冬②

 彼女の病気は、あまり詳しいことが分かっていない。何と言っても、彼女のような症状が世界で四例しか確認されていないというのだから、驚きだ。

 途上国などの未発見や未報告のものがあれば、もう少し増えるかもしれないと、藤井先生は言っていたが。


 そのため、治療方法も、手がかりの端くれすら見つかっていないというのが実情のようだ。面と向かっては言わないけれど、藤井先生が時折見せる情けなさの滲む表情がそれを物語っていた。


 病気かどうかすら分からない。現象と呼ぶのが正解なのかもしれないという程に、お手上げ状態。

 なのに、一部の人間において彼女に起こっている現象は、非常に有名らしい。それは、オカルトマニアであったり、あるいは超常現象を盲信する人間であったり、妙な宗教団体であったり、単純に好奇心旺盛な野次馬根性丸出しの記者であったりに、だ。


 なぜ世界で四例しか報告されていない病気が、そこそこの知名度を誇るのかというと、その中の一例は某国の有名な歌姫だったそうなのだ。

 その歌姫はこの病気の経過を公表した後、一年後に文字通り眠るように亡くなったらしい。


 荒唐無稽な、まるでおとぎ話のような病気の性質からして、その歌姫は死の恐怖から気が狂ったと大多数からは思われ、大きな騒ぎにはならなかったそうだが、前例にあげた一部のような界隈では、今もそれを事実なのではと疑い続けている人間もいるらしい。

 まあ、実際に見ている僕からすれば、事実も事実なのだが。


 この病気のことを湖凪さんに打ち明けられる前に、藤井先生が僕に念入りに口止めを施したのはこれが原因だ。

 いらぬ騒ぎを呼ぶことは間違いないし、湖凪さんが好奇の目で見られることは避けたい。


 なので、湖凪さんは、藤井先生や病院のお偉方以外の人間には終末期治療の患者ということになっているらしい。

 たまに見知らぬ人間に泣かれて困ると、湖凪さんは苦笑いしていた。実際に余命一年なので、そんなに間違ってもいない。


 そして、そんな湖凪さんには、恥ずかしいあだ名がある。それが『眠り姫』である。

 誰が呼んだか、ネット上で湖凪さんと同じ病気で亡くなった歌姫をそう称したらしい。


 それを流用して、藤井先生や病気を知るものが湖凪さんのことを話すとき、隠語として眠り姫と呼ぶのだそうだ。


 飛んだお転婆だけれど、美しい彼女にはぴったりだと思ったが、湖凪さんは恥ずかしいらしい。一度僕が呼んでみると、無言で頬をつねられた。


「毒林檎なんて、食べた覚えはないんだけどなあ」と、彼女がそう零したのを覚えている。


 そして、彼女を死へと誘う一歩目が訪れたのが、一月二十五日のことだ。クリスマスからちょうど一ヶ月。

 これで、彼女の起きていられる時間は、一時間減った。どうやら、今回は意識が落ちる時間が一時間遅くなるらしい。

 来月は、起きる時間が一時間早くなる。それを交互に繰り返すとのことだ。


 念のための様々な検査があるというので、僕はこの日、湖凪さんの起床から三時間ほど経った、夜十時に病院を訪れることになっていた。


 途中で美味しそうな鯛焼き屋さんを見つけたので、自分と湖凪さんに三つずつ。温もりが伝わる紙袋を抱えて、僕は予定時間より少し早く病院にたどり着いた。


 外来なんて当然終わっているけれど、藤井先生からもらっている許可証を首から下げて、歩き慣れてきた廊下を進んだ。


 すると、廊下の突き当たりにある湖凪さんの部屋へと向かう道すがら、何か大きな物音が聞こえた。

 そしてそれに続いて、すすり泣くような声と、それをなだめるような声。


「すまない、佐藤くん…」


「いいよ、先生が悪いんじゃない。わかってる、わかってるから」


 僕は、足音を殺して病室のドアに近づき、漏れる声を聞いた。なんだ、なにが死が横にいるから平気だ。全然、大丈夫じゃないじゃないか。


 そっと廊下を引き返し、曲がり角に身を隠して、天を仰ぐ。真っ白な空白が広がる病院の天井には、当然僕が今胸に抱いてる感情の解答なんて書いてなくて。


 きっと今、何も聞かなかったふりをして、定刻に病室に向かえば、いつも通りの笑顔を浮かべた湖凪さんが待っている。

 それでいいじゃないかと、心が囁く。今までも、人と関わってなんて来なかったじゃないか、いびつな形で必要とされたからって、お前が何かする必要はない。


 病室のドアが開いて、藤井先生がこちらに歩いてくる足音がする。いつも通りの表情の準備は出来ただろうか。


 足音が近づいて、すぐ横になっても、僕は動かなかった。藤井先生は、角を曲がってすぐで立ち尽くす僕に仰天した様子だったが、首をすくめると僕の背中を一つポンと叩いて去っていった。


 その小さな衝撃に押されるように、僕は歩く。病室のドアを開く。予想通り、いつもの笑顔を浮かべた湖凪さんが「おはよう」と言って出迎えてくれた。


 いつもの僕なら。そう装うならば「おはよう、湖凪さん」とだけ返せばいい。なのに、僕は言葉を発さずに傍に寄ると、湖凪さんの顔を見つめた。


「死ぬときはさ、一緒だから。殺してくれるんでしょ?」


 そして、そんな言葉を贈った。湖凪さんは目を見開いた。聡い人だから、きっと僕が盗み聞きしたことにも気づいてるはずなのに、彼女は「そっか、なら寂しくないね」とだけ、それだけをぽしょりと吐き出した。


 一人じゃないなんて、言えたらよかったなと思った。一人にしたくないと思った。そんな感情を、僕の中に燻る名前のない感情を、一体なんと呼べばいいのだろう。


 一体、なんと名付ければいいのだろう。


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