人愛連鎖

白黒音夢

序章

  始まり



 少し古くなってきている木のテーブルから、なんとなくだけど、懐かしい匂いがした。

 すっと身体に入り込んで、溶けていくような、そんな匂い。昇ってきた朝日は大きなガラス窓から差し込んで僕の顔を照らしている。まだ春なのに、目を焼き尽くすような光を感じたので顔を背け、テーブルに突っ伏した僕は大きな大きな欠伸をした。春眠暁を覚えず、だっけ。

「ふぁあ……」

 今の僕は間抜け面をしている。と自分でも思う。

「そんな間抜けな顔しやがって」

 ほら言われた。

「そんなこと言わないでくださいよ。俺だって眠いんです」

 目を擦っている僕の前に黄金色に焼けたトーストが置かれる。

「成長期の健全な男子に対してコレだけですか? 児童虐待?」

「んなわけあるか」

 そう言って、雲のようにふわふわとした黄色いスクランブルエッグと、香ばしいバターの香りがするベーコンが数枚ほど、一枚のプレートの上に乗せたものが差し出される。

 最後に、小さなお皿に載せられた生野菜のサラダを乗せて佐伯さんが歩いてくる。佐伯さんが開発した特製のドレッシングで和えられているんだけど、それがまた美味いのだ。

「ほらよ。とっとと学校行けよ」

 ぶっきらぼうにそう言ってくるのは佐伯さん――本名は佐伯直人(さえきなおと)という男性だ。

 大柄で言葉づかいが悪い上に目付きも悪い。おまけに獅子の如き金髪を逆立てている。

 でも。

「っと……忘れてたあっ! ほぉれほぉれ、ミィちゃんも食べる? ケンちゃんも? しょうがないなあぁ!」

 変声期もとうに過ぎ去ったというのに、甘く甲高い声を出して猫に食べ物を与える佐伯さん。近所で犯罪が起こると真っ先に事情聴取に訪ねてくる警官達が、この様子を知ったらどのような反応をするのだろうか。などと考えたけど、やめる。あーメシ美味しい。

「相変わらずうまいっす」

 木の椅子とテーブル。高さが三メートルもない、低い天井に付けられている扇風機――シーリングファンと言う名前らしいが、それがクルクルと回っているのはなんだかお洒落なカフェみたいじゃないか。僕はいつもいつもそう思う。まあ、ここカフェだけど。

「その『うまい』って手際のことなのか料理のことなのかよく分からねえんだが」

「どっちもだけど。俺が今言ったのは料理の方」

 僕が相手と話す時に『俺』って言えるのは、今じゃ佐伯さんしかいない。数年前……もう五年前になるけど、それまでは兄貴がいた。兄貴は佐伯さんと一緒にこのカフェを経営していて、お客さんから高評価されていたのを覚えている。何故なら、風貌や言葉づかいが悪い佐伯さんと違って、兄貴は物腰が柔らかかったからだ。……身内贔屓で美化されている故人のことを説明するのは少し気が引けるけど、そんな兄貴は今でも僕の理想だ。

 ずっとずっと、理想のままなんだ――

 僕は考えている間にもどんどんと朝食を腹に入れる。食べ終わってから、出された牛乳を一気に飲んだ。

「じゃあ、行ってきます」

 そう言って、僕は扉を開けた。扉の外に付けられている鈴が、チリンと鳴った。

 いつもと変わらず、学校に登校するために、僕は足を踏み出した。


 人通りの多い交差点で、僕は信号が青に変わるのを待っていた。僕の前を歩いているのは幼い子供と若い母親で、何か喧嘩をしているようだった。たぶん、子供がわがままを言って母親を困らせている。で、そんな子供のわがままに対して母親は怒っているのだろう。よくある光景だけど……よくある光景だからこそ、僕は微笑ましいと思った。

 そんなふうに思って頬を緩ませた、次の瞬間。なんと、幼い子供が車道に飛び出したのだ。考える暇もなく、僕はその子の後を追うべく車道に飛び込んだ。

「きゃああああああああっ!!」

 声は母親のモノで、その悲鳴の意味するところも分かっていた。車は僕らの目の前まで迫っていたのだ。子供だけでも救おうと思った僕はその子を抱き抱え、母親がいる場所……歩道へと投げ飛ばした。

 僕まで逃げる時間がないことを理解していたから、僕は目を閉じた。自分の最期なんて、見たくなかった。そんな恐怖を直視できるほど、僕は強くないんだ。

 目を瞑っていても、近づいてくる車の音で分かった。急ブレーキを掛けたときの、耳障りな音がする。ガラス窓を爪で引っ掻いたような音。気持ち悪いと思ったときには、僕の身体は宙に浮いていた。頬に、身体に、感じる風。すべてがスローモーションだった。

「おにいちゃん、おにいちゃんっ! おきてよっ!」

 トテトテと近づいてくる足音に、目を開ける。そこにいたのは、泣きじゃくる幼い男の子。ああ無事だったんだ。よかった。

 ――助けたんだから泣くなよ。

 そうやって子供に声を掛けようとしても、頭を撫でようと思っても、何もできない。動かないって、怖いな。兄貴も死ぬとき、こんな感じだったのかなあ。

 少しずつ消えてゆく光。開いていた瞼が閉じられていく。そして辛うじて保っていた僕の視界が零になる。何もない、真っ暗な世界。でも、なんだか少しだけ安心する。これでようやく、僕は兄貴と同じ場所に行けるからだろうか。……と、親不孝ならぬ兄不幸なことを考えていた僕は驚いた。零の闇の中に、二つの月が目の前に浮かんできたからだ。

 真夜中にぽっかりと浮かんでいる二つの月……金色の月はとても綺麗で、その淡い幻想的な光を掴みたくて、僕は手を伸ばす。伸ばした手の先で、その光はゆらゆらと動いて、やがて何かになった。ぼんやりとしていて識別ができない。

 そしてその何かは僕に話しかけてくる。

【お前は生きろ。生きるんだ】

 どこかで聞いたような、懐かしい声がした。

 ――誰だよ。まるで僕のことを知っているような口ぶりじゃないか。

【もう一度聞くよ。生きたいか? 生きたくないか?】

 死ぬのは、怖い。

 ――僕は……まだ生きていたい。

【死なない代わりに、条件を呑んでもらう】

 ――は?

 思わず聞き返してしまった。

 ――交換条件ってヤツ?

【そうだよ】

 これじゃあ昔の漫画みたいじゃないか。生き返る代わりに善い行いをするだっけ。

【生き返るっていうか死ねないようになる。詳しく言うと、年を取らなくなる】

 ――不老不死ってヤツか。

 それは人間っていう枠組みからはみ出している。そんなことがあり得るのか。

【単に凄いっていう言葉だけじゃ表せないけど……あと】

 ――まだあるのか。

 なんて思ったけれど、生き返るための条件がそんなに簡単だったら割に合わないよね。

【誰かが抱えている悲しみや痛みを救ってやれ。それがお前の役割だ】

 ――誰かって誰? っていうか、救うってのは簡単じゃない。

「誰かを助けるための力。不幸から解き放つ力をやるよ」

 ――だから誰かって…………

 そもそもその力ってなんだよ。そう聞き返す手前、夏の日射しも敵わないくらい、眩い光が全身を包んだのを感じて、僕はゆっくりと目を開けようとした。いや、開けられる気がしたんだ。少しずつ身体が上に引っ張られて、徐々に二つの月との距離が近くなって……。そこで僕が見たのは、月のような目を持った黒猫だった。

 眠りから目覚めるときのように。ふわりと体がぐらついた。

 そして、光が僕を、上に、上に、引っ張っていく。


 それが、すべての始まりだった。



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