第4話 開幕

 翌々日。頭場とうじょうの合格発表は、県庁の前庭で行われた。

 梨玉りぎょくがいつまでも寝惚けていたため出遅れてしまった。すでに貼り紙の周りには大勢の童生どうせいたちが集まっており、喜びを露わにする者、悲嘆に暮れる者、答案審査の不備を訴える者などなどで大騒ぎだった。


 雪蓮せつれんは梨玉に手を引かれて人いきれのする中を突っ切り、門に貼り出された結果をめつすがめつ確認した。成績が優れている者から順番に名前が連ねてある。雪蓮はどうやら四番目のようだ。


「あった! あったよ小雪!」


 梨玉が喜色満面で飛び跳ねた。彼女の名前はかなり下のほうに記されていたが、ここに載っている時点で合格であることに変わりはない。


「やっぱり私って天才? このまま状元じょうげんになっちゃうかも」

「調子に乗るなよ」

小雪こゆきはすごいね! 四番だよ四番!」

「どうせなら一等になりたかった。次は負けない」

「残念! 次に一等になるのは私だかんね!」


 梨玉は合格できたことでテンションが高まっているようだ。明日には二場の試験が始まるのだが、この一時ばかりは存分に喜んでおくのがよいだろう。


 雪蓮は何となしに貼り紙を眺めた。一等に列されたのはしゅうこうという男のようだ。次は後塵を拝することがないように努力したい。


「おい。あれ」


 その時、にわかに童生たちがざわついた。

 ざわつきは波紋のように広がり、やがて大きな波濤となって県庁の前庭を包み込む。童生の一人が頭上を指差して叫んだ。雪蓮と梨玉も何となしに見上げる。県庁の入口の巨大な門、その上部に、縄で括りつけられた何かがぶら下がっている。


 梨玉が息を呑んだ。

 それは人間大の――否、まさに人間に他ならなかった。


「人だ! 人が死んでいるぞ!」


 縄で首を絞められ、怪物のように剥かれた目で童生たちを不気味に見下ろしている。風に吹かれてぷらぷらと脚を揺らす様は、何かの悪夢としか思えなかった。縄は門のへりに引っかけられているらしく、合格発表の貼り紙のちょうど真上に位置していた。


 事態を悟った群衆から悲鳴がほとばしった。

 県庁の軍夫ぐんぷたちが何事かと駆け寄ってくる。

 青褪めて立ち尽くしていた梨玉が、ぽつりと呟きを発した。


「あの人、一等の周江さんだよ」

「何だって?」

「前庭で絡んできた人。小雪が追い払った男の人……」


 雪蓮は死体を仰ぎ見る。

 死相が凄まじいので気づけなかったが、確かに見覚えのある顔だった。

 蕭々しょうしょうと風が吹く。

 それは死のにおいをはらんだ不穏な風。

 喧噪の中、雪蓮と梨玉はいつまでも棒のように突っ立っていた。



          □



 自殺ではなく他殺ということになった。直接の死因は窒息ではなく、頭部を刃物で突き刺されたことによる失血らしい。といってもこれは童生たちの間で囁かれる噂にすぎず、実際のところは県庁が目下調査中である。


 とにかく、県試で死人が出るなど前代未聞の大惨事だった。

 童生たちは怯え、自分の身も危ういのではないかと不安がっていた。

 周江を殺した犯人は県庁に潜んでいる可能性が高いからだ。

 梨玉も雪蓮の部屋を訪ね、思い詰めたような顔をしていた。

 殺人事件が起これば誰でも怖いものだ。


「県試、やっぱり中止になっちゃうのかなあ」

「だろうな。こんなことが起こったら試験どころじゃない」


 梨玉はそっと雪蓮に身を寄せてきた。

 どぎまぎしたが、今晩ばかりは撥ね退けるのは無粋に思えた。

 いずれにせよ、県試の全責任は知県にある。上に報告が行けば、あのよう士同しどうという男も処罰を受けることになるはずだ。県試が中止になるのは多くの童生にとって不本意だろうが、人の命が奪われたのだから仕方があるまい。


 雪蓮は梨玉の頭をそっと撫でながら溜息を吐くのだった。



          □



 しかし、知県の対応は想定の数段上をいった。


「殺人など起こらなかった」


 翌日、なんと二場にじょうは平常通り行われることになったのである。

 しかも試験が始まらんとする時、知県は居丈高いたけだかにそんなことを言ってのけた。さすがに童生たちも唖然とするほかない。頭場で一等となった周江が無残に殺されたことは、この県庁にいる全員が承知していることなのだ。


「とはいえ、未来ある童生が亡くなったのは確かだ。他言すれば無用な混乱を招くであろうから、諸君は決してこのことを外部に漏らさぬように。あと、諸君の恐懼きょうくを和らげるために細やかながらお土産も用意した。ありがたく受け取るがよい」


 金品を渡すから黙っていろ、と童生を脅している。

 上に報告するつもりがないどころか、積極的に揉み消す腹積もりらしかった。

 一度工部こうぶ郎中ろうちゅうとして失態を演じているから、左遷先の仕事にも粗があれば、紅玲こうれいでの出世は見込めなくなる――そういう危惧があるのだ。


「殺人事件は起こらなかったが、しかし、このまま放置しておけば第二の被害が出るやもしれぬ。ゆえに以後の試験においては、不合格者であっても県庁から出ることを禁ずる。そして諸君にお願いしたいことがあるのだが……」


 知県は童生たちを睨めつけながら言った。


「何か不審なことがあれば、臆することなく報告してほしい。もしそれで不埒者を捕まえることができたならば、諸君の望むように便宜を図ろうではないか」


 試験会場は動揺の渦に突き落とされた。

 紛れもない汚職の片鱗を見せつけられたからである。


「では二日目を始める。並行して犯人捜しも励行れいこうしてくれたまえ」


 知県は真面目腐ってそう言った。

 隣の梨玉は、呆然と彼のつらを見つめている。



          □



「小雪ーっ! 今日もお邪魔するねっ」

「わあ!? くっついてくるな!」


 日が暮れて後、梨玉がいつものように部屋を訪れた。戸を開くと同時に猫のように身体を擦りつけてくるものだから、雪蓮はぎょっとして飛び上がってしまった。引っぺがされた梨玉は、悪びれた様子もなく「えへへ」と笑った。


「今日の試験、どうだった? 合格してそう?」

「僕は問題ないが……」

「私も問題ないよ! 詩作は得意なの」


 そういえば、今日は詩に関する設問がメインだった。

 科挙は四書五経ししょごきょうさえ暗記すれば受かるものではない。

 四書五経四十三万文字を頭に入れたうえ、古人が経書につけた注を頭に入れ、注の注たるも頭に入れ、古今の政治課題や学説を隅から隅まで咀嚼する必要がある。


 問題は基本的に記述形式。内容に加えて文章の良し悪しも見られるから、一字とてゆるがせにはできない。一方で今日のごとく詩の作成を要求してくる場合もある。科挙官僚は文化の担い手という側面もあるため、経書に絡めた天衣無縫の唐詩を作れなければならないのだ。


「……まあ、今は試験よりも殺人事件のほうが盛り上がってるよな」

「うん……不純だよね。犯人見つけたら合格だなんて」

「あの知県はあらゆる意味で汚い」


 県庁に閉じ込められた童生たちは、躍起になって探偵ごっこに興じている。知県の覚えがよくなれば、県試を問答無用で通過できるのだから無理もない。


「ねえ小雪。周江さんは、どうして殺されちゃったのかな……」

「あの性格だ、恨みを買っていたのかもな」


 雪蓮は二場が終わってから色々と調査をした。

 周江と同郷の童生が言うには、周家は代々官吏を輩出してきた家系らしく、その嫡子たる周江は家の権勢を頼りに好き放題やっていたようだ。無銭飲食や婦女暴行は日常茶飯事で、あの男に陥れられた無辜むこの人は両手の指では数えきれない、らしい。


「でもさ、どうやったんだろうね? 死体をあんな高いところから吊り下げるなんて」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る