宿屋で休憩 4話

「おじいさんは、博識だったんだね」


 梓豪ズーハオの言葉に、朱亞シュアは胸を張ってうなずく。


「あ、でも今思えば……おじいちゃんだけじゃなく、村の人みんなが博識だった気がします。旅をしていろんな村を巡りましたが、私が暮らしていた村のようではありませんでしたし」


 右頬に右手の人差し指を添えて天井を見上げる朱亞に、桜綾ヨウリンが目を丸くした。


 そして、ぽんと彼女の肩に手を置く。


「荷物はね、彼が気付いて持ってきてくれたみたいなの」


「そうだったんですか? ありがとうございます、梓豪さん」


 律儀に頭を下げてお礼を伝える朱亞に、梓豪は蒲公英たんぽぽ色の瞳を大きく見開いてから、ゆるりと首を横に振った。


「いえ、お渡しするのが遅くなって申し訳ありません」

「そんな、私が荷物を馬車に忘れたから。お手数をおかけしました!」


 ぺこぺこと頭を下げあうふたりを見て、桜綾がくすりと口元に弧を描く。


 廊下でそんなことをしていると後ろから声をかけられ、振り返るとそこには皇帝陛下がいて、驚いて「こっ」と叫ぶ朱亞の口を、桜綾が手で塞いだ。


「雨に濡れて冷えた身体は、温まったか?」

「ええ、おかげさまで」


 桜綾が返事をすると、皇帝陛下は桜綾と朱亞、それから梓豪に視線を巡らせて、軽く首をかしげる。


「それにしても、こんな場所で頭を下げあうなんて、他の客から奇異な目で見られていたぞ」


 彼の言葉に朱亞は目をまたたかせ、改めて廊下を見渡す。確かにこちらをうかがうように見ている人たちが多く、朱亞と視線が合うとそそくさと去ってしまう人たちもいた。


 朱亞の口から手を離した桜綾が、事の経緯を簡単に説明すると、彼は目を凝らすように朱亞をじっと見つめ、それから自身の顎に手をかけた。なにかを考え込んでいるように見える。


「……とりあえず、ここは目立つから移動するとしよう。ついてきなさい」


 そう言って歩き出す彼の背中を、朱亞たちは慌てて追いかけた。


 皇帝陛下がすたすたと歩いていく。その先の部屋を見て、朱亞は「うわぁ」と目を丸くする。


 部屋に入り、まず目に飛び込んできたのは部屋の広さ。村で暮らしていた家を思い出し、確実に二棟は入ると確信しながら辺りを見渡す。


「ここにも朱雀」

「この宿屋の主人は、大の朱雀好きらしいな」


 くつくつと喉を鳴らして笑う皇帝陛下に、朱亞は部屋のまばゆさに目がくらくらとしてきた。黄金の置物が並んでいる。それも朱雀なのだろうか?


「まぁ適当に座れ、余が許す」

「朱亞、座りましょう」

「は、はい……」


 一生分の黄金を見た気がする、と思いながらも勧められた椅子に座る。


「陛下に会えてちょうど良かったですわ。わたくし、後宮に行くのにはひとつ条件がございますの」

「ほう? 条件とな?」


 皇帝陛下は寝台の上に座り、桜綾を見据える。一瞬彼女がひるんだように肩を震わせたが、すぐに勝気な瞳で彼を睨むように見つめ、朱亞の手を取った。


「朱亞を、わたくしの侍女にしてください」


 桜綾は真っ直ぐに皇帝陛下を見つめている。そして、皇帝陛下は面白いものを見たかのように口角を上げ、ふたりを交互に見てから口を開く。


「朱亞、後宮に入るということが、どういうことか知っているか?」

「知りません。ですが、私はどこに行くのも自由の身なので、桜綾さんについて行こうと思いました」

「ふむ。そこまで覚悟があるのならよかろう。では桜綾、そなたには『貴妃きひ』として後宮に入るように手配しよう」

「きひ?」

「ずいぶんと良い待遇ですこと。……なにか裏がありそうですね?」


 朱亞は首をかしげ、桜綾は目元を細めて息を吐き、皇帝陛下をじっと見つめた。


 梓豪はちらりと皇帝陛下に視線を移すと、なにかを言おうとしたのか口を開けたが、すぐに閉ざす。


「『絶世の美女』には当然の待遇だろう? それに、余は後宮に多くの人を置くのを好かん。必要最低限で良かろうに、自身の出世のために娘を差しだす者もいる。そもそも余の身はひとつだぞ。数百人の相手なんて無理だ」


 ひらひらと手を振って持論を口にする皇帝陛下。朱亞はますます首をかしげる。後宮にはそんなに多くの女性がいるのだろうか、と。


 朱亞が不思議そうにしていることに気付き、梓豪が彼女に近付いて説明してくれた。


 後宮に入るということが、どういうことなのかを。そして、前王のために集められた後宮の女性たちは尼寺に送られたことも説明され、朱亞は大きく目を見開く。


「ええっ、そんなにたくさんの人が後宮にいたんですか?」

「はい。ですが現在の皇帝陛下はまだ数人しか後宮に入れていないのです。そして、まだ階級も決めていなかったのですが……どうやら桜綾さんが一番皇后に近くなりますね」


 皇后……と口の中でつぶやき、桜綾を見つめた。彼女は目を閉じ、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。


「つまり陛下は、わたくしに後宮の主になれ、と?」


 問いかける声は少し震えていたように思えた。朱亞がぎゅっと桜綾の手を握りしめる。彼女の手は緊張しているのか冷たかったから、自分の体温を少しでもわけようと握りしめた。


「そうなるな。前王――父が亡くなってからもう二年。世継ぎをとはやし立てる者の多いこと!」


 不快気に顔をしかめる皇帝陛下に、朱亞は桜綾と梓豪を交互に見る。


「……なるほど、確かに『絶世の美女』のわたくしに、ぴったりかもしれませんわね」


 ふっと桜綾が笑みをこぼす。その表情はなにかを覚悟したように見えた。朱亞の手をそっと離し、椅子から立ち上ると自身の胸に手を当てる。


「わたくしよりも美しい人を見つけるのは難しいでしょう。後宮で絶対的な地位を確立できるのなら、陛下にご協力いたしましょう」


 自信満々な桜綾の言葉に、朱亞は思わずぱちぱちと拍手を送った。

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