宿屋で休憩 1話

 朱亞シュアは差し伸べられた手に自分の手を重ねて、馬車を降りる。高貴な方はこうやって馬車を降りるのかしら、と今回だけの特別扱いなのだろうと考え、ほんの少し心がくすぐったくなる。


 きっと狍鴞ほうきょうを見たことを気にしているのだろう。だからこうして優しくしてくれるのだろう。そう思考を巡らせ、朱亞は梓豪ズーハオが優しい人なのだと感じた。


「ありがとうございます」


 手を離して頭を下げると、梓豪はふるふると首を横に振って「気にしないでください」と優しい声が降ってきた。桜綾ヨウリンも彼の手を借りて降り、最後に皇帝陛下が降りる。


「この状況で、余の妻にならないほうが可笑おかしかろう?」


 立派な馬車から降りてきた朱亞たちは、周囲の人たちから注目を浴びていた。朱亞よりも桜綾のほうが目立っている。それもそうだろう。花嫁衣裳を着ているのだから。


 皇帝陛下の格好は恐らく質素なものだ。だが、彼の存在感はすさまじく、桜綾と並ぶと美男美女という神々しさを感じる。


「とりあえず、まずは風呂に入れ」

「ええ、おふたりとも身体が冷えているようですから、しっかり百を数えるまで出てきてはいけませんよ」


 まるで幼い子に言い聞かせるような梓豪の言葉に、朱亞は「はぁい」と明るく笑いながら返事をした。


 桜綾は一度大きなため息を吐いてから、そっと朱亞の肩に手を置く。


「行きましょう、朱亞。この宿屋なら、わたくしも知っているところだから」

「こんなに大きな宿屋を……?」

「ええ。お父さまの仕事の関係で。それでは、遠慮なくくつろがせていただきますわ、陛下」


 にっこりと笑みを浮かべて皇帝陛下に声をかけ、肩に置いた手を離し、代わりに朱亞の右手を握って歩きだす。


 朱亞は目の前に広がる大きな宿屋に呆然としていた。


 噂では聞いたことがある。近隣の町に大きな宿屋がある、と。しかし、こんなに大きいとは思わなかった。


 白く塗られた木造の建物。ところどころ朱色で絵が描かれていた。その絵がどんなものかはわからなかったが、鳥のように見える。


「桜綾さん、この鳥のような絵は一体?」

「ああ、それは朱雀よ。四神獣のひとつね」

「あ、おじいちゃんから聞いたことあります」


 東に青龍、西に白虎、北に玄武、南に朱雀。


「わたくしたちの暮らしている国は、朱雀が守護神なのよ」

「それで朱雀の絵が描かれていたんですね」


 なるほど、と朱亞がじっと朱亞の絵を見ていると、桜綾が彼女の手を引っ張った。


「今はお風呂が先よ。着替えは宿屋のものを借りましょうね」

「はい」


 確かに身体が冷えていた。水分をあのふわふわな布でぬぐったが、服は濡れたままだから。そう思うと一気に寒くなったような気がして、朱亞はぶるりと震える。


「これは桜綾さま。いらっしゃいませ」

「ごきげんよう。悪いけれど、お風呂を貸していただけるかしら? それと今日はこちらでこのこと休みたいの。ああ、代金はそちらの方から受け取ってくださいね」


 恐らく宿屋の主人である中年の男性に話しかけられ、桜綾はにっこりと微笑みを浮かべてすらすらと言葉を紡ぐ。彼女たちの後ろを歩いていた皇帝陛下と梓豪に気付くと、一瞬目を大きく見開いてから、こくりとうなずいた。


「かしこまりました。お風呂はすでにしていますので、いつでもお入りください」

「ありがとう。行くわよ、朱亞」

「あ、はい。……桜綾、『さま』?」

「わたくしが偉いわけではないのよ。お父さまがこの宿屋を支援したの。だから、わたくしのこともそう呼んでくださるの」


 つかつかと足音を立てながら、宿屋の中を歩く。どこに向かっているのだろうと考えながらも、物珍しさに思わず辺りをきょろきょろと見渡す。


「ここに泊まる人って、大金持ちじゃないとだめですよね……」

「大丈夫よ、陛下が代金を払うから」

「うーん、こんな贅沢な宿屋、初めてです」

「それなら、堪能しないとね。でも、今はお風呂が先よ!」


 桜綾は近くを歩いていた女性の従業員を呼びとめて、今からお風呂に入るから着替えなどを用意してほしいと伝える。それともうひとつ、頼みごとをした。


 もうひとつの頼みごとは、今着ている花嫁衣裳を丁寧に乾かしてほしいということだった。それを聞いた朱亞は目を丸くし、彼女を見上げる。


「ごめんなさいね、せっかくのおじいさんが縫った花嫁衣裳を、わたくしが濡らしてしまって……」

「あ、いえ! 気にしないでくださいっ」


 眉を下げてしゅんとうなだれる桜綾に、朱亞は慌てて首を横に振った。この花嫁衣裳を着るように勧めたのは自分自身であり、そもそもその衣装が花嫁衣裳であることを知らなかったのだ。


「いいえ、気にするわ。朱亞、謙虚なのはあなたの良いところかもしれないけれど、人の厚意は素直に受け取るものよ? それに、ちゃんときれいな状態で返さないと、わたくしが自分を許せないの」


 朱亞と視線を合わせるように軽く膝を曲げ、意志の強さを感じさせる栗皮色の瞳で真剣に見つめられ、朱亞はこくりと小さく首を縦に動かす。


 ほっとしたように、桜綾の表情が綻んだ。


 それから風呂場へ足を進め、脱衣所で桜綾は花嫁衣裳を脱ぎ、とても丁寧に折りたたんでカゴへ入れた。


「朱亞も服を脱いでこの籠に入れてね。洗濯して乾かしてから戻ってくる仕組みなの」

「……それはまるで、お姫さまみたいですね……」


 自分のことは自分でと躾けられていた朱亞は、自分で洗濯できるといいそうになったが、先程の桜綾の言葉を思い出して一瞬の間のあと、言葉を変える。


「ふふ。ここの宿はお客さまに最高のおもてなしをするのよ」

「なるほど……?」


 朱亞も服を脱いで籠に服を入れる。雨に濡れてぐっしょりと濡れてしまっているのを洗濯させてしまうのは申し訳ないような気がしたが、今このときだけお姫さま気分を楽しむことに決めた。


 風呂場の扉を開けて中へ入る。朱亞はその浴室の広さにまず歓喜の声を上げる。


「わぁ……!」

「大浴場は初めて?」

「はい、初めてです!」

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