第4話

 6月の夜は短い。午前4時を前に空は白み、通りを歩く人影も区別できた。その頃にはすでに、明智光秀あけちみつひでのおよそ三千名の兵によって本能寺は取り囲まれていた。


 ――ドンドンドン――


 門をたたく音がして寺の小僧が走った。


「このように早く、どなたさまで?」


「明智光秀の家臣、明智秀満あけちひでみつと申すもの。毛利もうり討伐に向かう主君に変わって織田信長様にふみを持ってまいった。口上こうじょうもあるゆえ、お通しくだされ」


「織田の殿様は、まだお休みでございます」


 寺の小僧でも信長は怖い。万が一、使者を通して機嫌を損ねては、何があるかわからない。


「戦の勝敗は一刻を争う。時をかけて何かがあれば、お主が責めを追うのか?」


 戦を持ち出されると小僧には抵抗する理屈がなかった。む無く、くぐり戸をあけて見ると明智秀満と名乗った平服の男と供の者二名が怖い顔をしてそこにいた。


「取り次ぎます。しばしお待ちを……」


 小僧が言いかけたところ、使いの男たちは無理やり押し入り、かんぬきを外して南門を解放してしまった。


「それ!」


 秀満が声をあげると、鎧兜よろいかぶとに身を固めた戦支度いくさじたくの兵たちがガシャガシャと武具を鳴らして駆け込んで来る。


 恐ろしさのあまりに小僧はその場で腰を抜かし、声もあげられなかった。


§


 南門から本堂付近まで広がった騒ぎは、客殿まで届いた。


 誰かが喧嘩でもしているのか?……表の騒がしさに蘭丸は目を覚まして身体を起こした。


「蘭丸……」


 隣の部屋から信長の声がした。彼も異変に気が付いたのに違いない。


「様子を見てまいります」


 蘭丸は真っ白な小袖一枚をはおり、静かに廊下に出て騒ぎのする方に向かった。


「兄者、あれを」


 書院の外側にいた坊丸が指した先には、桔梗紋の旗指物が揺れている。


「明智殿が……」


 明智光秀が間近にいることはわかったが、何のためにやって来たのか、咄嗟とっさに想像出来なかった。明智が信長に従って10年ほどにしかならないが、信長は明智を信頼して使っていたし、彼もそれに応えるように従順に見えていたからだ。


 とはいえ、旗指物の周囲で小競り合いが起きているのは間違いなかった。刀の切り結ぶ音がする。……おそらく謀反なのだ。しかし、なぜ?


 答えを得られないまま、蘭丸は坊丸を連れて信長の寝所に戻った。


 信長は既に派手な単衣を身にまとっていて、「顔を洗う」と廊下に出た。


 蘭丸は長押に掛けられた十文字槍を取った。多数の者と戦うことになるのなら、刀より槍の方が頼りになる。槍を小脇に挟み、主人の刀を手に取ると後を追った。


 信長は便所にいた。出入口には目を怒らせた坊丸が控えている。もちろん、怒りの矛先は明智光秀。蘭丸は坊丸に主の刀を預けた。


 便所の中から豪快な放尿の音がする。


 騒ぎを前に、なんと豪胆な主よ。……頼もしさを覚えた。


「これは謀反か?……ならば、何者」


 便所から出てきた信長が問う。


「明智殿でございます」


 片膝着いて蘭丸が応えると、「是非に及ばず」と信長は言った。それが明智の気持ちを知っているという意味なのか、相手が明智では自分の運命は決まったということなのか、蘭丸には分からなかった。


 信長は手水鉢から水をすくうと、ざぶざぶと豪快に顔を洗った。


 蘭丸は懐から手ぬぐいを出して信長に差し出した。


「攻めろ、蘭丸」


 信長の命令に「ハッ」と僅かばかり頭を下げって立ちあがる。


 顔を洗った信長が、坊丸から刀を受け取った。


 そこに信長の槍を持った力丸が駆けてくる。


「明智殿、謀反!」


 力丸の声はひっくり返り、信長より高い声になっていた。


「分かっておる。落ち着け」


 信長が呵呵と笑った。彼は己の運命より三兄弟の行く末を案じた。


「蘭丸、坊丸、力丸。血路を開け。そして岐阜まで駆けろ」


 信長は全力を尽くして故郷に帰れと命じたのだが、三兄弟は信長の逃げ道を作れと解釈した。


「ハッ!」


 三兄弟は、それまで菩薩のようだった美しい顔を鬼に変えた。


「東門に出る。坊丸、並んで道を拓け。力丸は殿の背後を守れ」


 蘭丸は弟に命じると信長を囲んで移動し始めた。


 本能寺は堀と塀に囲まれている。外から中に入り難いように、中から表に出るのも難しい。堀に飛び込んだら上がる時に討たれるだろう。逃げるには、門から出て橋を渡るしかなかった。


 四人は客殿内を通り抜け、東の廊下に出た。そこにはすでに明智方の兵がいて、信長の僅かな護衛兵が渡り合っている。槍や刀の切り結ぶ音がそこあそこで鳴っていた。


 鎧兜をまとっているのが明智方の武将たちで、平服でいるのが信長の護衛の者たちと、薄明りでも見分けはつけやすい。蘭丸と坊丸は、現れた明智方の雑兵を三人ばかり突き殺した。突かれた兵が叫び、血しぶきが吹くと注目を浴びる。


「そこに見えるは右府うふ、織田信長様でござるな。首を頂戴いたーす!」


 一人の武将が雄叫おたけびをあげて駆けてくる。その後に、数人の雑兵がいた。


「寄るな、下郎」


 蘭丸は負ける気がしなかった。その十文字槍は、集まる武将や雑兵と数号交えるだけで次々と突き殺した。彼の中ではいつも、「攻めろ、蘭丸」と信長の声が轟いていた。


 しかし、殺せば殺すほど、敵の数は増える。

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