第6話 意気消沈(いきしょうちん)

約束の1ヶ月。

結局自社株評価は白戸の見立て通りとなり、納税資金は5億必要になった。父と祖父の預金、有価証券、車、海藤印刷からの役員退職金、これらをすべて合わせてギリギリ納税できる計算である。会社の2億の連帯保証債務は継続的に銀行と交渉することにして、相続は単純承認でいくことになった。黒鉄や白戸、澤井と連絡を取りながら、麟はなかなかに密度の濃い日々を過ごしていた。


相続手続きと共に麟はこの1ヶ月、海藤印刷の社長に就任するために必死に学んだ。借りていた決算資料も目を通し、ここ5年の業績は右肩下がりであることも理解した。基幹事業である印刷は世の中のペーパーレスの動きと共に確実に衰退しているのである。ただ父と祖父が遺した会社であること、約200名の従業員がいること、多くの関係先があることから「絶対に業績を回復させてみせるんだから!」と麟の鼻息は荒かった。


初出社の前日、澤井から電話があり、明日は8:00に迎えに来てくれることになった。自分でいきますと行ったが澤井から最初が肝心だからダメだ!とたしなめられた。麟はベッドの上で、読破した君主論を開き、マークした所を読み返す。


Those who solely by good fortune become princes from being private citizens have little trouble in rising, but much in keeping a top.

私人であったにもかかわらず、幸運にも王となった者たちは、上昇することにはほとんど苦労しないが、頂上を維持することには大いに苦労する。


Therefore, he who considers it necessary to secure himself in his new principality, to win friends, to overcome either by force or fraud, to make himself beloved and feared by the people, to be followed and revered by the soldiers, to exterminate those who have power or reason to hurt him, to change the old order of things for new, to be severe and gracious, magnanimous and liberal, to destroy a disloyal soldiery and to create new, to maintain friendship with kings and princes in such a way that they must help him with zeal and offend with caution, cannot find a more lively example than the actions of this man.

したがって、新しい国において自らを安定させ、友を獲得し、武力や策略によって打ち勝ち、民衆から愛され恐れられ、兵士たちから従われ尊敬され、自らを傷つける権力や理由のある者を退治することが必要だと考える者は、古い秩序を新しい秩序に変えるために、厳しくも慈悲深く、大らかで寛大であり、不忠実な兵士たちを滅ぼし、新しい兵士たちを生み出すために、王や諸侯との友好関係を維持することが必要なのである、 古い秩序を新しい秩序に変えること、厳しくも慈悲深く、大らかで自由であること、不誠実な兵士を滅ぼして新しい兵士を生み出すこと、王や諸侯との友好関係を維持し、彼らが熱意をもって王を助け、攻撃するときも非常に用心深くならないといけないこと、この行動ほど生き抜く上で必要なことはないだろう。


麟は父から社長を引き継ぐ、この点ではいわゆる世襲(せしゅう)に該当する。しかしながら元から社長になれと言われて育っていないこと、また社内にも次期社長と紹介され、周知されていたわけではないことから麟は君主論で言う世襲には該当しないと考えていた。そのため『幸運によって君主になった場合について』の項はひたすらに読んだ。君主論は独裁国家について書かれたものであったが、麟は不思議な本屋の爺が言っていた『強いリーダー』と君主は共通することが多いと考え、自身が社長として君臨する時に必要なことを頭に思い描いたのである。安東にもらった韓非子にも同様のことが書かれており、会社の統治と国家の統治は類似する点がたくさんあるはずだと考えた。


『社長になったらやる十のこと!』


麟は1冊のノートを作り、表紙にそう書いた。


一つ、全従業員に挨拶代わりに夢を語る

一つ、全従業員と以下のテーマを直接話す

 ・海藤印刷の良いところ

 ・海藤印刷の改善すべきところ

 ・自分の長所

 ・同僚のここが素晴らしい

 ・才能を活かしきれていないと思う同僚

一つ、適材適所の組織再編(澤井さん)

一つ、規則と制度改革(安東先生)

一つ、財務改革と経営計画作成(白戸先生)

一つ、不忠な人物の解雇(黒鉄先生)

一つ、取引先挨拶

一つ、社長の仕事の見える化

一つ、社長は良い意味でヤベー奴になる

一つ、どんな日でも元気に明るく、全員に挨拶!


A prince ought to have no other aim or thought, nor select anything else for his study, than war and its rules and discipline; for this is the sole art that belongs to him who rules, and it is of such force that it not only upholds those who are born princes, but it often enables men to rise from a private station to that rank.

王は、戦争とその規則と規律以外には、いかなる目的も思想も持つべきでなく、いかなるものも研究の対象として選ぶべきでない。

これは支配する者に属する唯一の技術であり、生まれながらの王を支えるだけでなく、しばしば私的な地位から王の地位に上り詰めることを可能にする力を持っているからである。


この十のことを為すにあたって考えなければならないのがこの記述である。君主の仕事は軍隊の育成と規律・秩序の維持であるとされている。しかし国家には軍隊があるが会社に軍隊は存在しない。では会社にとっての軍隊とは何か?麟は考える。


そうよ!お仕事を取ってくる部門と、それを形にする部門、つまり現場の人たちを軍隊に置き換えよう!


社長の仕事=現場の育成と規律・秩序の維持


そして韓非子の一節『君主は知恵があってもそれを表に出してはならない。臣下の知恵を引き出すことが重要』を思い出し、この十のことを従業員と共に達成しようと心に誓った。


翌朝8:00

時間通りに澤井が迎えに来た。新しいスーツに、ポニーテールに髪を結い、ナチュラルメイクをキメて麟は澤井の前に現れた。


おはようございます!


元気と明るさと気合いのこもった挨拶は澤井の目を覚ました。


澤井「お、おはよう。おかげで目が覚めたよ。」


麟の「おはようございます」が頭にこだまする中、澤井は車へと案内する。麟を後席に乗せ、澤井は自分も乗車した。


澤井「明日からは専属運転手の佐藤さんが迎えに来るから、スケジュールは共有しておいてね。私がわかる範囲はすでに伝えているけれど、変更があれば直接伝えないといけないよ。」

麟「はい、ありがとうございます!佐藤さんは祖父と父のお迎えにも来てくださっていたので、大丈夫です。」

澤井「それから、今日は朝一番に銀行が来る。それが終わったら白戸先生の所に行くからね。」

麟「従業員の皆さんへの挨拶はいつですか?」

澤井「……。うん、今日の予定には無いかな。」

麟「え?今日、挨拶すると思って、昨日ずっと考えてました…」

澤井「麟ちゃ…いや、海藤さんが株主である以上、代表を決めるのは海藤さんだが、まだ正式に株主総会を開催したわけではないから、手順としては総会が先だよ。挨拶はその後だ。」

麟「そうなのですね。…ん?でも銀行の方とは私も会うんですよね?社長としてではなく…ってことですか?」

澤井「そうだね。銀行とは株主として会ってもらうことになるかな。」

麟「そう…ですか。」

澤井「詳細は着いてから話そう。」


麟と澤井はそれ以上会話を交わすことなく、車内にはロードノイズと5月の風の香りだけが漂っていた。


海藤印刷。

創業50年を超え、地方新聞の受託印刷、官公庁などの定期刊行物の受託印刷を手がけ、近年はオンデマンド印刷に対応するべく設備投資を行っている。従業員数は派遣や短時間労働者を含めると約200名。年商は35億程度。最盛期には45億あったがここ10年でじわじわと減収となっている。


会社に着くと工場とは反対方向の管理事務所の方へ向かう。澤井は後席を開け、行くよと声をかけた。


正面出入口を入ると、受付の女性は立ち上がり、おはようございますと澤井と麟へ一礼をする。続けて応接室へと向かう廊下で数人とすれ違う。従業員はおはようございますと挨拶をするが、麟は覇気を感じなかった。


おはようございます!!!


麟は立ち止まり、従業員へと向き直し明るく元気に気合いを込めた挨拶をした。


ギョッとした従業員は振り返り、麟へと頭を軽く下げると「え、何?何があった!?」と挙動不審になりながら何度もうなずくような頭の下げ方で、踵を返した。


なんだか元気が無いですね!挨拶はちゃんとしなきゃですよね!


麟は澤井にそう問いかける。フフッと笑いながら澤井は麟を応接室へ案内した。


応接室に入るとドリンクサーバーがあり、澤井は何が良い?と声をかける。温かいお茶をと返すと澤井は紙コップにお茶を入れながら麟に語りかけた。


澤井「実はね、今日の銀行の話は買収の話だ。」

麟「え?買収?買収って…会社を売っちゃうってことですか?」


麟は驚きの声を上げた。









  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る