第一幕 第二話「夜の花は月の光を浴びて」
一人の少女が、膝を抱え、
やがて少女が顔を上げて、呼吸を整えるように長く息を吐く。「もう大丈夫」
「もういいの?」
「うん」
瞳に残った粒が、
まだあどけなさが残り、柔らかそうな頬で目尻の垂れた少年の、少しツンと立った髪が、少女の頬に触れそうになっては離れるのを繰り返す。
二人の間の、一寸にも満たない
「
手燭の灯りに照らされる
「ああ、これね。本当に私のことを知らないのね。そんなの初めて言われたわ」
どこか吐息まじりの声。小屋の壁に背を預け、目線はまだ斜め上に向けたままだ。
「あなたは、太陽が死ぬって知ってるの?」
「うん、災厄が降りかかるって。でも大丈夫。
ふうん、と少女は無関心そうにするのだが。
「私はね、死んだ太陽の代わりに、新しい太陽になるの」
落とした棒切れは必ず地に堕ちるように、さも当然に言ってのける少女に、返す言葉を探して高速回転を始めた少年の頭は、それと裏腹に口の動きを封じ、喉の震えすら完全に停止させてしまう。
少女は顔を斜め上に向けたまま視線だけをちらと少年の薄く日焼けした肌に向けると、ふう、と細い息を一つ
袖に鼻から下をうずめると、少年を試すようにただじっと返事を待つ。
「今日、ほかの神主が君のことを穢れだって言って……」
少年は意を決めて昼のことを少女に伝えようとする。しかし、その言葉が最後まで紡がれることはなかった。
「行って」
立ち上がって
「帰って、早く」
有無を言わさぬ少女の
少年の気配が消えたのを背中で感じ取ると、少女の意識は正面に向かった。ナニカが近づいてくる。ただその正体を、少女はよく知っている。
一瞬、目くらましのような白い
白色に
「なぜ、外に出ている。日の出の刻であるぞ」
見ると、東の空がぼんやりと
「それでよい」
小屋から一定の距離を保って宮司は話す。
ズキと少女の背中に
「何にせよ、今日は祝うべき日だ。ついに儀式の手はずがすべて整った。来るその時の
両腕を横に広げ、口を少し
不意に草むらがかさりと音を立てて
宮司は懐から小刀をすぐさま取り出して音がした方へ投げつける。つかつかと投げた方へ歩み寄っていく。「結界でも
「松の葉が付いてしまったのでしょう。神が宿る松の影響で、結界をすり抜けてしまったのでしょう」
「地に
小刀を袖で拭き
「火種はすべて除かねばならない。それはかの災厄であっても、来る儀式の手はずであっても同じこと。あとはそなたが何もせずにしておればよい。なに、あと少しだ。巫女が人知れず
少女は依然うつむいたままだが、その瞳は雲がかかったように
その姿はまるで
「そなたは太陽の巫女。太陽の神の
宮司はそのまま来た方へ戻っていった。
すっかり日は昇っていたが、窓のない小屋に差し込む光はない。重く深い闇だけがその小屋には存在し、少女もまたその闇の内側にのみ存在している。
少女は今日も、長く暗い昼を過ごす。
夜明けとともに
むくろじの実の皮で泡を立て、泥の
白い無地の袴を穿いた少年は、さりとて今日も神職に従事する。ただ少年は心ここにあらずといった具合に上の空である。
情報の量が少ないことを考えるときほど、時間が経つのが遅いものはない。すぐに思考が一周してしまう。巡るというほどには巡らない思考を巡らせて、少年は
問う言葉も、求める答えも何も持ち合わせてはいないのだが、名も知らぬ少女に、少年の頭は
神はきっと人間を
少年がそれに気が付いたのは、例の御神木の前に来た時だった。
領域を
あの時と同じように、少女のいるであろう場所へと少年は進む。かき分ける草は膝よりも高く、地面は少しぬかるんでいて一歩進むたびに泥が跳ねる。
ただ、進めど進めど、夜明け前のあの時のような光も風も香りもない。あるのは深い森とざわめく虫たちばかり。
あの場所が、あの少女が、最初から存在していなかったかのようで、いくら闇雲に探そうとも袴の
来た道も進むべき道もわからなくなり、たださまようだけであったが、やがて戻ってきたのは、間違えようのない太くたくましい御神木。
どうやら少年は円を描くように歩いてしまっていたようだ。
随分と長い時間歩いていた気もするが、不思議にも日はまだ南の空高くに浮かんでいる。
戻ろう。幸いにもここに来るまでは誰にも見つかっていない。少年は後ろ髪をひかれつつも来た道を戻り山を下る。
長く退屈な昼がようやく終わり、今にも夜の
それを見るや否や少年はすっ飛んで行く。
くすんだ緑色の袴が、
影の落ちた山ではあるが、少年は迷うことなく行く。記憶の中で
やがて少年が足を止めると、手燭の
異質な存在感を放つ神の木から、少年は昼に来た時とはまるで違う、おぞましいものを胸の底の奥深くで感じる。しかしそれが心地良い気がして、その身で知っているものとさえ感じてしまう。
御神木の向こうへと足に任せて歩き出したその時、その感覚が少年の心に確かな重さを持って現れた。
ああ、これだ。
少年は、神域に足を踏み入れたのだと知覚した。跳ねる泥もなければ膝上の草葉も無い。ただ
ようやっと森の切れ目に行き着こうかという所で、少年は手燭を落としてしまう。拾い上げるも、ロウソクの火はすでに消えてしまい、見上げると星月の
すると、視界の端、森の向こうで小さくあたたかな光が揺らめく。少年を誘っているのだろうそれに、誘われるがままに近づいていくと、森の切れ目、あの夢の跡地にたどり着いた。
そしてやはり、目の前には少女が立っていた。
彼女の
「それ、貸して」
手を伸ばし、少年の手燭を
「これが私の力。火を
昨日少年が言いかけた言葉に答えるように呟く。口の端は少し吊り上がり、細まった瞳は炭でくすんでいるかのようだ。
何が少女にそう言わせているのだろうか。いや、むしろただ読み上げているだけのような、薄く引かれた線をなぞるような口ぶり。これは
はあ、と少女は息をこぼして「それで、今日も何をしに来たの」と告げる。
「君に、会いに来たんだ。君のことが知りたくて」
「それで、何が知りたいの」
「名前が、知りたくて」
はあ……、と先ほどよりも大きく長いため息を吐いて目を閉じる。
「こんな
「ヒナタ、それが私の名前。」
奥歯をぐっと噛みしめるように己の名前を口にする。
日に当たることを許されない彼女は皮肉にも、陽だまりの名を受けていた。死んだ親の代わりに宮司が名付けたというが、まるで少女のことを
「きれいな名前だね」
少年は
それの
しかしそれは、少女にとってはどうでもよいことであった。ただ少年のその純真な心が、少女に確かな安らぎをもたらしている。
真に日を浴びたことのない少女は、初めてその身で光を受けた気がした。
日に当たるということはきっとこのような感じなのだろう。このように身体の芯が熱くなり、柔らかな空気に包まれるのだろう。少女の白い肌はその光に
少女は少し歩いてぺたりと座る。こっちに来るように言われた気がした少年は、歩み寄ってはその隣に座る。二人で手を伸ばし合えば触れるか触れないかという距離だ。
少年は火のついた手燭を倒れないようにそっと置く。
「ねえ、ヒナタはどうしてここに住んでいるの?」
「どうしてでしょうね」
「どうして、なんて考えたことなかった。いや、考えたところで無駄ね。私は太陽の巫女だもの」
美しく
見世物の鳥と少女の違いと言えば、客が人であるか神であるかという点だけであろう。
「それは昨日の、太陽として生まれ変わるっていう……?」
「そう、私は太陽に
太陽なんて見たことないけどね、と続く言葉は少年の耳に届くことはなく、夜の空に
「それじゃあ、ヒナタは」
「いいの、私の光が人々を照らすのよ、ステキでしょ」
いや、と続く言葉を少年は飲み込む。
頭の中で言葉が
「それは、怖くないの?」
「ええ、怖くないわ。私はここから出ることはできないの。ここで生きて、ここで
運命、という人の身ではどうすることもできない、絶対不変の
これは必然なのだと。もしこれが必然ではなかったとしたら、少女は死の恐怖に打ち勝つことなど、到底できやしないのだろう。
少年はおもむろに立ち上がると「少し待ってて」と元来た方の森に入っていった。
いつぶりだろう、と少女は孤独を感じた。ずっと一人で過ごしている少女にとって、それは久しく忘れていたものであったが、彼女の胸の奥底には
少女もまたおもむろに立ち上がると、少年の消えていった方へと足を運ぶ。
何度ここから出ようと思ったことか。何度死を恐怖したことか。自分のことを知るたびに、自分のまわりに
少女の鳥籠の周りには結界が張られており、それには太陽の生命源の一部が込められているという。そのため、
今一度、と思って手を伸ばそうとするが、寸前で手が止まる。かつて日を浴びて朽ちかけてしまった背中がズキと痛む。
誰もいないこの鳥籠で、星月の光だけが少女を照らしている。
瞳に映る空の雲が、すべて流れ変わった頃だろうか。少年が行った先の森の中でぼうっと明滅する
ああ、彼が帰ってきたんだ。そう思うと少女は、
灯に照らし出される少年の姿が次第に見えてくると、手に何か持っているのがわかる。袴の裾や上着の袖は所々に土で汚れた跡がある。
「はい、これ」
少年は青紫色の花を少女に差し出した。
「これは
「うん、知らない」
少女は自分の手の上の青紫色の花を、目を丸くして見ては鼻先を近づける。
「かわいい花……、かすかに淡い香りもする」
「ここの外にはね、ヒナタの知らないものがいっぱいあるんだ。僕はヒナタにそれを知って欲しい。そしてヒナタの事をもっと知りたいんだ」
次は何を知りたいの?と聞く少女に、笑った顔が知りたいと少年は言う。太陽の巫女としてではない、少女のことが知りたいのだと、少年は自身の舌足らずな舌を総動員する。
少年の
あまりの少年の必死さに「なによそれ」と少女はこそばゆく吹き出して笑う。それは少年に初めて見せる笑みであった。
長い闇夜の中での、風前の
ただその時たしかに、少女は笑っていた。
「あ、もうすぐ日の出だね」
見ると東の空がほんのり赤く染まっている。
「そうね、私は日に当たれないから……」
「じゃあ、また日が沈んだら会いに来るよ」
少年はすっと立ち上がる。
少女は少年を追うように
「必ず、その青松葉の袴を穿いてきて。青い松の葉には神聖な力が宿るの」
わかったと言って少年は森の分け目へと沈んでいく。
その背中を見送る少女はぱくぱくと口を動かし、声になるはずのなかった声を上げようとしている。この手が届かないのならば、少年の後ろ髪を引くことが叶わないのならば、せめて声だけは届けようと、必死に喉を震わす。
「ねえ。まだ、あなたの名前、聞いてない」
消え入りそうなほど
「ああ、僕はミヅキ。またね」
「うん」
少年が去った後のこの空間には、少女と青紫色の花と静けさがあった。
夜明け前の薄暗がりの中、少女は小屋の中から見える位置に
それを目を細めて見つめ、少女は
『我がしゅより まばゆく燃ゆる まつ葉色』
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