残機✕2の殺人

暗闇坂九死郎

プロローグ 出現 (一九八四年八月)

第1話

「これから行われるのは、危険なマジックです」


 ステージの上でライトを浴びている天童てんどう照久てるひさは厳かにそう言った。黒いシルクハットに黒い燕尾服。首元の蝶ネクタイだけが毒々しいまでに赤かった。


 照久の背後には水で満たされた巨大な水槽が用意されている。これから照久が両手両足をロープで縛られた状態で水槽に入り、脱出するのだ。


 アシスタントの青木あおきももが照久の両腕をロープで固く結ぶ。階段を上り、水槽の上まで移動したところで両脚もロープで固定される。


「3・2・1」


 観客のカウントダウンで照久は水槽の中に落とされる。桃は水槽の蓋を南京錠で留めて、開かないようにしてしまう。水槽の中では照久が藻掻いている。そこで水槽は暗幕で覆われ、観客から中が見えなくなってしまう。

 それから桃がおもむろに暗幕を取り外すと、水槽の中は水が満たされているだけで誰もいなくなっている。


 水槽の中にいた筈の照久は消えてしまった。


 先にタネ明かしをしておこう。実はこの水槽、一面だけ透明なアクリルではなく液晶モニターになっている。暗幕で覆ったときに水槽をくるりと回転させ、次に観客が見るのは照久のいない水槽の中の映像ということになる。

 更に照久の自由を奪っているロープだが、これは水に溶ける特殊な素材で出来ている。水の中で十秒も藻掻けば自由の身になれる。あとは水槽が暗幕に覆われている間に水槽の蓋を少し開けて外へ出る。蓋を留めていた南京錠には、実は何の意味もない。

 最後に外をぐるりと一周して、観客の背後から現れれば拍手喝采だ。


 マジックのタネとは知ってしまえば他愛もないものだ。特に危険を伴うものになればなる程、単純なトリックが好まれる。


  この水槽脱出マジックは危険ではない。極めて安全なマジックだった。


 しかし、舞台裏。俺、瀬川せがわ累次るいじの目には水槽の中で苦悶の表情を浮かべる照久が見えていた。両腕と両脚を縛ったロープは溶けずに残ったままだ。


 異常を察した桃は、すぐさま水槽を舞台の袖に下げてしまう。

 観客たちは呆気にとられた筈だ。水槽に落とされた男が消えたことは不思議ではあるが、普通はその後どこかから出現するものだ。消えて終わりというのでは寝覚めが悪い。


 水槽を観客から見えないところに運ぶと、俺と桃は慌てて蓋を開けて照久を救出する。照久はパニックから大量に水を飲んでおり、意識を失っていた。事態は緊急を要する。今すぐ救急車を呼ぶべきだった。


「それだけはならん」


 救急車を呼ぶことを止めたのは俺と照久の師である、天童てんどう寿限無じゅげむだった。寿限無は照久の実の父親でもある。


「救急車がサイレンを鳴らしてここへ来れば、たちまち観客にマジックの失敗がバレてしまう。まさか救急車に静かに来てくれと頼むわけにもいかないだろう」


「だったらどうするんですか!?」

 俺は寿限無に食って掛かった。


「このままにしていたら照久は死んでしまう!!」


「心配ない」

 しかし、どういうわけか寿限無は妙に落ち着き払っていた。自分の息子が死にかけているのにである。


「それより次の演目はお前だろう、累次。ステージに集中しろ」


「馬鹿な!? この状況でショーを続ける気ですか?」


「客が待ちくたびれている。やれないならお前は破門だ」


「くッ……!!」


 桃は顔面蒼白でガタガタと震えている。

 桃は俺と照久のマジックショーのアシスタントであり、照久の恋人でもあった。汗と涙で折角のメイクが台無しだ。これではステージに上げるわけにはいかないだろう。


「桃、君は奥で休んでいるんだ」

 俺は桃の肩を抱いて微笑みかける。


 それから息を大きく吐いて、呼吸を整える。


「……わかりました先生。やりますよ」


 これはチャンスだ。照久は同門ではあるが、俺にとって目の上のたん瘤だった。マジックの着想では俺の方が幾らか上だが、実演という点においては到底太刀打ち出来ない。照久には生まれついて持っている華があった。


 そして何より許せなかったのは、美しい桃を俺から奪い去ったことだ。

 だが、その照久はもう助からないだろう。

 寿限無の二代目を継ぎ、桃は俺のものになる。望んだもの全てを手に入れることができるのだ。


 俺はステージに上がり、口から一本の剣を出現させる。その剣で宙に投げたリンゴを突き刺し、そのまま口の中に仕舞う。

 客席から割れんばかりの拍手が起き、俺は恭しく一礼する。

 これでもう観客は照久が消えたままであることなど忘れてしまっただろう。この調子であと幾つかレパートリーを見せれば、トリの寿限無に繋げられる。


 ――そのときだった。

 ――俺の目の前に、突如として


 

 そうとしか思えない現象だった。

 何もない空間から、何の前触れもなく照久は現れた。それも、両手両足をロープで結ばれたままの状態で。髪や服は少しも濡れていない。


 まるで時間が巻き戻って、照久が水槽に入る前に戻ったようだった。

 客席は沸き上がり、照久はロープで縛られた間抜けな状態のままそれに応えている。


「…………!?」


 ――一体何が起きた?

 ――何が何だかわからない。


 俺はステージの上にいることなど忘れて、照久の顔をただ茫然と眺めていた。

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