暗闇に散る桜

下東 良雄

第1話 暗闇に散る桜

 何の物音もしない暗闇の中、僕はひとり。

 時間の感覚が薄らぎ、今が何時なのかも分からない。

 なんだか頭もぼんやりとしている。

 ふぅ、と小さくため息をひとつ。

 僕はそっとまぶたを閉じた。


 光の射さない真っ暗な海溝を潜っていくような感覚。

 周囲の何かが身体にまとわりつくような嫌な感じ。


 もう戻れない――


 でも、僕は潜り続けた。

 潜っても、潜っても、果てしなく続く闇の海溝。

 永遠に潜り続けなければいけないのか。

 そんな思いにとらわれそうになった、その時だった――


 ――満開の桜の木


 海溝の底には、美しく咲き誇る満開の桜の木があった。

 草生い茂る広大な草原に一本だけ生えた孤高の桜。

 周囲にはそれ以外に何もない。

 光の射さない海溝の底でも、それだけは知覚できていた。


 僕は生まれたままの姿で草原に降り立ち、次々と散っていく桜の花びらをただ見つめていた。

 やがて、散りゆく桜の花びらは僕を優しく包み込むように舞い始める。

 僕が手を伸ばし花びらに触れると、スッと霧散し、むせかえるほどの甘い芳香を周囲に振り撒いた。自分の鼻腔に広がっていく優しくも強い香りは、やがて記憶の井戸から忘れていた様々な記憶を汲み上げ始めた。


 幼い頃、桜咲く公園で両親と自転車に乗る練習をした――


 子どもの頃、大人の真似をしてジュースとお菓子でお花見をした――


 中学の頃、好きな女の子が桜の木の下で告白しているのを見た――


 そして高校に入学、イジメられていた佐倉さんを助けた――


 楽しかった記憶、思い出したくなかった記憶、誇らしい記憶……

 僕もそれなりにたくさんの経験をしてきたのだと、ひとりで照れ笑いしてしまった。


 そんな自分の思い出に耽り、改めて目の前の桜の木に目を向ければ、その花びらの大半は散ってしまい、その美しい衣を無くした桜の裸身が目につき始めていた。


 この桜は、もう若葉をつけることがないんだな――


 なぜか分からないけど、そんな寂しい思いが溢れ出した。

 でも、それでいい。生あるものはいつか朽ち果てるのが自然の定め。永遠に花を咲かせ続ける桜などどこにも無いのだ。僕はそんな桜の最後を看取ることができたのだから幸せだ。


『江口くん』


 えっ? 誰かが僕を呼んでいる?

 いや、気のせいだろう。光すら届かないこの場所に、声など届くわけがない。


『江口くん』


 いや、確かに聞こえる。聞き覚えのある声がする。

 誰だっけ?


『江口くん』


 その声とともに、周囲を覆い尽くしていた闇が薄くなっていく。それはまるで夜明けを待つ空のようだった。


『江口くん』


 草原の果てから日が昇っていく。

 生まれたままの姿の僕と、花をすべて散らした桜の木を、春の木漏れ日のような優しく暖かな陽光が包み込んでいった。

 僕は、その暖かさに涙が止まらなかった。


『江口くん』


 この声は、佐倉さん?


 それに気付いた瞬間、海面へと引き戻されるような感覚に陥る。

 遠ざかっていく花がすべて散った桜の木。


 でも、僕は見た。

 はっきりと見たんだ。

 裸身を晒す桜の木にたったひとつ。

 小さな、とっても小さな若葉が芽吹いていたのを――



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