第8話 慧可断臂(えかだんぴ)

税理士である白戸の所へ到着すると麟と澤井は車を降り、受付へ向かう。ここ1ヶ月で何度か事務所へ顔を出している麟のことを受付も職員も覚えており、スムーズに白戸の部屋へと案内された。


職員が所長室をノックすると、どうぞと白戸の声がした。ドアを開け、海藤印刷の海藤さんと澤井専務がお見えですと職員が告げると


白戸「お!今日はスーツか。ビシッと決まってるね。凛々しくて良いね、海藤さん。」

麟「先生、お忙しいところお時間をありがとうございます。今日もよろしくお願いいたします。」

白戸「立ち話もなんだから、さ、掛けて。」


白戸はソファへ二人を案内すると、笑顔から真顔へとスイッチを入れた。


白戸「さて、事情は澤井さんから聞いてるよ。買収の話だよね。」

澤井「はい、そうです。先ほど帝国銀行の成田さんから正式な打診がありました。」

白戸「打診ね。で、海藤さんの回答は?」

麟「澤井専務と相談して決めるとお伝えしました。1週間後にまたお会いすることになっています。」

白戸「なるほど、ではまだ決まってはいないということだね。」

麟「はい。最初は私が社長になって、海藤印刷を立て直す…つもりでした。」

白戸「ふむ。だが自信がなくなった…ということかな?」

麟「いえ、自信とかそういうことじゃなくて、あの…自信が無いのは最初からというか、何も根拠が無いというか……。何が一番良いのかわからなくなってしまって…。」

白戸「なるほどなぁ。そりゃそうだよね。大学出たばかりで社長になるための勉強を始めたばかりだもんね。いや、私が失礼だった。ごめんね。それで、澤井さん、帝国さんはどこが買うとか言ってた?」

澤井「いえ、まだ正確なところは…。ただ大手であるとはおっしゃっていました。」

白戸「大手か…。そうなると凹凸か、帝国さんと繋がりがあるJBP(ジャパンビジネスプリンティング)か…というところだね。で、金額は?」

澤井「20億程度とのお話です。」

白戸「そりゃ安い。安すぎる!海藤印刷の価値は倍でも良いだろう。長年の努力で培ってきた地方行政との繋がりや、取引先のことを考えれば営業権評価だけで20億くらいの価値はある。」

澤井「はい、その辺りのことが正直わかりかねますので、白戸先生にアドバイスいただければと…。」

白戸「うーん…適正価格を提示することは構わないのだけれど、そもそも売るのかどうか…金額で決めるということなの?」

澤井「いえ、そういう話ではなく、今までこういう機会も無かったので、海藤印刷の価値を正確に知りたいということです。」


ここまでの話を聞きながら麟は、君主論に書いていた次の一節を思い出した。


『君主が尊敬されるのは、真の友であるか、真っ向から敵であるか、つまり、何の遠慮もなく、一方を支持し、他方は支持しないと宣言したときである。


いずれの場合にも、自ら宣戦布告し、激しく戦争する方が常に有利である。


というのも、もしあなたが自分自身の立場を宣言しなければ、あなたは必ず勝った方の餌食となる。

なぜなら、征服する者は、試練の時に味方しないような疑わしい友人を欲しがらないからである。敗北した側から見ても、自分に味方をしない者が窮地(きゅうち)に陥(おちい)っても、あなたを匿(かくま)うことはないからである。』


マキャヴェリは君主たる者は常に立場を明確にすべし!と説いているのである。どっちつかずはどちらの友にもなれないから最悪の選択だ、と。


麟は思う。


そうよ、私が立場を明確にしないといけないのよ!

韓非子にも書いてあったじゃない!『王の志が欠け、決断力がなく、確かな方針がないのは危うい。』って。ここで私が決めなくて、どうして社長が務まるって言うのよ!私の志は父の遺志を継ぐこと!海藤印刷をすごい会社にすること!お金の問題じゃない!20億には目が眩(くら)むけれど、こんな話が従業員に知れたら「金額で決めるような社長かよ、がっかりだ。」って絶対思われる!自分で20億以上稼げば良いじゃない!いや、稼いでみせる!


ここで迷ってはいけない!!!


麟の心が決まった瞬間である。


麟「白戸先生、澤井専務、私決めました。私が社長になります。海藤印刷は売りません。」

澤井「評価の話を聞いてから決めても遅くはないよ。海藤さんの人生に関わる大切なことだ。」

麟「いえ、金額の大小で会社の命運を決めること自体が間違っていると気が付きました。こんな話を従業員が聞いたら、結局お金で決めたのかと笑われます。私はそんな社長には成りたくありません。20億でも40億でも売りません。それ以上稼けば良いんです。大変かもしれないし、甘いのかもしれませんが、これから社長をやろうという人間が、そんな志(こころざし)の低いことを言っててどうするんですか!澤井専務、私は社長に成ります!」


凛とした…

今の麟は誰の目から見ても、その言葉がしっくりくるものであった。


白戸「よく言った!!!澤井さん、新社長は私たちが思っているよりも大物かもしれないね。」


澤井は無言であった。正確には言葉が出てこなかった。


澤井と先代社長の海藤 志郎は高校からの付き合いで、志郎が1つ上の先輩だった。澤井の家庭は裕福とは言えず、苦労が絶えなかったが、志郎は澤井に目をかけ、俺と共に来い!と面倒を見続けた。志郎は高校を出て、大学には行かず海藤印刷に入社すると、先々代に「俺の右腕が来年卒業する。そいつは必ず海藤印刷のために全力を尽くす男になる。だから大学で学ばせてやってほしい。会社から学費を支援してもらえないか。」と頼みこんだそうである。そして澤井が大学に行っている4年間、志郎は現場で懸命に働き、周囲の者が驚くほどのスピードで成長し、会社の誰もが志郎社長の代が楽しみ!と言われるほどになった。


そして澤井は海藤印刷に入社した。澤井は大学の4年間で経営、経済、法と会社の経営に必要となるあらゆる知識を吸収してきた。志郎は言う「俺は現場の叩き上げで構わない。お前の知識を俺によこせ!俺に足りないものをお前が持っていればそれで良い!よく来たな!ありがとう!」と。


澤井は志郎をよく支えてきた。志郎もまた澤井を頼みにしていた。自分の人生をこの人のために尽くそう。澤井はそう心に決めていた。しかし、志郎は事故で急逝した。


事故の1か月前、澤井は志郎に誘われて飲みに出かけた。

澤井「先輩(二人だけの時は澤井は志郎を先輩と呼び続けている)、麟ちゃんももう卒業ですね。早いなー。」

志郎「俺たちも年取るはずだな。いやはや、もう大学卒業か。」

澤井「いずれウチに来るんですか?」

志郎「どうだろうなぁ。あいつのことはちっともわからん。何を考えているのか、どういう人生を歩むのか・・・。」

澤井「先輩はウチに来てほしいんじゃないの?」

志郎「そりゃ・・・なぁ。でも麟の人生は自分で決めて欲しいかなぁ。」

澤井「素直じゃないですね(笑)」

志郎「ああ、麟がいつか結婚するなんて言い出したらどうしよう・・・」

澤井「いやいや、結婚はするでしょうよ。先輩も結婚したじゃないですか(笑)」

志郎「お前なぁ、他人事だと思いやがって。」

澤井「でもいつかは後継者決めないといけませんよ。」

志郎「まぁまだ50そこそこだし、あと10年くらいかけて決めるかな。」

澤井「いっそ麟ちゃんを社長候補にすれば良いじゃないですか。良い大学出てるし。」

志郎「なぁ澤井、もしもだよ、もしも俺に万が一のことがあったら麟が株主だ。その時に麟が継ぐにしろ、継がないにしろ、その判断は麟に任せてやってくれ。そして麟に能力が無いか、継がないという決断をしたら会社を売るか、清算するかしてくれ。今のところ印刷業界に明るい話は無いし、お前と従業員のためになる決断をしてほしい。」

澤井「いやだなぁ、誰も先輩が死ぬ話なんてしてないじゃないですか。」

志郎「生きていればいろいろ考えられるが、死んでしまったら考えられないだろ。」

澤井「そりゃそうかもしれないですけど・・・。いや、先輩が死ぬなんて考えられない。」

志郎「もしも!の話だよ。わはははは。」


事故から今日まで澤井はできる限り、自己の本心を隠し、麟を見続けてきた。能力が無いと判断すれば無理やりにでも社長になることを妨害するつもりでいた。それが志郎の遺志であると確信していたからである。娘に苦労はさせたくない。志郎は社長である前に父親だ。そして何より麟を愛していた。だから澤井はできる限り、麟が苦労を背負わず、豊かで明るい人生を歩めるように考えていたのである。


だが麟は違った。20億でも40億でも売らないと言った。それだけのお金があれば、豊かで明るい人生が約束されたようなものであるのに・・・だ。能力の有無はまだはっきりとわかるわけではないが、少なくとも優柔不断な物言いではなかったし、学ぶ姿勢も謙虚であった。そして何より麟には熱意、情熱を感じた。父の会社を何とかしたい!その思いは澤井に確実に伝わった。


澤井「志が低い・・・か。」


澤井はつぶやく。


澤井「どうやら私の志は低かったようですね。情けない限りです。」


澤井は白戸に向けて、そう言葉を振り絞った。


麟「いえ、そんな・・・私は・・・」


麟にそれ以上言うなと手を向け、澤井は続ける。


澤井「海藤 麟社長、私は私の残りの人生をかけて、志郎先輩の思いを継ぐあなたに全力でお仕えします。どうか海藤印刷をお願いいたします。」


澤井は立ち上がると、麟に向けて深く礼をした。


麟「え?あ、え、あ、ありがとうございますっ!!!」


麟も立ち上がり、澤井に向けて深く礼をした。


白戸「いやー、良い!素晴らしい!!!私も熱くなってきたよ。実に良いところを見させていただいた、二人とも、さ、座って。」


二人は座ったが、澤井は頭を下げたままだった。

澤井の様子を察した白戸は麟に声をかける。


白戸「海藤さん、先代と澤井さんはいつも一緒でね。会社が良いときも悪いときもいつも一緒だった。ここで殴り合いしそうになったこともある。二人はいつも本気だったから。本気で会社のために尽くしてたんだよ。なかなかできることじゃない。」

麟「殴り合いですか?」

白戸「うん、大変だったんだよ。先代が澤井さんの胸ぐらを掴んでね(笑)だから、澤井さんは海藤さんの言葉がとても嬉しかったんだと思うよ。」

麟「嬉しい・・・?」

白戸「澤井さんは先代と海藤印刷がきっと大好きだから。」


麟はハッとする。決めるのは海藤さんだ。の言葉を思い出す。


私は澤井さんの大好きな会社、父との思い出が詰まった会社を売るか売らないか、一瞬でも迷ってはいけなかったのだ。お金に目がくらみそうだった。自分のことしか考えていなかった。恥ずかしい。


麟は立ち上がると澤井に向き直る。


麟「澤井さ・・・いえ、澤井専務、迷ってしまってごめんなさいっ!」


澤井は再びもう言うなと麟に手を向けた。



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