雨宿りと出会い 3話

「ああ、だめよ、こすっては」


 涙を乱暴にぬぐうと、桜綾ヨウリンに止められた。祖父が亡くなってからまだ半年も経っていない。悲しみを紛らわせるためにも、旅に出ていろいろなことをこの目でしっかり見ようと思ったからだ。


「――私、おじいちゃんのこと、大好きだったんです」

「……ええ」

「でも、おじいちゃんと、血が繋がってなかったんです……」

「……家族の繋がりは、血だけではないわ」


 朱亞シュアを慰めるように目尻の涙を拭う桜綾。朱亞の大きな瞳から、ぽろぽろと涙が流れていく。


「大好きだった人を失ったんですもの。つらかったわよね」


 桜綾の優しい言葉が、朱亞の心に沁み込んでいく。村にいたときも、村人たちから慰めてもらった。そのときにだって、こんなに泣いていない。


 祖父は村人たちから愛されていたようで、生前はよく相談に乗ってほしいと村人が家まで顔をだし、お礼として畑で採れた野菜などのお裾分けをもらっていた。


 そんな祖父が朱亞の誇りでもあり、唯一頼れる人でもあった。祖父が亡くなり数週間はぼんやりと暮らしていた自分のことを、村人たちは気にかけてくれていたが、立ち直るには少し時間がかかった。


 家の中を掃除しているうちに、一通の手紙を見つけた。『朱亞へ』と封筒に書かれている手紙。


 祖父の字だったので、迷うことなくその手紙を読んだ。祖父の字でつづられた手紙を読み、ぎゅっと大切そうに抱きしめた。この手紙はいつでも読み返せるように荷物の中に入れている。


「――私も、おじいちゃんみたいなひとになりたいと、思ったんです」


 ぽつりと朱亞がつぶやく。村人から慕われていた祖父の姿を思い浮かべ、いつか自分も誰かに頼られる人になりたいと強く願った。


 あのまま村で暮らせば、きっとそれなりに楽しく過ごすことができただろう。あの村の人たちは、朱亞に優しく接してくれたし、ずっとこの村で暮らせばいいとも言ってくれた。


 旅に出ようと考えたのは、祖父の話を聞いていたから。祖父はあの村を訪れるまで、いろいろなところを旅していたらしい。


 村で畑仕事をしていた村娘に一目惚れをしたらしく、村長に頼み込み、村で暮らすようになったのだと笑いながら教えてくれた。


「だから、旅に出たのね?」


 こくんと朱亞の首が縦に動く。桜綾にぽつぽつと村でのことや、祖父のことを話していると、段々と心が落ち着いてきた。もしかしたら、誰かにこうして聞いてもらいたかったのかもしれない。


 朱亞はゆっくりと息を吐き、桜綾に満面の笑みを見せた。


「とりとめのない話を聞いてくださって、ありがとうございます。なんだか、祖父が亡くなったことを……ようやく受け止められた気がします」


 胸元に手を置いて、そっと目を伏せる朱亞に、桜綾は緩やかに首を横に振った。再度、彼女の頭を撫でる。


 その撫で方があまりにも優しくて、なんだか嬉しく感じた朱亞はもう一度「ありがとうございます」と言葉をこぼす。


 感謝の気持ちを伝えるのと同時に、おぎゃあ、おぎゃあ、と赤子の泣く声が耳に届いた。


 雨脚はまだ強く、白く筋の見える雨が降り続いている。そんな中に不自然に聞こえる赤子の泣き声に、桜綾は戸惑ったように山小屋の窓から外を見つめる。


「こんな雨の強い日に、赤ん坊の泣き声が聞こえる……なんてこと、あるの?」

「……いえ、恐らくこれは悪鬼あっきの鳴き声でしょう。祖父から聞いたことがあります。人を食らう悪鬼は赤子の泣き声で人を誘い襲う、と」


 朱亞も同じように窓の外を見つめて、聞こえてくる赤子の泣き声を振り払うように首を振る。


 そして考える。旅に出てから悪鬼にうことはなかったので、この場合どうやり過ごすのが正解なのかと。


「本当に、悪鬼の鳴き声なのかしら。もしも本当に――」

「この豪雨の中、聞こえるのですよ! 悪鬼が誘っているとしか思えません!」


 山小屋から出ようとした桜綾を、慌てて引き止める。彼女は朱亞が必死に止めるのを見て、ぐっと唇を噛み締めて視線を落とす。そして「そうよね……」と静かに言葉を紡ぐ。


「それに、また濡れたら風邪をひいてしまいますよ」

「……ええ、そうね。でも、なんだか、そわそわしちゃって」

「それは、そうでしょう。――鳴き声が近付いて来ているのですから」


 赤子の泣き声は徐々に近付いて来ている。まるで、朱亞たちに狙いを定めているように。


 どくん、どくんと鼓動が早鐘を打つのがわかる。ぎゅっと桜綾の腕に抱きつき、不安げに視線を彷徨わせる彼女を見上げ、窓の外を睨む。


 朱亞たちに悪鬼を倒す力はない。悪鬼に出遭ってしまったら、なす術もなく食べられてしまう運命だ。朱亞は恐怖で震える桜綾を落ち着かせるように明るく声をかけた。


「大丈夫ですよ、きっと。ただ近付いているだけでしょう。私たちに気付くとは限りませんし」

「え、ええ。そうだと良いのだけど……」


 桜綾は朱亞に視線を向ける。自分よりも幼い子が恐怖に震える自分を励まそうとしていることを感じ取り、自身を恥じた。朱亞だって、本当は恐ろしいのだ。その証拠に、身体が僅かに震えている。


「――朱亞、大人しくここで待機していましょう。きっと、大丈夫よ」

「はい」


 桜綾が落ち着いたのを見て、朱亞はほっと安堵の息を吐いた。恐怖で錯乱しこの小屋から飛び出したら、その瞬間、人を食らう悪鬼に襲われるだろう。


 朱亞と桜綾はただじっと、ふたりで抱き合い山小屋の中で過ごした。


 赤子の声が遠ざかるまで、息を殺して窓の外を見つめる。外に出ることはしない。そのうちに、段々となにかが近付いて来ていることに気付く。


「――っ!」


 思わず桜綾が自分の口を手で塞ぐ。油断すれば悲鳴を上げるところだった。朱亞も同じだ。窓の外には異形の姿をした怪物が、餌を求めて歩いていたのだから。

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