恋する少女の脆弱性

柊かすみ

 かつてのWebは、玉石混淆と、様々な情報が入り乱れた場所だったと伝えられている。


 いや、玉や石という言い方は適切ではないかもしれない。Web上の情報はどれも、もはや非体系的と言えるほどに局所的なものだったようだから。情報の民主化、などと言われることもある。誰もが査読などの手順を踏まずに発信者になれるその社会では、発信される情報の質は低くなった。


 けれど……。その局所性ゆえに一見しただけでは有用性を判断できないものが多かったけれど、それでも確かにWebの情報は役立っていたらしい。情報の粒度は砂や泥のように細かく、玉や石といった尺度ではなかった。


 情報が多少断片的で非体系的でも、Webは機能していた。これはひとえに、Webがハイパーリンクによって他の文書を簡便に参照できる文書システムだったからに他ならない。ヨーロッパの研究機関での文書管理のために生み出されたWebは、その規模を世界に広げてもなお破綻しない拡張性を持っていた。


 しかしその状況も変わっていき、最終的に数年前の事実上の敗北宣言に至った。数十年もの間、人類を支え続けたWebは今や汚泥にまみれ沈んでいる。……けれど私はこれを単なる敗北だとは思えないでいる。敗北したWebに取って代わった技術が、こうして私達を巡り合わせたんだから。


 —×—


 目を丸め、首を傾げたまま動かない目の前の彼女。きょとんとしている、と言うには不自然なまでに固まった彼女に、私は眉を曲げた。ラグだろうか? 彼女の住んでいる地域の回線はそこまで悪くなかったはずだが……。


「おーい?」


 私は彼女の顔の前で手を振って、反応を見た。彼女のブラウンの瞳は私の手を追うどころか、ちらりとも動かない。宝石のようにきらめく瞳も、動かなければ不気味でしかなかった。瞳と同じ色のふわふわとした髪の毛も、今は重力——物理演算システムの作り出した都合のよい下向きの力——によって垂れているだけ。お人形さんのよう、などと表現することもできるかもしれないが、彼女は生きた人間であって人形なんかではない。だからとても不気味だった。


「……! あっ、ごめんなさい! ちょっと調子が悪かったみたいです」


 しかしさほど時間をかけず、彼女はこの仮想世界に復帰した。宝石のようにきらめく瞳は私を真っ直ぐに捉え、髪の毛はふわふわと体の動きに追従して揺れる。


「もう大丈夫そう?」

「ええ、すみませんご迷惑を……」

「気にしないで。ラグなんてままあることだから。それに、ただのラグで済んでよかったよ」


 申し訳なさそうに肩をすくめる彼女に、私は微笑みかける。


 この仮想世界「メタチャット」での生活ではラグなどの通信問題は日常茶飯事だった。しかしそれでもやはり、一時的にとはいえ動かなくなったアバターを見るのは、私にとってだいぶこたえるものだった。特に彼女、藍那あいなの動かなくなった姿は見たくない。


 藍那にはずっと柔らかく笑っていてほしい。見ているだけでこちらも温かな気持ちになるその笑みをずっと振りまいていてほしい。願わくは私のためだけにその笑みを——。


 私は脱線しかけた思考を、目の前の藍那へ戻す。


「むしろ今の一瞬で復帰するほうがすごい。流石は都内在住。うちのところだったらそのまま通信が詰まって落ちていただろうから」


 自虐的に首を振った私に藍那は困ったように笑う。


「ははは……。そういえば、縁白ふちしろさんが住んでいるのは『茨城の片田舎だ』、と言っていましたね」

「うん。さすがにこうしてメタチャットにログインできるくらいの速度は出るけど、速度以外の、信頼性とかはまるでダメ。藍那の住む東京と比べたら、もう……」


 東京一極集中が進む現代では、東京までたった一時間半で出られる茨城のような場所でも不便が多かった。それは社会の大部分が仮想世界に移行しても変わらない。メタチャット東京リージョンとの遅延レイテンシは、調子がよいときは数ミリ秒。調子が悪いときはそもそも届かないパケロス。不定期的にガクッと上がるping値は、私の頭痛の種だった。


 愚痴る私の頭を、藍那は「よしよし」と手を伸ばして撫でてくれた。


 触れられた感覚は——ない。私がこの仮想世界へのログインで使用しているVRゴーグルは、計算スペックこそ高かったが、感覚共有のような先進的で富豪的な技術は搭載されていなかった。ただのゴーグル。目の前、数センチメートルのところにディスプレイがあるだけ。耳の側、数センチメートルのところにスピーカーがあるだけ。


 しかしそれでも、なんとなく感じられるものはあった。四六時中この世界にいるのだから、彼女の手の温かさや優しく撫でられる感触を錯覚することはあるのだ。よく言うラバーハンド錯覚というやつだ。ただのゴム手袋も、それが自分の手であると刷り込まれていたら、叩かれたら痛いものだ。


 とはいえ、彼女のよしよしは言葉と気持ちだけでも十分なヒーリング効果を持つものだ。感覚なんていらない!


 撫でられた私はふにゃりと笑ってみせる。——そう、「笑って」。この不完全な仮想世界でのコミュニケーションでは、伝わらないニュアンスが多すぎた。だから癒やされた私はリラックスした顔を作ってみせるし、癒やしたい藍那は明示的に「よしよし」と声に出していた。


 藍那は私のだらしない表情にくすりと笑うと。


「でも最近はこちらも時間帯によっては不安定ですよ? 最近はもう、趣味も仕事も猫も杓子もメタチャットですから。朝方とお昼と夕方——人の動きが激しい時間帯はもう全体的にダメダメです。この間なんか、どこかでライブチケットの争奪戦が行われたみたいで、あやうく落ちてしまうところでした!」


 と、腕組みをし、不機嫌なジト目顔でこちらを見る。この表情プリセットは藍那のお気に入りだった。もちろん私も好き。ふわふわとした雰囲気の彼女がする険しい表情は、それはもうコミカルでかわいい。


「でもそうは言いつつログインしたままだったんでしょ? 不安定でも落ちないのはさすが都会の回線」


 私は顎に手をあて頷く。関心した様子をうまく伝えるジェスチャー。藍那にもきちんと意図は伝わって、藍那はぷくっと頬を膨らませてみせた。


「そんなことありません! その日はほんっとうに、とっても大変だったんですよ! ……それに、私がずっとログインしているのは、現実がクソゲーすぎるからで——」

「せっかくかわいいのにそんな言葉遣いしちゃだめだよー?」


 すねたように目線を落として、「クソゲー」なんて言葉を使う藍那に、私は冗談めかして注意する。彼女の表情を覗き込むと、そこには少し寂しそうな目と、照れから赤くなった顔があった。


「言葉遣いなんて今に始まったことじゃありません……。それに私は——現実の私は、かわいくなんかありません。アバターじゃない私を知ったら、縁白さん、きっと幻滅しますよ?」

「そんなことはないよ」


 藍那の言葉を私は間髪入れず否定する。「どうして」と、眉をひそめる表情プリセットで、こちらを上目遣いに見つめる藍那。その表情に込められた疑問と期待に、私は微笑みをみせた。


「私は現実の見た目の良し悪しなんて気にしない主義だからね。現実はクソゲー、そう思っているのは私も同じ。……それに藍那は、仮想世界だからってコミュニケーションから手を抜くことはしていない。この不完全な仮想世界でどうしても失われてしまうニュアンスを、わかりやすい表情やジェスチャーで補って、積極的に私へ気持ちを伝えようとしてくれている。私はそんな藍那の性格が素敵だと思う」


 藍那は戸惑うように目を閉じ、しばらくした後、「性格が素敵……」と噛み締めるように零した。——そう、性格! 目の前の藍那は素直で健気で温和な性格の、とってもかわいらしい人だった。


 しかしそれはそれとして、愛の告白とも捉えられてしまうような私の言葉を噛みしめて頬を赤く染める藍那に、私はなんとも言い難い気恥ずかしさを覚えた。(別に愛の告白と捉えられても特段問題はないのだが、それでも気恥ずかしさはあるものなのだよ!)


「……そういえば、さっきの話はどこまで聞こえてた?」


 露骨に別の話題を振る私。別の話題として選んだのは、藍那がラグってしまう前に話していた、Webの敗北について。


 藍那は様々なものに興味を持っているようで、私は会うたびに何かしらの質問を投げかけられた。毎日のようにメタチャットにログインしている私は、ログインするたびに藍那と会っていた。だからこうした質問と回答のやり取りも毎日のようにしていることになる。


 中には私の知識不足からうまく答えられない議題もあったが、そういうときでも藍那は、私がその議題にどのような認識を持っているかとか、その議題からどのような雰囲気を感じ取り、どのような気持ちになるかについて尋ねてくる。そしてなんやかんやで会話に花を咲かせるのが、私達の日課だった。


 きっとこれが彼女なりの親睦の深め方なんだろう。実際とても効果的だった。彼女は聞き上手で、私はそんな彼女との時間に確かな安らぎを覚えていた。


「さっき……。ああ、Webの敗北宣言の辺りまではきちんと聞こえていましたよ。とてもわかりやすい説明でした」

「そう、なら問題ない。情報社会の変遷などは、リアルの私の大学での研究対象だ。うまく説明できたのはきっとそれが理由だね。……さてそれじゃあ、いかにWebが負けたか、そもそも何と戦っていたか、私が知っていることを話そう」


 こちらに無垢な期待の眼差しを向ける藍那に、私は微笑んでみせた。


 —×—


 即物的なビッグテックによって情報の短期的な価値が重視されるようになったことで、Webは次第に使いにくくなっていった。本来は、その局所性ゆえに一見しただけでは有用性を判断できないWeb上の情報は、ビッグテックの判断基準で取捨選択された。


 検索エンジンは、収益性が高いと判断されたWebページばかりし、たくさんのアクセスを稼いで一儲けしたい人達は、その検索エンジンに合わせただけの粗悪なWebページを量産した。検索エンジン最適化Search Engine Optimizationの元では、一つのWebページは一つの単語について長く記述していなければならなかった。そうして量産型解説ブログは台頭し、本当に有用な情報は深い底に沈んだ。


 それまでWebで暮らしていた人々はSNSへ逃げた。それまでWeb上でハイパーリンクによって関連付ける形で記述されていた情報は、今度はSNS上でアカウントによって関連付ける形で記述されることになった。「このアカウントは公式だから信頼できる」とか、「このアカウントはその道の専門家のものだからためになる」とか。


 Webほどの表現力を持たないSNSで発信される情報は、より属人的になったのだった。SNSは、元々は人々が交流するための場所なのだから当然だ。とはいえ、集合知万歳——Webよりずっとよい場所だった。


 しかしそんなSNSも安住の地とはならなかった。2020年代初頭のパンデミックで陰謀論の流布に使われたことで、SNS上の情報が現実の治安に与える影響の大きさは広く知れ渡った。現実の政治を都合のいいように操作しようとする人は、SNS上に大量のアカウントを機械的に作り、偽情報をばらまいた。


 そこでは、当時最先端だったAI技術が使われた。一見しただけでは見極められないほど人間的な文章を生成し投稿するAIは、トレンド機能をハイジャックするだけの能力は十分に持っていた。


 また、このAIはWebページの濫造でも使われた。SNSへの投稿とは異なり、Webページの作成では物事へのより深い知識が必要になる。当時のAIは、事実に基づかない情報をさも本当のことかのように語る、幻覚症状Hallucinationを見せることで知られていた。AIの書いたWebページは情報としての質が低く、人々から嫌われた。


 しかしいくら幻覚混じりだったとしても、そのWebページはいかにもそれっぽく、すでに陳腐化していた検索エンジンを騙すのは造作もなかった。結果として、幻覚混じりのWebページばかりがされる事態になった。状況は確実に悪化していた。


 AIにあるこの幻覚を取り除く研究も当然行われていた。常識となるベースの知識さえ事前にしっかりと言い聞かせてやればいいのではないか、という学習データを工夫するアプローチであったり。自分が何を言っているのか本人に確認させればいいのではないか、という運用方法からのアプローチであったり。そして人類はAIに、正しい発言で回復incrementし、誤った発言で負傷decrementする疑似感情システムを組み込み、同時に、自身の行動をあとから落ち着いて振り返る、睡眠にも似た時間を設けることで、この病を実用上問題のない程度にまで緩和することに成功した。しかしこの対症療法の確立はあまりにも遅すぎた。すでにWebは使い物にならなくなっていた。


 Webの健全化に尽力していたとある非営利団体があった。最後にブログを更新したのは、今から三年前の十二月。「Goodbye, World Wide Web」と題されたそのブログは、巷では「人間の手によって書かれた最後のWebページ」と嘆かれている。そして、「人類の事実上の敗北宣言」と捉えられている。


 ……何に敗北したか? ビッグテックの悪意Evilに満ちた営利活動。そのおこぼれを授かろうとするゾンビ。そして何より、AI。AIが濫造する粗悪な情報が、すべてにとどめを刺したのだ。


 人々は、次なるソーシャルプラットフォームを切望した。人々は、情報が値踏みされない、人間にしか使えないプラットフォームを切望した。


 そこで白羽の矢が立ったのが、すでにゲーム分野で実績を積んでいたVR技術を活用した、メタバースだった。仮想世界をリアルタイムで扱えるAIは存在しないし、そもそも学習するデータもないから作りようがない。また、WebやSNSのAIはただ出力するだけで、少し会話をしようものならすぐにAIだと露呈する出来栄えだ。VRのメタバースこそ、真に人間とされる存在にしか扱えない楽園だった。


 そうして訪れた何度目かのVR元年。そもそもこの元年という言葉は、それを流行らせようとするアーリーアダプターの売り文句でしかなく、だからこそ過去に何度も元年が訪れていたわけだが、今度の元年には実体が伴っていた。


 安価に手に入る高性能なVRゴーグルを被れば、どこへでも行けるしなんでもできた。友人同士で集まってテーブルゲームをしたり、遠くの恋人と逢瀬を重ねたり。音楽フェスはどこかしらで毎晩のように開かれているし、図書館や美術館や博物館といったアカデミックな施設も常に開放されていて、学校の授業でも活用されている。(私と藍那が出会ったのも図書館だったね。)リモート会議、リモートワーク、リモート塾、リモート学校……。これまでのソーシャルプラットフォームとは一線を画す規模と奥行きは、多くの人々を魅了した。


 それらの仮想世界は、メタチャットという共通基盤の上で作られ、提供されている。当初は無名だったスタートアップ企業、メタフロント社が手がけるこの「サービスとしての仮想世界Virtual as a Service」は、表情、動き、会話といったデータをそのユーザーの人間性の検証に使う。人間性のないAIがこの世界へやって来ようものなら、即座に取り除かれる仕組みになっていた。


 メタチャットは人間性がなんたるかを誰よりも理解した存在だった。


 —×—


「人間性、ですか」


 私の説明を受け、藍那はぽつりとつぶやいた。目を伏せた姿はどこか暗く、しばらく前の元気はなかった。


「そう。私達が持ち、AIが持たないもの。AI技術とAI検出技術は何年もいたちごっこを繰り広げていたけど、メタチャット上では、検出技術が大きくリードした状態を保てている」


 これはよいことだ、と私は藍那へ伝える。


 確かに、人間性がどうこうという話は少し不気味だ。それに、ただ不気味であるというだけでなく、人間性を重視するこれは、障害を持っているがゆえに健常者のようにはVRデバイスを利用できない人々を、ソーシャルプラットフォームから締め出すことにもなっていた。しかしかつてのWebでもCAPTCHAとして、歪ませた文字を読ませたり、該当する画像を選択させるクイズを解かせたりして、アクセスを選別していたそうだ。VRだから特段酷いわけではないはずだ。


 しかし藍那はまだ不安そうにうなだれている。何度か物を言おうと口を開いては閉じる彼女。しばらくして勇気を出したのか、こちらを真っ直ぐに見て訊く。


「もしAIが、ここで言う人間性すらも獲得したらどうなるでしょうか? 私達人間は、どうすればいいんでしょうか?」

「……さあ?」


 その質問については、まだ私には言葉にできなかった。


 AIは悪名高い。なにせWebを、SNSを壊したのだ。けれど私はWebやSNSが素晴らしかった時代を知らない。私が物心ついた頃にはすべては終わりかけていた。私が知る黄金伝説はすべて、後になってから大人達から聞いただけのもの。こうして生きている感覚では、WebやSNSがなくてもなんとかなっているので、危機感はあまりないのが正直なところだった。そして何より、Webに取って代わったこの世界でこうして藍那と巡り合う機会に恵まれたから、私は間接的に利益を得たことになる。こんな私に、人類がどうすべきかなんてわからなかった。


「それじゃあ……縁白さんは、どうしたいですか? AIが人間性を獲得したら、どういう気持ちになりますか?」


 藍那は質問を少し変えて尋ね直す。その視線にはどこか、縋るような、乞うような思いがあるように感じられた。どうしてそんな目をするんだろう。たかがAI。現代ではまず関わることのない技術じゃないか。私が多少知っているのも、大学でそういう研究——AIの政治的意思決定への活用について——をしているから、というだけで……。


 いや、藍那のこの視線もプリセットでしかない。そこに縋るとか乞うとかの思いを勘繰っているのは私だ。彼女はいつものように知的好奇心を満たしつつ、私と親睦を深めようとしているだけ。私も素直に答えれば、それでいい。


「……その時こそ人間とAIが仲良くできたらいいな」


 私は藍那の真っ直ぐな視線から逃げるように目を閉じた。閉じた瞼の向こうで、藍那がどんな表情プリセットを選択していたか、私は知らない。

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