宿屋で休憩 6話

「そうだな。街で暮らしている者のほうが、悪鬼あっきうといかもしれん」

「わたくしは山で初めて、化け物を見ましたわ」

「この国にも悪鬼は確実にいる。しかし、それをそうと知らない者のほうが多いだろう」


 桜綾ヨウリンがぶるりと身体を震わせた。それに気付いた皇帝陛下がちらりと窓へ視線を動かし、ぱん、と両手を叩く。


「もう暗くなって来たな。今日はゆっくり休むが良い」


 ひらりと手を振る陛下に、桜綾が口を開いた。


「その前に、陛下。わたくしもまだきちんと自己紹介をしていませんでしたね」


 桜綾は皇帝陛下に近付き、芯の強い瞳で彼を見つめ、凛とした声で自身の名を口にする。


「わたくしは桜綾。銀波ぎんぱの胡商会の娘です。年齢は十八歳、好きな異性はいませんわ」

「……ならば、余も自己紹介をしないとな」


 桜綾から紡がれる言葉に、三人は目をまたたかせた。それから陛下は寝台から立ち上がり、自身の胸元に右手を添えた。


「余はヨウ飛龍フェイロン。ご存知の通り、紅焔コウエン国の皇帝だ。年齢は二十三歳、好きな異性は――これから、そなたを好きになる予定だ」


 飛龍は桜綾の髪を手に取り、毛先にそっと唇を落とした。その言葉か態度か、それとも両方か。桜綾の頬が赤く染まる。一気に染まったので、とてもわかりやすかった。桜綾は一歩下がり、朱亞シュアの手を取って「行きましょう」と逃げるように部屋から出ていく。


 梓豪ズーハオは、その素早さに唖然としていたが、すぐに我に返って彼女たちを追いかけた。


 残された飛龍は、くっくっくと肩を震わせて笑い、寝台に寝転がる。


 天井を見上げて手を伸ばす。なにかを掴むようにぐっと自身の手を握りしめ、拳をじっと見据えてから手をおろし、目を塞ぐように腕を下ろしてからぽつりとつぶやく。


「胡桜綾、朱亞。……なかなか面白いことを起こしてくれそうだな」


 願うような小さな声だった。つぶやいた言葉を聞いたものはいない。ただ、静寂の中、宝剣である焔だけが淡い光を放っていた。


◆◆◆


「お待ちください、おふたりとも!」


 梓豪は朱亞と桜綾の背中を追いかけて声をかけた。どこに向かっているのかわからない朱亞は戸惑ったように、「桜綾さん、目的地はどこですか?」と問いかける。すると、彼女はぴたりと足を止め、力が抜けたかのようにその場にしゃがみ込む。


「だ、大丈夫ですか……?」

「ねえ、梓豪さん。陛下は誰にでもああなの?」


 顔を隠すようにうつむいている桜綾に、梓豪は一瞬身体を強張らせた。図星、ではなくまったくの逆だったからだ。


「……いいえ、あのようにされるのは、桜綾さまが初めてです」

「わたくしが?」


 梓豪の言葉が意外だったのか、桜綾が顔を上げる。


 耳まで真っ赤に染まった顔を見て、朱亞と梓豪は顔を見合わせ、あのふたりは案外良い関係を築いていけるんじゃないかと考えた。


「とりあえず、部屋に行きましょう。ね、桜綾さん」


 朱亞が桜綾に手を差し伸べると、そろそろと手を取って立ち上がる。


 まだほんのりと顔が赤いが、そこを指摘してはまた顔を隠すためにしゃがみ込むだろうと思考し、朱亞は梓豪に部屋まで案内して欲しいと頼んだ。


 梓豪は快く案内してくれた。皇帝陛下――飛龍の部屋よりは狭いが、女性ふたりで使うには広すぎる部屋についた。扉を開けて中に入る前に様子をうかがうと、目元を細めてつぶやく。


「ま、まばゆさ、ふたたび……」


 今日だけでどれだけの輝きを放つ骨董品を見たのだろうか。あまりの広さと豪華絢爛さに辺りをきょろきょろと見渡す。あの村で済んでいた頃は、古い骨董品しか見たことがなかったので、きれいに磨かれた骨董品をじっくり眺めたのは今日が初めてのことだ。


「――王宮や後宮も、こんな感じなのですか?」


 まったく想像ができず、朱亞は梓豪に尋ねる。


「それは、これからの貴妃きひにかかっているかと」

「え?」

「なにせ、後宮の女性を尼寺に送るとき、調度品など持てるものはすべて持たせたそうなので。現在の後宮は……その、自分好みにし放題ですよ」

「……どこで調度品を用意するかは、わたくしが決めてよろしいの?」

「もちろんです。後宮を、胡貴妃色に染めてください。それが陛下の願いですから」


 梓豪は丁寧に頭を下げてから、「ゆっくり休んでください」と伝え、朱亞たちが部屋に入ったのを確認してから扉を閉めた。


 部屋に残された朱亞と桜綾は、「あの」と同時に口を開き、「どうぞどうぞ」と譲り合う。それがなんだかおかしくて、ふたりで笑い合った。


「朱亞から話してちょうだい?」

「はい、えっと、私……後宮のことを詳しく知らないのですけれど、大丈夫でしょうか?」

「大丈夫よ、朱亞。後宮のことはわたくしも詳しくないもの」


 意外そうに目を丸くする朱亞。そんな様子を見て、くすりと微笑みを浮かべる桜綾。繋いだままの手を引っ張り、彼女を椅子に座らせる。


「桜綾さんの話はなんでしょう?」

「これから後宮で暮らすことになるのだけど、そこではわたくしのことを『胡貴妃』と呼んでほしいの。ふたりきりのときには今まで通りで構わないから」

「胡貴妃、ですか?」

「ええ。お願いできるかしら?」


 朱亞は大きく首を縦に動かす。それと同時に、空腹を訴えるお腹の虫がぐぅう、と鳴いた。


 桜綾は目をぱちぱちとさせてから、この時間になるまでなにも食べていないことに気付き、寝台に近付くと呼び鈴を鳴らす。


 すぐに従業員がこの部屋までやってきて、扉を軽く叩き「お呼びですか?」と声をかけてきた。


 軽食を頼むと、「かしこまりました」と返事が耳に届く。


「いろいろあって食事をする時間がなかったわね。ごめんなさい、気付かなかったわ」

「いえ、本当にいろいろあったので……。私も空腹であることを、今気付きました」


 お腹を擦る朱亞の頬が赤くなっている。悪鬼を前にして緊張していたのだろう。そして今、ようやくその緊張の糸が切れて、身体が空腹を訴えることができたのだ。


「……私たち、本当に助かったんですね」

「……ええ。運が良かったみたい。そうだわ、朱亞。わたくしの侍女になってくれたあなたに、もうひとつ、お願い事があるの」


 そっと桜綾は包み込むように朱亞の手を両手で握る。突然のことに目を丸くしていると、彼女が口を開いた。

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