宮に入れぬから、余が花嫁を連れて帰ってきたを宮中に知らせよ」

「かしこまりました」


 梓豪はうやうやしく飛龍に頭を下げる。去ろうと足を動かし、ふと朱亞と桜綾に顔を向けて口を動かす。


「またあとで」


 ――と。朱亞はこくりとうなずき、桜綾は真剣なまなざしを彼に注いだ。これからのことを考えると、なにが待っているのかもわからないため不安もよぎる。


 だが、後宮に入ると決めたのは、自分たちだ。


 なにが待っていても、乗り越えてみせる。


 決意を胸に秘め、彼女たちは門を見上げた。


 飛龍を先頭に、後宮の中に入る。


 後宮の門を守る門番は、飛龍の存在に気付くと頭を下げ、彼を歓迎した。


「ご苦労。余の花嫁とその侍女だ。顔を覚えておくように」

「はっ、かしこまりました!」


 門番はふたりいて、どちらも鍛え上げられた肉体の持ち主だった。桜綾はにこりと微笑みを浮かべながら、後宮に足を踏み入れた。それに続くように、朱亞も。


 ――これでもう、滅多に外出することができないのか、と思うとなんだか不思議な感じがした。


 飛龍の案内でたどりついた部屋は、とても広くて――がらんとした部屋だった。必要最低限のものはあるが、本当にそれだけ。


「自由に使ってくれ。調度品は仕入れ次第すぐに宦官に運ばせよう」

「ありがとう存じます、皇帝陛下」

「それと、そなたの部屋はこの隣だ。ここよりは狭いが、我慢するように」

「私にも部屋があるのですか?」


 朱亞は目を大きく見開いた。てっきり自分は桜綾と同じ部屋になると思っていたから。


「ある。そもそも、ひとりになれる部屋がなければ、着替えに不便だろう」


 ――そこで朱亞は思い出した。自分は宦官のふりもしなくてはいけないのだ、と。


「余が信頼する宦官を派遣する。その者からいろいろ受け取れ」


 飛龍はそう言葉を残すと去っていった。


 部屋に残されたのは桜綾と朱亞だけだ。ふたりは顔を見合わせて、ゆっくりと深呼吸をする。


「ここから始まるのね」

「そのようですね」


 部屋が広く感じるのは、大きな家具が寝台と棚しかないからだろうか。辺りを見渡している朱亞に、桜綾が声をかけた。


「朱亞、わたくしがお願いしたこと、覚えている?」

「後宮では『貴妃きひ』と呼ぶんですよね」

「ええ。あなたはわたくしの侍女。それを忘れてはいけないわ」


 真摯しんしなまなざしを受け、朱亞はきゅっと唇を結んでうなずいた。ここではなにが起きるのか、まだわからない。


「私は私なりに、胡貴妃を支えます」


 そっと胸元に手を置いて微笑むと、桜綾はどこかほっとしたように表情を緩ませた。


「お疲れではありませんか? 休むのなら、私、部屋で待機しますよ」

「……そう、ね。いえ、まだ一緒にいましょう。後宮を見て回らないと」


 桜綾はちらりと扉の外に視線を移した。朱亞はうなずき、彼女とともに後宮を探索するために歩きだす。


「思ったよりも、人が少ないですね」

「宮女たちも、前皇帝陛下が亡くなったときに入れ替えたみたいよ。朱亞と別行動をしているときに、陛下が教えてくださったの」

「なるほど。……だからこんなになっているのですね」


 歩いていていると、掃除が行き届いていないことがよくわかる。埃はたまっているし、花壇は枯れている。きっと丁寧に手を加えれば、綺麗な場所なのだろう。


「掃除が大変そうね」

「でも、逆に燃えるかもしれません。心が」


 現に朱亞はそわそわとしている。早く掃除がしたいと顔に書いてあり、桜綾はくすくすと口元を手で隠して微笑む。


「朱亞は掃除、得意なの?」

「人並みだと思います。おじいちゃんに掃除の仕方も終わっているので!」


 ぐっと拳を握りしめる朱亞に、「それは心強いわね」と桜綾は優しく声をかけた。

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