第6話 名誉

 「土屋君」


 峰が兵藤を殴って1週間が経つ頃。


 教室で静かに座って考え事をしていると、クラスの女子が声を掛けてきた。堀田瑠

璃子のデートドタキャン事件は、もう世間から忘れられ、俺の評価は普通に戻ったの

だろうか。それなら、どれだけよかったか。声を掛けたクラスメートは、侮辱と不快

の眼差しで俺を見ていた。


 「2年生の大宮(おおみや)さんが呼んでるよ。じゃ、私は伝えたから」


 伝えるなり、逃げるように女子の群れに紛れた。その群れたちの眼が俺を捉え、ひ

そひそと盛り上がっている。「また何かしたのかな」と「最低」という声だけ聞こえ

た。


 目線を入口の方へ向ける。中肉中背で目の細い、何とも形容しがたい、強いて言う

ならば普通の男子と目が合うと、手を顔のたたさまで上げてふるふると振った。


 「君が、土屋新太くん?」


 「ああ、そうですけど」


 「ちょっと君に用があってね」


 相手は単独で来たようだ。周りを見渡して、2年生が履く緑色の上履きは、1足し

かない。俺に何の用だ。『埋没忘却』のことは兵藤と峰くらいしか知らないし、信じ

ない。後は、あいつ。


 「土屋陽菜乃の差し金ですか?」


 俺は、この人を知っている。正確には、この人の役職と言うべきか。


 俺の突き放すような問いかけ方に、彼は爽やかに笑った。


 「差し金とは、よく言ってくれるね。歯に衣着せぬ物言いはお姉さんそっくりだ」


 「あんな悪魔と勝手に似せないでください」


 皮肉のような賛辞を全力で否定した。


 「で、俺に何の用ですか? 生徒会副会長、大宮真宏(まひろ)さん」


 「知ってるんだね、驚いた」


 「知ってるも何も、有名人じゃないですか、あなたたちは。そしてあなたは、冷静

沈着、明鏡止水の副会長って呼ばれる生徒会の大宮真宏」


この私立時ノ丘高校では、生徒の自主性が重んじられているため、その生徒たちをま

とめ役となる生徒会の影響力も必然的に大きくなる。文化祭や体育祭等の学校行事も

教師による大人の介入がほとんどない。


そんな力の大きい組織が俺の教室までやってきた。


「有名人なんて大げさな表現だよ。おっと、話が進まないね。お弁当でも食べながら

話そうか」


親指で生徒会室の方を指し、俺に背を向けて歩き始める大宮先輩。心臓がバクバク

と、鳴っていた。


「お姉さんはいないよ。今日は非番なんだ」


それを聞いて少し安心した。俺を地獄に突き落としたあの悪魔の顔を見たくなかっ

た。


「今のうちに溜まりに溜まった告白の用事を済ませているころだろう。今回の犠牲者

は他校の生徒も含めて3件くらいか。綺麗だからね、あの人は苦労してるだろうな」


「あんないかれた女のどこがいいんだか」


「君は弟だからそういうことが言えるんだよ」


 苦笑する大宮先輩。柔らかい雰囲気でいい人そうだし、ちゃんと話を聞いてやって

もいいかな。


 生徒会室での先輩の発言に、俺は絶望した。


 俺たちが日常的に授業を受ける教室とは違う、清潔で新しさを覚える生徒会室。理

事長室並に特別間のあるこの空間から、今すぐにでも消え去りたい。そう思わせる言

動。


 「あの、聞き取れなかったので、もう一回いいですか?」


 何かの間違いだ。俺は、再び聞いた。


 「僕たちの生徒会に入ってほしいんだ」


 優しくて人想いな先輩のイメージがメッキのごとく剥がれていく。あれだけ悪魔だ

と危惧した姉のいる場所へ、平気な顔をしていざなおうとしているこいつの神経はど

うなってんだ。


 「知ってますよね。俺があの女を嫌ってること」


 思わず自分の言葉から敬体が崩れた。目上の人間だろうが、俺に不確定を呼び込む

やつは許さない。


 「ああ、知ってるよ。でもお姉さんの方は君を大切に思っているよ」


 「どうだか、外面だけは良いからな、あの女」


 「で、どうする? 学年で浮いている君の名誉を回復するチャンスだよ。生徒の自

主性を重んじるだけにこの生徒会は激務になるけど、それを文化祭までやり遂げれば

他の生徒からの信頼も集まる」


 大宮は生徒会に加入するメリットを提示するが、それでも俺は首を縦に振ることが

できなかった。


 1年生が4月の時期に生徒会に入るのは異例中の異例だ。例年は文化祭が終わり、

3年生が引退するのと同時に生徒会員選が始まると聞く。逆に俺のような浮いている

人間が加入なんてしてしまえば、信頼を得るどころか、むしろ逆効果なのではない

か。


 さらに決意を遠ざける情報が、大宮の口から発せられた。


 「名誉を回復するのは君だけではない。峰一縷」


 思いもよらない名前が聞こえて、聞き間違いではないかと錯覚しそうになった。


 「はあ? …先輩、もしかして」


 「察しがいいね。君と同じく1年生の峰一縷さんもこの生徒会に加入してもらおう

と思ってね。思いやりと行動力がある彼女だけど誤解もされやすいタイプなんだろう

ね。人間関係ではかなり苦労していると思うよ。そんな彼女も、文化祭までの約半年

間、生徒会の任を全うすることで、それ以降の学校はかなり過ごしやすくなるはず

だ」


 大衆の面前で、兵藤勝治を指さし、説得力のない言い分を高らかに言い放った茶髪

の癖毛。他人から好かれる容姿を持つ彼女は、しかし、痛い女だと言われ孤立してい

る。


 だからこそ。


 「なおさら無理ですね。峰は、組織で活動するのに向いてないと思います」


 手際よく弁当箱に蓋をし、手提げ袋に詰め込み、俺は立ち上がった。


 「お断りさせていただきます。それに、まだ峰に会ってないんなら、この提案はし

ないでください」


 「彼女の事、よく知っているみたいだね」


 「知ってるからこそ、あいつには苦しい思いをしてほしくない」


 「彼女のことを思っているわけだ」


 「そんなんじゃないですよ。峰に恨まれたくないだけです。なるべく他人とは深く

関わりたくない」


 捨て台詞のように吐き捨て、ドアを閉める。


 そうだ。俺の選択で他人を巻き込みたくない。俺が生徒会に入ったら便乗して峰が

入る。峰だけが入って峰だけが苦しい思いをし、他の生徒たちにまた注目を浴びる。

どんな選択をしても、不確定要素を回避できないのなら、なるべく危険が起こらない

方を選ぶ。


 『太寿様ならば、やってみろ、と言う場面ですが』


 間宮多恵子の言葉が蘇る。起こってしまった結果を想像して怯える小物。器に相応

しくない。


 小物でもいい。俺は、親父とは違う。


 できるだけ何もしない。それは正当な選択だ。思い切ったことをして事故を起こし

ては、何の意味もないから。


 昼休みがもう少しで終わる。他クラスの人間たちが移動教室のため、化学の教科書

と思しき書類と大学ノートを抱え、少人数のグループを作って行軍している。


 その後ろで、ひときわ明るい茶色の癖毛が、1人でポツンと下を向き、歩いてい

た。


 寂しそうな顔だった。バスケットボールを投げた時や兵藤を殴った時とは真逆の意

気。溌溂とした猫目は生気を失っていた。


 たまに夢に出てくる『あの子』と同じ声の彼女。


 私、もう学校には行きたくない。


 『あの子』のあの声がたまに夢に出てくる。それを目の前の峰一縷が言っているよ

うな錯覚を覚えた。


 だから、話しかけた。


 峰の後ろにも生徒たちがいるにも関わらず、俺は話しかけた。


 峰は、俺のために兵藤の教室に乗り込んだり、兵藤を殴ってくれた。それなのに何

も行動にも移せない俺は、むしろ彼女の勇気ある行動を悪手だと失望して、自分の臆

病な性根を正当化した。彼女の勇気を低く見積もった。


 不確定要素は怖い。あの姉にまた何をされるか分からないし、生徒会の仕事なんて

俺たちに務まるかは分からない。失敗をして周囲から再び蔑まれるかもしれない。兵

藤みたいに辛辣な言葉を掛けてくる人間もいるかもしれない。


 でも。


 俺は、目の前で沈んでいる峰に、声を掛けられずにはいられなかった。


 「峰」


 籠った声を何とかして外界に発した。


 陶器のように真っ白な肌。猫目が俺の存在を認識した瞬間、弾かれるように、俺の

腹から威勢のいい声が出た。


 「生徒会に入ろう。俺と一緒に、運命を変えてやろうぜ」


 我ながらに恥ずかしいセリフだった。


 それでも、救いのある言葉なら、後悔はない。



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