雨宿りと出会い 1話

 家を出たのはまだ太陽が高かった時間。教わった通りに歩き、南へずんずんと進んでいく。そのうちに、段々と空が暗くなってきた。


「雨の匂い。どこかで雨宿りをしなくちゃね」


 くんくんと空気の匂いを嗅ぎ、ぽつりとつぶやく。辺りを見渡して雨宿りができそうな場所を探す。ふと、なにかが視界をよこぎった気がして、ぱっと顔を向けた。しかし、なにも見つからず、朱亞シュアはきゅっと唇を噛み締める。


 空を見上げ、今はまだ晴天の空を眺める。山の天気は変わりやすい。どこかで雨宿りをしていれば、そのうち晴れるだろう。


 歩いている途中で小屋を見つけ、扉を軽い力で叩く。返事がないので扉に触れて押してみる。鍵はかかっていないようで、簡単に開いた。埃が舞い、思わずげほごほと咳き込んだ。


「……人はいない、みたいね」


 埃っぽい小屋の中に入り、少しのあいだ目を閉じて考えをまとめる。まだ降り始めていないから、と小屋の外に出て近くの草を引っこ抜き、根元を縛り簡易なほうきを作って戻る。口と鼻を手で覆いながら、ざっくりと小屋の掃除をする。


「うーん、すごい埃」


 あまりにも埃っぽくて、つい掃除をしてしまった。掃除が終わった途端に轟音と共に雨が降り出す。あまりにも強い雨に思わず息を吐く。ずぶ濡れになるところだった、と。


「この雨の強さなら、通り雨かしら?」


 窓の外からじっと雨を見つめていると、ふと雨音に混じってなにかが駆けてくる足音も聞こえてきた。ぬかるんだ土に足を取られているのか、その足音は遅い。


 だが、段々と近付いてきている。時折、「きゃあっ」と短い悲鳴も聞こえた。その声があまりにもきれいで、朱亞は目をぱちぱちとさせる。こんなにきれいに聞こえる悲鳴もあるのかと感心し、その声の主を窓にぺたりと手を付けて探した。


 すると、人の姿が見えた。なにかに追われているように必死に走っている。しかし、聞こえてくる足音はその人のものだけで、窓の外をじぃっと見つめる。


 徐々に近付いてきた。


 雨に濡れて困っているようだ。朱亞は少し考えてから、窓から離れて小屋の扉を開ける。


「こっちです!」


 朱亞の言葉に、その人はほっとしたような表情を浮かべて、小屋の中に駆けこんできた。


「ありがとう、助かったわ」


 凛とした澄んだ声。さっきの短い悲鳴の持ち主のようだ。朱亞は緩く首を左右に振り、駆け込んできた女性に笑顔を見せる。


「いきなり降ってきましたものね。実は私も、雨宿りのためにこの小屋にきたんです。あ、私は朱亞です」

「そうだったの? あなたは濡れなかったのね。わたくしは桜綾ヨウリンよ」


 桜綾と名乗った女性は、誰が見ても美人だと口を揃えていうくらい、整った顔をしていた。


 赤や黄みを含んだ深みのある艶やかな長い黒髪。今は濡れてしっとりとしている。朱亞ははっとしたように顔を上げて、荷物の中から手ぬぐいを取り出し、桜綾に差しだす。


「濡れたままだと、風邪をひきますよ」

「……ありがとう、使わせてもらうわね」


 彼女は栗皮色の瞳に優しさをにじませて手ぬぐいを受け取り、早速髪を拭き始めた。ぽんぽんぽん、と手ぬぐいに髪をはさみ手際よく水分を吸収させる。


 朱亞はもう一枚手ぬぐいを取り出し、彼女と自分の身体を見比べ、少し悩んでから自分には大きすぎる服を取りだした。


 祖父が『いつか大きくなったら着ておくれ』と朱亞のために作ってくれた服だったが、自分にはまだ大きいので桜綾に着てもらおうと考え、彼女に顔を向ける。


 桜綾は手ぶらだった。近くに住んでいるのかもしれない。だが、どうして手ぶらのまま山に入ったのだろうか?


 いや、それよりも風邪をひかせてはいけないだろうと、声をかけた。


「あの……これ、よかったら」

「……確かに服もびしょ濡れだけど、悪いわ」

「あとできちんと返してくだされば構いませんよ。この服、私にはまだ大きいので」

「そう? ……なら、厚意に甘えさせてもらうわね。実は、ぐっしょり濡れて気持ち悪かったの」


 桜綾は眉を下げて笑った。まるで花の綻びを見ているような気持ちになって、朱亞の鼓動が早鐘を打った。こんなにきれいな女性がいるんだなぁと、思わず彼女を見つめてしまう。


「わたくしの顔に、なにかついていて?」

「すっごくきれいな人だなぁと思って」


 素直に自分の感想を口にすると、桜綾は目を丸くして、それから満開の花のように笑った。


「素直な子は大好きよ」


 なんて茶目っ気たっぷりに言われて、朱亞はぽっと頬を赤く染める。


 もう一枚の手ぬぐいと着替えを渡すと、桜綾はそれを受け取り「ありがとう」と柔らかい声色で朱亞に声をかけた。


 ――美女の笑顔って、同性でも見惚れてしまうんだなぁと思った朱亞は、彼女が着替えやすいように、くるりと背を向ける。


「着替え終わるまで待っていますね」

「別に見ても構わないわよ? 同性なのだから」

「いーえ、人の素肌はおいそれと見ていいものじゃないと、おじいちゃ……祖父に教わりましたから」

「ふふ、良い人に育てられたのね」

「はい。血の繋がりのない私を、ここまで育ててくれた人ですから」


 さらりと口にしてから、朱亞は自分の口元を手で塞いだ。


 老人の家の近くに、赤子だった朱亞が泣いていたらしい。


 両親が近くにいるのかと探した老人だったが、一向に見つからず……老人は朱亞を引き取り育てることにした。――と、旅立つ相談をするために、村長家を訪れていたときに、話してくれた。


 なぜ自分には両親がいないのかと、育ててくれた祖父に聞いたことがある。そのときの様子――困ったように眉を下げて、ぐりぐりと朱亞の頭を撫でた――を思い出して、聞いてはいけないことだと気付いた。それからは、なにも聞かずに祖父から生きる術を学び、現在に至る。

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