第2話 願え、誰が為に

「コト」

 差し出された白磁の指に我は八の足でよじ登る。

 金糸の髪は項で雑に束ねられ、失われた左目は黒い布に覆われている。それでも尚気になるのか、前髪が左目側を覆っている。

 コト、というのはこの者が考えた我の名だった。我は神故に、人間が好み合ってつける呼び名というものを好まないのだが、だからといって、こいつの旅の供をするにあたり、一言主という神の名を語って歩くのもいかがなものか、と案じたのだ。見ての通り「ヒトコトヌシ」の発音から取った単純な名前である。

 我の依り代は蜘蛛だ。忌み嫌う人間の多い生き物である。一言主とは蜘蛛の形を取った神であるため、依り代も蜘蛛を好む。我も例外ではない。

 依り代が殺されれば、別な依り代に移れば良い。我の魂は何人たりとも犯せないため、一言主である我が死ぬことはない。が、この者が言った。「君は君のままがいいな」と。

 人間の戯れ言になど、普段なら耳を貸さないのだが、我はこの者を特別哀れだと思っていた。この者の願いを叶えるためには、村を一つ滅ぼさなければならなかった。そこまでしなければならないなど、幼い子どもだったこの者には想像できなかっただろう。人の願いというのは、譬、一言であっても多大な影響を周囲に及ぼす。それが示された話だった。

 砂の塔が崩れて、街がなくなったのを見て、この者は呆然としたりはしなかった。「ようやく、生きられる」そう言ったのだ。

 子どもながらに悟っていたのだ。この村では生きられないということを。だからこそ、我はいっそう哀れだと思った。

 本来なら、人間はこの結果に怒るはずなのだ。何故こうなるとわかっていたのに教えなかった、などと、願いを叶えた神に対して、烏滸がましいことを言うのだ。

 けれど、この者にはそういう感情はなかった。自分の願いに後悔がないというのは人間にしては立派なものだ。だが……

 人間だからこそ、欠如してはいけない感情だったのでは、と我は考える。人間は矛盾を抱える不完全な生き物だからこそ愛しい。それなのに、この者はそういうものから遠ざかってしまった。人間と認められたかっただろうに。

 しかし、この者がさして気にした風でもないので、我は何も言わずにいた。人間たちはこういうのを触らぬ神に祟りなしとか言うらしい。我が神だが。

「して、サトー、今宵の宿は決まったか?」

「ええ、依頼があったんです。なんでも屋に」

「ほう」

 我とこの者……サトーは旅をしながらなんでも屋というのをやっていた。手っ取り早く路銀を稼ぐ方法だ。なんでもやるから金を恵んでくれ、というのは滑稽な話だが、腹を空かせ、雨風に晒されるのはサトーなのだから仕方ない。我は蜘蛛だから、勝手に屋内に入れるが、サトーはそうもいかない。

 旅を始めた当初はサトーは子どもだったため、本当になんでもするしかなかった。靴磨きをしたり、宗教勧誘を手伝ったり。宗教勧誘を手伝うと、もれなくサトーも勧誘されたが、サトーは「僕の信じる神様なんていません」と頑なに断り続けた。いや、我は微妙な心境なのだが、まあ、我が神ということをサトーが信じていないだけだろうと思っている。

 なんでも屋は意外と評判がよかった。サトーが思っていたより、色々と器用だったのだ。些細な頼み事ならすんなりこなしてしまう。それを見守って、もう我なしでも大丈夫だろう、と思って離れようとした頃、サトーに引き留められた。

 それはなんでも屋の人間が処理するには無理な頼み事で、一言だけなら願いを叶えられる我がいれば、どうにかなることだった。

 それは死にかけの兄を助けてほしいという頼み事だった。サトーは器用だが、医療となると専門知識が必要だ。手当てや血止めくらいならできたが、その人間の有り様は素人ではどうしようもなかった。

 そこへ、我を連れて、サトーは言った。

「この人に生きてほしい、と願ってください」

 それは暗に、サトーが我の力を利用するということの表れだった。確かに、我は神だから、一言であれば、願いを叶えられる。生きてほしい、助けてほしいくらいなら、一言のうちだ。それならば叶える他ない。

 依頼人は切に願った。死にかけの兄に生きてほしい、と。その一言の願いを聞いた我は、その願いを放置することもできず、人間で言うところの奇跡を与えてやった。

 見る間に血の気が失せていた顔色に肌色が戻り、今にも途切れそうだった息は、すうすうと健やかなものになった。

 命の価値というものは、金銭で決めていいようなものではない。故に冥界には神がいて、外つ国では医学を発展させた医者が、神に殺された。人間は、人間の命は絶対であってはならない。

 その禁忌を犯したようで、少し後ろめたく思っていた我だったが、しばらく暮らせそうなほどの路銀をサトーが得られたので、まあいいことにした。

 けれど、サトーは我が気にしていることに気づいたらしく、言葉少なに謝ると、以来、人の命に関わるような依頼は引き受けないようになった。

「それで、今回の仕事は?」

「とても久しぶりに、あなたに手伝ってもらう」

「ほう」

 簡潔にサトーは述べた。

「さがしものがあるらしい。どこにやったか忘れた、と」

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