第2話 濁流の感情を文字にして泳ぐ魚の話

 どんなに当人にとって切実な感情でも、支離滅裂な言葉は氾濫する川、荒れ狂う嵐の海に等しい。

 汲み上げようと桶を伸ばした途端飲み込まれるのなら、向き合いたいという真摯な想いも溺れて絶えるのは当然のことである。


 溺れる者は藁をも掴む。

 溺者を救おうと手を伸ばし、沈む体が二つになるのは哀しきかな、確かな一つの現実でもある。


 だから、激情を激情のまま叩きつける手に持つ筆には、絵の具を与えてやるのがいいのかもしれない。

 きっと叩きつけるような火花の感情が、見る者の胸を焼く絵になるだろう。




 でも、その筆先が、細く、ただ文字を連ねることを、願ったとしたら?




 ――――絵であれば、塗るという行為に比べ、線画を描くという行為は、ひどく緻密な自己コントロールが求められる。

 絵をある程度嗜んだ者なら、躊躇いなくサッと引かれる美しい一本線の水面下に、どれほどの下積みがあるかを推察するはたやすい。

 シルエットを大まかに捉えるという能力も勿論技術を要するが、細密に輪郭を辿ろうと線を引く行為も、空中に張られた一本の綱を間違いなく渡るというような、『正確さ』を鋭く突きつけられるような、緊張感のある技術でもある。



 小説を書くことは、線画を起こすことに似ている。

 文字を書く、文章として連ねる。

 自分以外の誰かが追従すること叶う速度に、文字列に乗せた情動を制御しながら。

 伝えたい相手を置き去りにする暴風雨のような支離滅裂さばかりでは、決して成し得ない。

 連ねた文字列の先に、自分以外の存在を期待する心があるなら、どうしようもなく。



 文章化とは、言葉という金型で茫漠とした感情を切り取るようなものだ。

 より伝わりやすくするために、ある程度の余分情報を削ぎ落す選択を是としている。

 それを歯痒く思う感情だって、確かに存在する。

 同時に、その感情を深く愛惜してもいる。



 それでも伝達の形として、言葉を選択している。

 言葉を愛しているから、歯痒さも負っていける。

 文字を選ぶ人間の中には、そういう信仰にも似た感覚を持つ方もあるだろうと、私は身勝手に期待している。



 届いてほしいと希求しながら、その想いは時として地を割る雷であり、荒れ狂う大海である。

 爆発的で制御の利かない。

 けれど、そのまま叩きつけたところで共に溺れる不遇な相手を積み重ねるだけだ。

 だから文章という手段を選ぶ時、私は怯えている。

 伝わるだけの自己コントロールを自らが行えているのか。

 ただ伝えた先の誰かを不条理に打つ様な出力をしていないか。

 キーボードを打つ自身の背に、鋭く突きささる厳しい裁可の視線を感じながら、明確に怯えている。

 それでも手は止まらないのだから、因果だとも思う。

 負の感情でも完全には圧し潰せず、結局は文字を書くという行為を行えてしまう自分自身に諦観している。




 きっと私は知っている。

 怯えているくせに、知っているのだ。


 私は溺れない。

 腹の中にとめどなく暴れ狂う海を抱えながら、この身は生まれた時からきっと魚だった。

 腹に海を飼い、海に呑まれてなお、流々と流れを往ける性だ。


 それを因果と呼んだとしても、この文字の溢れる海に、自分以外にも溺れることのない多くの魚がいるはずだという、か細くも消えない確信が底光りするから。


 私は怯える二足歩行の体をいずれ置き去りにして、必ず海に還るのだろう。

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