魑ヶ峰男爵と化猫櫻

武江成緒

第1話




 春の彼岸も十日ほど過ぎ、空気もすっかり和らいで。

 びょうやまにもうららかな日ざしがかかる時分になると。

 毎年、みね男爵は東京にながわにある屋敷からひとり離れ、汽車にのりこみ東海道をひた走り、京都大阪神戸を過ぎて、山陽線をしばらく進み、華瓶山へとやってきます。





 徳川時代は先祖代々の所領の一部であったという華瓶山。

 県庁のあるU市からは歩いて五時間ほどの場所にうずくまる山の周囲はいまだにひなびた風景ですが。

 大きなざつのうしょいこんで、それより一回りおおきな太り肉の体をゆさゆさ揺すりながら、英国じたての狩猟服にあぶらぎった汗にじませて、あぜみち砂利じゃりみちどろみちを山へとむかう魑ヶ峰男爵。

 あたり一帯、閑散として、その姿に目を向ける人はおらず。

 わずかな通りがかりの者も、男爵を見かけるや、忌まわしいものを避けるかのように目をそらしました。




――― このさき危険ゆえ立入ヲ禁ズ たにむら役場


 とおおきく書かれた立て札を、昨年とおなじように邪魔とばかりに蹴とばして。

 暗い山道を、えっちら、おっちら、一時間かけてのぼった先に、ぱぁっと開けた空き地のさなか、色もあざやかにえていたものは。


 見上げんばかりにそびえたち、頭上一面をうすくれないの花でぬりつぶす、おおきなさくらの樹でありました。




 櫻というより、数百年の歳をへたくすの巨木を思わせるその幹は、いまや隙なく、しわこぶとにおおいつくされ。

 大地のすべてを踏みつぶさんと身がまえる黒い魔神の姿をすら、彷彿とさせるものでした。


 美しくも恐ろしい、そんな巨体の前にたち、魑ヶ峰男爵は汗をぬぐい。




――― おうおう。今年もまた見事に、うるわしゅう咲いてくれたものじゃ。




 すえて膨れたしょう様の落描きのような、あるいは異国の剣呑な山猫の顔をおもわせる、そんなひげづらを不格好にもほころばせ。

 まるで秘蔵の盆栽でもでるような猫なで声で、そんな言葉をかけました。




――― これだけ見事に咲いておれば、さぞかしようくしおを吸うたものじゃろう。

――― 枝にはなやぐばんの花に負けぬほど、根にも実っておるじゃろう。




 その言葉に、巨木の足元からはびこった根へと目を転じてみるなら。


 やはり黒く節くれだった、太い、細い、数えきれぬ根っこたちは。

 枝からこぼれた花びらたちで紅くうずまった地面のなかを、長蟲のごとく這いずりまわり、蚯蚓のように土にもぐり。

 その姿は、少し離れてながめやれば、紅の雲のなかから生えた、巨大な黒い異形の腕が、無数の指で大地をつかみ、鮮血をしぼり流しているようでした。


 その惨劇を現実へ呼びさまそうとするかのように。

 雑嚢を、よいこらしょっと、背から紅い地面に投げ下ろすと。魑ヶ峰男爵、その中身をあけ、くわ円匙シャベルとを取り出して。

 上着をばさりと脱ぎ捨てて、ワイシャツの袖をうんしょとまくり、鍬をふりあげ、無遠慮に地面をざくりと切り裂きました。


 ざくり、ざくり、ざっくり、ざくり。


 切り刻まれた地面から黒い肉がむき出しになると、こんどは円匙シャベルを手にとって、痛々しい傷口から、土を乱雑にもぎおこしてはほうり捨てます。


 しばらくそれを続けたあげく。

 魑ヶ峰男爵の髭にまみれてふくれた頬が、汗ばみ、真っ赤に熟れあがり。

 手も足も、黒い大地の返り血でうす汚れてきたころに。




――― ふぁぁぁぉ。ふぁぁぁぉ。




 こじ開けられた土の中からひり出されてきたかのように、場違いな産声が、山のなかにひびきわたり始めました。




――― おうおう。産まれた、産まれたわ。

――― よう産まれ変わってきたわ。


――― ちぃっとばかし待ちおれや。

――― いま取り上げてやろうほどに。




 牙をむく豹にも似た笑顔をにんまり浮かべると。

 魑ヶ峰男爵、円匙シャベルをもぽいとほうり投げた両の腕を、そのままずぶりと土とへ突き入れ。




――― ふぁぁぁぉ。ふぁぁぁぉ。




 泥土まみれの手のなかへひきずり出されてきたものは、

 もがきながら鳴き叫ぶ、白黒の小さなねこでありました。

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