太陽の姫と落陽の国

微雨

第一章 とらわれの姫 

 太陽の姫と落陽の国


第一章

 それは西日が差し込む、最後の陽の光が瞬くときだった。

 大袖に長い裾の衣を着込んだ少女が、王の死体から宝剣を拾い上げ、自ら冕冠を被って紐をキュッと締めた。旒の玉が玲瓏と音を立て、鋭い目をした少女の赤い唇が陽によく映えて見えた。

「寧は滅びない」

 少女は言った。

 年の頃は十六、七か。

 気丈の人のようだ。父の死体を跨いで飾り物でしかない重い宝剣を掲げて彼女を囲む数百人の敵兵に挑む。

「殺せるものなら殺してみなさい。寧は決して滅びない」

 兵士たちは笑った。

 陶雄元(とうゆうげん)もまたその茶番に口の端を上げた一人だった。寧国、最後の王族である玉兎公主の悪あがきは、あまりに美しく、そして滑稽だったからだ。

「殺すのは惜しい美形だな。遊んでやろうか」

 兵士の一人が言った。侮辱に公主は唇を噛んで、切っ先を男に向ける。

「遊びたいなら、剣で遊びましょう。それが男というものだから」

 指名されてしまった男は内心戸惑った様子だったが、仲間たちにはやし立てられると仕方なく円の真ん中に立たされてしまった。雄元はそれを腕組みしながら見つめる。あの少女の気高さは人並み以上だ。お手並み拝見しようというくらいの気持ちだった。

「女だからと手加減はしない」

「こちらこそ、お前ごときに手加減はしない」

 兵士は唾を吐いて剣を抜く。腕前は――平凡そうな構えだ。対して、公主の方は重いはずの剣を両手でしっかりと上げると、先に斬り込んだ。男はすれすれでそれをよけ「くそ野郎!」と斬られた腕にいきり立つ。

 少女はそれにくすりと笑う。

「躊躇すれば殺される。迷いは戦場では死に繋がるもの」

 正しい言葉だ。しかし、兵士の男には届いていなかったらしい。力任せに右に左にと剣を振るう。「おいおい、負けているぞ!」「行け行け!」ヤジは好き放題に飛んでいて、ある者は仲間を、ある者は美しい公主を応援していた。それがどうも戦う男には癪らしい。

 動きはどんどんと焦るばかりになる。

 公主はその一手一手を先に見て、かわすだけでなく重い宝剣をしっかり握り、助走をつけて振り、それは美しい剣舞のようだった。彼女が動けば衣擦れがし、袖が翻って、回し蹴りするたびに裾から白い脚が覗く。

 いつしか、敵であったはずの者たちが、皆、公主に魅了されていた。冕冠の玉が動くたびに、その蛾眉が覗き、挑発的な視線が男たちを熱くする。彼女にはそういう力があった。国が包囲され、宮殿が落とされた後、死を前にして命乞いをした寧公とはまったく違った。

 けれど、そこは男と女。

 いつしか、切れる少女の息は激しくなり、大男の剣に押されるだけとなった。が   ――戦っている男すら、彼女の魅力に負け始めていた。ついに隙をついて剣を公主の首に突きつけたが、殺すのをためらった。

「言ったはずよ。『躊躇すれば殺される』と」

 少女はそう言ったかと思うと、自分の髪に挿していた簪で男の胸を突いた。男はドサリと音を立てて床に転がり、公主の顔は血に染まる。

「それで? 誰がつぎにわたしを楽しませてくれるんですって?」

 少女は立ち上がると疲れた顔を誇り高い公主のものに変えて言った。しんと静まり返った部屋の中で数百にも上る男たちの誰一人としてたった一人の少女に挑む者はなかった。

「お遊びは終わりだ」

「将軍」

 雄元が腕組みを解いて前に出た。

「さっさと仕事に戻れ」

 ここで言う仕事とは強奪だ。寧国の秘宝を故国、興国へと運ぶ。蔵の財宝から、妃嬪の死体の簪、梁に使われている金の飾りまで全てだ。寧国は小さな国だが、大地が二つで混沌とした時代から国として存在していたと豪語するだけあって、価値のある古い財宝がいくらでもあった。土地は痩せて、異民族と国境を面している。さほどそこにうま味がないのだから、興王を喜ばせる宝を国に運ばなければならなかった。

「お前は――」

 少女は剣を持ったまま言った。既に兵士たちは誰もおらず、残ったのは寧の公族たちの死体と公主、陶雄元だけだった。

「お遊びは終わりだ」

 雄元は近づくと剣を構える少女の腕を軽々と掴んでひねり、剣を落とさせた。彼女の瞳は大きく見開き、雄元はもう一方の手で冕冠の紐を解いた。

「寧は滅んだ。受け入れろ」

「…………」

 少女の目はその一言で泣きそうになった。大きな瞳に涙が貯まり、それを長い睫毛が辛うじて支えていた。

 そして落陽が山の端へと消えて行く――。

「寧は滅んだのだ」

 雄元はもう一度言った。

 光が闇へと取って変わった。すると、ぷつんと少女の緊張もまた途切れてしまったのか、突然、気を失い身を崩した。慌てて雄元はその襟を掴んで落下するのを止めた。

 そして雄元は見た。彼女の鎖骨の下に太古の文字で「日」と書かれた印を――。

「九つの太陽……」

 言葉を失った雄元の代わりにそれを呟いたのは、軍師の李敬建だった――。


 目を覚ましたとき、玉兎は騎乗の人だった。

 長い間同じ体勢だったのか、体が石のように硬く、暑い陽射しが頬を焼くほど暑かった。

「ここは――」

 と言って、自分が男の腕の中にいることに気づく。

「気づいたか」

「水を――」

 男は玉兎に未の胃で作った水筒を渡す。喉が渇いていた玉兎は喉を鳴らして飲んだが、すぐにむせそうになる。酒だったのだ。

「大丈夫か……」

 男が気の毒そうに背を撫でる。

「酒ではないの⁈」

 玉兎が振り向くと男が笑う。

「お前は――陶雄元……」

「水は腐るが酒は腐らない。寧国ではこれは寧公しか飲めなかったという濁り酒だ。不味くはないだろう?」

 馬鹿にされたと玉兎は思った。すぐに男の腕から逃れようと暴れたが、戦で鍛えたがっちりとした体の力には負ける。どうしても逃げられないと知った玉兎は男の胸を強かに拳で打ったが相手は別段気にもかけていないようだ。

 それで初めて、玉兎は相手をよくよく観察した。

 陶雄元といえば、五年で滅ぼした国が三カ国あるという興国の名将であり、名門、陶家の当主である。四十くらいの人物かと思っていたが、どうやら二十五、六のようだ。顔は日に焼け、皓歯が眩しい。健康的な武人で貴族めいたところはなく、酒をがぶ飲みし、干し肉を噛んでいる。

 周囲にいるのは、おそらく五、六千の騎馬兵だけだ。彼が誇る十万の兵士はどこにいるのだろう。選りすぐりの兵士だけを連れて興国に向かっている。どういう理由だろうか――わかろうはずはなかった。

 玉兎はそして空を見た。

 雨を感じる。このカンカン照りの中、雨を感じることは少ない。北から南へといつの間にか移動して、通り雨が降る土地に来てしまったのかもしれない。

「雨……」

 呟きは言葉になっていたのだろうか。陶雄元もまた空を見た。すると、結っていた髪がばさりと崩れて翡翠の簪が一つ地面に落ちた。「あっ」と玉兎は手を伸ばしたが、もう遅い。馬蹄が舞上げる埃のせいであっという間にどこかに消えた。

「たかが簪だ」

 陶雄元のその言葉が癪に障って、玉兎は睨む。たしかに、数日前、あの簪を頭に挿したときは数ある中の一つにしかすぎなかった。別段気に入っていたわけでも、いわれのあるものでもない。ただ、身一つで敵国に質として連れて行かれる身に唯一侍っていたのがあの簪で、それを失うのは「たかが簪」ではないのである。

「落とし物ですよ」

 しかし、後から列を乱して駆けて来た男がいた。年の頃は三十過ぎ。ひょろりとした文官風だ。騎馬は得意ではないらしく、手綱を持つ手はどこか危うい。細面で従軍していたわりに白い瓜実顔だ。とはいえ、美形とは言いがたく、大きな鼻と小さな目がどこか不均衡に見えた。

「公主さまのものでしょう?」

 男は玉兎を「公主」と呼んで敬い、両手で馬上から簪を手渡した。玉兎はそれをひったくって男の目を見ずにふところに簪をしまう。彼女を腕に抱く男が敵将の陶雄元であるのなら、このひょろひょろした男はその軍師の李敬建に違いないからだ。礼など言うにおよばない。

「公主さまは……気丈な方でいらっしゃる……」

 横柄だと言いたいのだとすぐにわかったが、ふんと玉兎は鼻で笑って顎を上げた。すると、軍師がぷっと噴き出した。陶雄元も笑い出し、なにがそんなにおかしいのか玉兎がわからないまま、周囲も笑いに包まれる。

「まったくおかしなものを拾ってしまったな」

「御意」

「自分が質であることもわかっていない」

 そう言いつつ陶雄元が、また笑った。玉兎は皆が自分の子供っぽさを笑っているのだと気づくと腹を立てて、陶雄元の鳩尾に自分の肘を入れてやる。しかし、鍛え上げられた腹はそんなものをはじき返し、逆に体を誇るようににやりとされてしまう。

「先駆したものによると西より雨雲があるとか。そろそろ営を張って、兵を休ませた方がいいかもしれません」

「雨?」

 陶雄元はそう言うと再び空を見た。真っ青な空にはぐれた渡り鳥が一羽南へといそいでいる。そして前に座る玉兎の耳元で言った。

「雨か……」

 玉兎はなにも答えなかったが、陶雄元は手振りで隊を止めた。兵士たちは埃が舞い散る荒野に慣れたように軍営を張り始める。陶雄元と李敬建は忙しそうに話しながら陣営を回っていたが、玉兎は手首に枷をつけられて兵士に引き渡される。

「死臭がするわ」

 玉兎は顔を歪めて行った。陶雄元と李敬建が振り返る。

「そりゃ、するだろう? 一国を滅ぼしてきたんだからな。死臭がしないのはお前くらいなものだ」

 兵士たちも「馬鹿な女だ」と笑う。全く癪に障る興人たちだ。

 玉兎はだからもうなにも言うことを止めて、追い立てられるままに歩き出す。なにを言ってもどうせ馬鹿にされるだけだ。だから、玉兎は雲に隠れつつある太陽に祈った。

「日よ、わたしに力を貸し給え」

 太古の昔、天帝には十人の息子がいたという。毎日、順番に空を太陽となり天の車で駆けていたが、ある日兄弟は一度に全員が空へと出た。

 すると地上は日照りとなり、多くの人間が死んだ。天帝はお怒りになり、九つの太陽を天から射り落とすように命じた。それ故に、地には天から落ちた太陽が九人いると言われている。

 玉兎はその一人、「日」の文字を体に宿す巫女だ。尊き身として時に政治を卜い、時に吉凶を決めた。

 しかし、どうしてだろうか。

 寧の滅びを占えず、ただとらわれの身となっている。ぽつりぽつりと降り出してきた雨の音を聞くしかない。泣きたいと思う気持ちはぐっと我慢する。誇りを失えば、もう自分が持つものはなにもなくなってしまうからだ。

 そこに陶雄元が現れた。彼は玉兎の涙を見たのだろうか。いや、見なかったかもしれない。すぐに玉兎は顔を向こうに向けたから。ただ彼は言った。

「早く寝ることだな。明日も強行軍だ」

 陶雄元は不思議な男だった。万という人を殺しながら、一人の人間の命を惜しむような男に見えた。武人であり、為政者であり、兵に慕われ、周辺諸国からは悪獣のごとく恐れられている。

 玉兎は目をつぶってみた。彼の運命の端を覗こう思ったのだ。しかし、疲れていたためか、太陽が空にないからか、玉兎の力は微弱で白い靄のようなものしか浮かんではこなかった。代わりに雄元は手枷をはずしてはくれないとはいえ、柱から玉兎を解き放ってくれ、自分の寝床を指差した。

「寝ろ」

「当然よ。わたしに床に寝ろって?」

 陶雄元が笑った。明るい笑みだ。屈託がなく、純粋に玉兎の反応を楽しんでいる。そういう笑みをしかし、玉兎は好きではない。誇り高き巫女には王さえも跪いたのだから、馬鹿にされたとしか思えなかった。

「明日の朝は早い。雨でも出発する。今夜は休むことだな」

「静かにして、余計に眠れないわ」

 ぴしゃりと玉兎は陶雄元に言った。彼の軍営で彼の床で、彼の虎皮を肩にかけて寝るのは、少しの優越感があったが、兵士たちは将軍が亡国の公主を我が物にしたのだと噂しているだろうと思うと憂鬱にもなった。それなのに、早く寝ろと言った本人が寝られないらしい。

「九つの太陽とはなにができるのか。本当に天から落ちてきたのか。雨はどうしてわかった?」

 信仰深くないのだろう。陶雄元は「九つの太陽」についてなにも知らなかった。どこの国でも「神霊書」と呼ばれる未だ世界が混沌とした時代を伝える書物を読んだことがあれば、そんな問いはしまい。

「九つの太陽は人を喰うというのは本当か」

「そんなものまずくて食べられない。牛を饗して神に祈り、羊を羹にして豊作を願う。それが人が九つの太陽にすべきことよ」

 陶雄元が干し肉を玉兎に投げた。

「それなら、人と一緒だな。食え。人間なら肉と塩は必要だろう」 

 玉兎はぎゅっと唇を噛んだが、干し肉を拾って食べた。食べなければ生きてはいけない。屈辱にあったとしても誇りを抱いて生き抜いてみせる。それが玉兎の強い意志だ。

「面白いな」

 陶雄元は愉快そうに笑った。玉兎が干し肉を拾ったのが滑稽だったからではなさそうだ。

「普通なら、命乞いをするか、『殺してください』と懇願するものなのに、質になってもお前は干し肉を噛み切りながら食べている」

「無様なことは嫌いなのよ」

「それで、お前をなんと呼べばいい?」

「公主さま」

「そうじゃない。名前だ。名前はないのか」

「なぜ教えないとならないわけ?」

「お前をお前とずっと呼ぶのに飽きたからだ」

「玉兎公主と呼ぶ者もいたわ」

 すっと顎を上げて玉兎は答えた。それは冊封地の名前で称号のようなもので、諱(いみな)ではないが、陶雄元はあまり頓着しないようだった。

「では玉兎と呼ぼう」

 月の光がわずかに玉兎に力を与え、彼女はあざ笑って言った。

「『九つの太陽』として一つ言えることはあなたは泥の上で身を滅ぼすということね」

 陶雄元が笑った。

「それこそ武将の望むところだ」

「馬鹿な男」

 玉兎は目を瞑った。

 いい夢を見たかった。父王がいて母がいて、へつらう重心たちが「九つの太陽」の巫女のための盛大な宴をする夢だ。にこやかに杯を傾け、舞を下手だと酷評し、贈り物が凡庸だと嘲ったかつての日常を。それが滅びの原因だなどは少しも玉兎は思わなかった。国は小さいながらに豊かで、玉兎は大雨や雪、ひでりを予見できた。民は感謝こそすれ、恨んでいたはずはない。

 ただ大きな時代の波に乗れなかったというだけだ。

 法で民を縛り、刑罰で民を恐れさせる興国が強国になったというだけだ。民の豊かさより兵力を重視し、侵略で奪略する、そんな国に天啓と恵みばかりを期待する国が勝てようはずはなかった。

「お母さま……」

 雨だけが降り募り、夜は深々と更けて行った。


 翌朝、玉兎の目覚めは誰よりも早かった。眠れなかったと言った方がいいかもしれない。

 逃げられないように靴を与えられていないため、冷たい大地に素足を付けて営を出た。西から吹いていた強い風が、嵐を東へと追いやってしまったのか、残ったのは白糸のような細い雲と体に巻き付くような深い霧で、眠りこけていた見張りの兵士が二人が、慌てて戈を持って後をついてきた。

「おい、女、あんまり遠くにいくなよ」

「…………」

「おい、聞いているのか」

 玉兎は聞こえないふりを決め込んで男たちの前をすたすたと歩いた。どうせ憚りだろうと男たちが若い女に遠慮してそれ以上急いではこないのをいいことに、勝手に見晴らしのよい丘の方へと歩いていく。

 貪欲な大地はあの大雨をすでに飲み込んでしまったらしく、玉兎の裸足の足を濡らすことはなかった。そして空気を「ぬるい」と思った。果てしなく広がる草原のところどころに浮かぶ丘を見やりながら、昨日嗅いだあの嫌な死臭を感じ取って眉を寄せた。

 ――なんなの、この感じは……。

 寧の宮殿から出たことのない公主にはこんな不気味な空気は初めてのことだった。もう一度、目をこらして天と地の境に目をやった時だ。

「馬だ」と見張りの一人が叫んだ。

 もう一人が指差し、もう一人が目をこする。

 玉兎ははっとした。何かが近づいてくる! しかし、彼女には何も見えず、感じるのみ。しかし遊牧の民である見張りの男は、玉兎が死臭を感じられるのと同じように、馬が見え、蹄が大地を蹴るのが聞こえるらしい。

「何頭だ!」

「たくさんだ。五十、いや、八十以上だ。早く皆を叩き起こせ。敵襲だ!」

「敵襲だ!」

 二人の男たちは玉兎のことなど忘れたように大慌てで雄元の営に駆けていった。ぽつんと取り残された玉兎は瞳を瞑った。風は吉でも凶でもなく、ただありのままを告げる。

 もう父母も帰る国もない。

 ――ここで死ねるならそれもいい。もう驚くことも恐れることも何もないんだから。

 玉兎は懐にしまっていた翠玉の髪飾りを取り出すと髪に挿した。男たちが大慌てで剣を腰に差しながら馬に乗るのも関係ない。

「何をしている! 早く来い!」

 誰かがそう叫んでいたが、それが自分に向けられていたものだと気付いたときには、玉兎の小さな体は浮き上がり、馬上にいる雄元の胸の中にいた。

「お前は死にたいのか!」

「…………」

「玉兎!」

 雄元が馬上で呆けている玉兎を激しく揺すぶった。

 しかし、玉兎はただ呆けていたのではない。飛ぶように草を蹴る馬の背でだんだんと迫り来る死臭の不吉さに身震いし、朝日と共に姿を現した集団の殺気におののいていたのだ。その集団は黒い旗を棚引かせ、鞭打つ音を響かせている。男たちの奇声が、勇ましさを表すかのように高く空に木霊した。

「首だ!」誰かが叫んだ。

 玉兎が振り返ると、先頭を走る戈の先に首が刺さっているではないか。それはここに来るまでに切り落とした真新しい生首だ。血が馬の揺れでほとばしり、草を穢す。

「西夷でございます!」

「敬健、どうして奴らはこんな東までやってくるんだ!」

「分かりません。普通ではないことは確かです。ひとまず逃げましょう!」

 西の異民族、西夷国の兵士は勇敢で弓や弩(ど)を騎乗で上手く使いこなす。無駄な血は流さないという主義の李敬健の判断は正しい。特に奇襲なら尚更で、陶雄元は軍師の馬に鞭を入れ、自分の馬にも叱咤した。しかし、千里を走る駿馬も、玉兎と二人では駄馬と変わらない。

「まずい! 追いつかれるぞ!」

 玉兎は雄元の言葉にはっと振り返った。黒毛の一頭が風よりも早く迫っていた。何人かの兵が雄元を守るために剣を抜いたが、それはすぐにわら束のように馬の背から消え落ちた。まずい、このままでは追いつかれる! 玉兎の額に汗の粒が浮かんだ。

「これを持ってろ!」

 雄元が玉兎に手綱を預けた。

 両手の空いた彼は弓を引く。キリリと締まる音がして、放たれた矢は戈を持ち替えた西夷の男の頬をかすめた。血を拭った男と玉兎は目が合った。

「伊士羅(イシラ)っ」

 玉兎は思わず声を上げた。

 浅黒い肌。鋭い瞳。幼いころの面影をそのままに彼は馬を操っていた。かつて玉兎に乗馬を教えて寧公の怒りを買い、その額を殴られた傷跡もまだ生々しく残っているその男は玉兎の旧知の人だ。なぜ? なぜここに?!

「伊士羅!」

 玉兎は握っていた手綱を引こうとした。しかしそれは雄元によって阻まれ、顔を強かに肘で殴られた。切れた唇に玉兎は顔を覆う。

「陶将軍!」

「敬健! ゆけ! お前が来たら足手まといだ!」

「しかし!」

 雄元と伊士羅の剣がぶつかりあった。伊士羅の乗馬の腕は一級だが、玉兎を乗せながら、馬を脚だけで操り、同時に剣を握る雄元の腕もかなりのものだった。雄元は相手の心臓を常に狙っていた。ところが伊士羅はそうではない。

「公主! あなたなのか!」

 伊士羅の問いに答える代わりに玉兎は、雄元の剣を持つ手に噛み付いた。雄元は舌打ちし、それを振るい払うと、玉兎の首根っこを乱暴に掴む。

「将軍!」

 雄元にとって運がいいことに、体勢を整え直して戻ってきた興軍兵の声がした。二人の男は同時にそれを振り返り、今度、舌打ちしたのは伊士羅の番だった。

「伊士羅! 置いて行かないで!」

 玉兎の悲痛な叫びは届いただろうか。幼いころ何度も叫んだその名は、草原の深い草木の中に吸い込まれ、遠くになった人影は大きく弧を描くと無常にも次第に小さくなっていった。


「怪我をしていらっしゃる」

 始めに雄元の怪我に気付いたのは李敬健だった。本人さえも敵の剣が肉をえぐっていたことに言われるまで気付いていなかった。

「これぐらいなんてことはない」

「興の国境はもうすぐです。手当をいたしましょう」

 玉兎は何かしら、雄元から非難されるのではないかと内心怯えていた。腕から滴る血の量は相当で目眩がするほど赤かった。しかし当人は、

「玉兎。お前また簪をなくしているぞ」と彼女を馬から下ろして、先程の出来事を忘れたような顔をする。

「危なかったですね、将軍。西夷がこんなところまで来るとは一体どうしたわけでしょう」

「小勢だ。寧の情勢でも大方探りにきたのだろ」

「西夷と寧は同盟国ですからそうかもしれません」

「なるほど。それで、玉兎はあの男を見知っているのだな」

 急に話を振られた玉兎は皆から顔を背けた。彼女は裸足の親指同士をすり合わせながら、汚れた衣で埃だらけの髪を隠した。それらはひどく玉兎を惨めにさせ、雄元が最後に持ち合わせている誇りまでも奪おうとしているように思われてならなかった。

「知らない」

「知らないはずはないだろう? イシラとあの男を呼んでいた」

「将軍、伊士羅というのは西夷の公子です。人質として寧に十年ほど遣わされた者で、寧側の人質が西夷で病死したので、何年か前に人質を交換させたと聞いたことがあります」

「公子がこんなところにお出ましとは恐れ入るよ」

「公子といっても西夷の王には子が二十人もいると聞きます。ものの数にも入らない男なのでしょう」

 玉兎は李敬健の言葉に側にあった小石を握った。

 寧が滅びる前の彼女なら、目の前の男を殴るように命じていた。「お許し下さい、公主さま。お願いでございます、お助けを!」そうすがりついても聞き入れず、伊士羅をものの数にも入らないなどと言ったことを一生後悔させただろう。

「公主。何か気に障ることでも申し上げましたか」

「話しかけないで」

「気が強いのはいいですが、興国に入ったらお気を付けなさい。あなたの命は風前の灯火と言っても過言ではないのです」

「殺したいなら、今、殺せばいいでしょう」

「やれやれ。困りましたね」

 敬健は雄元に大げさに首をすくめて同意を求めたが、彼は片袖を脱いで傷を軍医に酒で洗い流させており、痛みに顔を歪めているところだった。

「お前のせいでこんな傷になった」

「……」

「せめて手当ぐらい手伝ったらどうだ」

 雄元は恨み言のように言ったが、当然のように玉兎はそれを無視した。

「どうやら公主は寧公に甘やかされて育ったらしい。陶将軍に不遜な態度に出る公主は興には一人もおりませんよ」

「そう? 寧では宰相もわたしに跪いたわ」

「さようで」

 敬健は玉兎の言葉に吹き出して笑った。ぼろぼろの絹をまとい、もう何日も顔を洗うことさえ許されない亡国の公主がかつての栄華を誇って見せたのが、おかしかったらしい。

「で? 玉兎。伊士羅という男はどういう男なのだ? なかなかの腕の持ち主だった。顔も色男だしな」

「…………」

「お前とはどういう関係だ」

「どういう関係でもない。ただ昔遊んだことがあるだけよ」

「昔とはいくつのころだ」

「小さいころからずっと……十二ぐらいまで」

 玉兎は口を閉ざした。

 十三のときに「日」の文字を肢体に宿し、忘れ去られていた公主から一変して、九つの太陽として信仰の対象となり、国の中心に立たされたことを思い出した。朝議にも簾中から天の言葉を伝え、あらゆる贅沢を欲しいままにしながら、心のどこかで母の実家で気ままに過ごし、時に宮城で、伊士羅や同じ年頃の娘たちと遊び歩いたことを懐かしんでは寂しかった日々を憶う。

「玉兎、どうした?」

「気安くわたしを呼ばないで」

 ぴしりと雄元の言葉を跳ね返した玉兎を、再び李敬健はぷっと吹き出して笑う。

 彼女は癪に障る男だと睨みつけると、もっと笑い続け、しまいには雄元やその部下たちも笑いだしたから、玉兎は全員に小石を投げつけてやったのだった。


 興の都、絽陽(ろよう)にようやく着いたのは寧を立って五日目のことだった。

 陶雄元は、絽陽こそ世界の中心だと自負している。今日も店が道にびっしりと立ち並び、市を行き交う人々は肩を触れずには通り過ぎることもできない賑わいだ。しかも郭内を貫く大路の遙か向こうに九重の甍が連なって興王朝の威厳を示すさまは荘厳というしかない。

  雄元は、都の城門を潜る前に、玉兎に帳を巡らされた乗り物を与えた。おかげで戦に勝利して凱旋した陶将軍を一目見ようと集まる観衆から彼女は身を隠すことができた。玉兎は惨めな姿を影さえも見られたくないのだろう、衣をかぶって身を伏せると、息を殺していた。

「すごいだろう?」

 雄元は玉兎に誇らしげに馬上から話しかけたが、案の定、返事はない。かと言って彼がそんな玉兎の態度に機嫌を悪くすることもなかったのは、それが彼女に投げかけた言葉というよりも、むしろ独り言に近いものだったからだ。

 戦勝を祝う民が、雄元の帰還を手放しで喜び、道ゆく兵士に竹の葉に包んだ麦米や、花を捧げて英雄と呼ぶのは快かった。しかし、そこに水を差す軍報が届く。

「報! 報!」

 旗を背にした軍馬が雄元の前に停まった。 

 飛び降りるように兵士が下馬して軍令をすると頭を下げた。

「陶将軍。ただ今、知らせがあり、大王は離宮におわすとのことです」

 戦勝の将兵を宮門で迎えないのは慣例に反する。雄元は笑顔のまま機嫌を悪くした。

「大王が離宮に? では宮殿に入る必要はない。俺はさっさと一人帰らせてもらうよ」

「将軍、それはいかがかと――」

「李敬健。あとは任せた」

「公主はどうされるのです?」

「心配するな」

 復命もせずに自邸に帰ると言い出した雄元に敬健は渋い顔をして玉兎のことを持ち出してきたが、それも「大王がいないのに行っても無駄だ」と取り合わず、玉兎も自分の屋敷に連れていくと言い切った。

「しかしながら、将軍――」

「城に行けば、丞相がいる。大王が離宮にいるということは、都の諸々のことは丞相がしているわけだ。そんなところに俺はのこのこ復申するつもりはない」

 丞相は国の宰相であり雄元の叔父にあたる。二人の間には李敬健には分からないいろいろな事情というものがあるのだ。それは李敬健も察せられるだろうが

「『あとは任せた』と副官に全部押し付けるのは酷いではありませんか」と、恨めしそうな顔を雄元に向けている。まぁ、それはそうだろう。

「心配するなと言っただろ? 問題にはならない。それに俺は西夷にやられて負傷しているから傷の手当をしなければマズイだろ? 叔父上が本当に用があるならあちらからやってくる」

「はぁ……」

「じゃあな」

 復命しないどころか、丞相も呼び付けるという雄元を李敬健は呆れ顔で見送った。しかし、雄元からすれば、叔父の権力は王に勝るものがあるとはいえ、陶家の家長は自分であり、雄元の武功あっての丞相の座であるのだから、自分がわざわざ跪いて叔父に報告したくはないのだ。

「お前もやっと湯に入れるな」

 雄元は馬車と馬で併走しながら、車中の玉兎に優しく言った。しかし、やはり返事はなかった。疲れているのだ。雄元は、王や丞相、宮殿の古狸たちはどう彼女を扱うのだろうかと心配になった。殺すことはないにしろ、九つの太陽だ。どこかに監禁されるのは間違いない。

 もし彼女が普通の公主であったなら、雄元なら多少のわがままを言えるだろう。つまり、戦利品として自邸に置くことを許され、妻妾にすることも不可能ではない。しかし彼女は九つの太陽の一つ。一人の人間の手中におさめておくには大きすぎる存在だ。

「しかたない。離宮に連れていくか」

 他の選択はなさそうだ。


「お帰りなさいませ」

 雄元ら一行が屋敷の門を潜ると、喜色に満ちた家人たちが出迎え、口々にその無事を祝い、寧での活躍を讃えた。

「これは客人だ。丁重に扱え」

 なかなか車から降りて来ないのに苛立った雄元が、玉兎の白い腕を掴んで馬車から引きずり出すと、彼女は人目にさらされるの嫌ってぼろ布をかぶり直し、長い旅で集めた砂を頭から落としながら立った。さすがの雄元もその姿に心を痛めた。初めて会った時とは別人であり、少なくとも数日前までは大柄な口を叩くぐらいの元気があったのだ。

「寧の公主だ。食事も着るものもよいものを用意してやれ。特に肉と羊の羹をな」

 冗談を言ったつもりで少女の様子を見たが反応はない。少し無理をさせすぎたか。使用人は、少し戸惑った様子だったが、国を一つほどぼして帰国するたびに奇妙なものを持ちかえる主人には慣れたもの。

「は、はい。かしこまりました」とお辞儀した。

「着替えもなにもかも全てお前一人でやるのだ」

 死体のような玉兎の腕を、雄元は老いた侍女に託した。


「公主さまはたいそうお疲れのご様子でした」

 雄元が長旅の垢を落とし、寧の酒を注がせていると、先ほどの老侍女が玉兎のことを腰を曲げて報告しに来た。

「そうか。明日の朝、離宮に連れていく。身の回りの物を用意しておくように」

「かしこまりました」

 普通ならそこで会話は終わり、侍女は退出するものだというのに、今日の老婆はまだ何か言いたげに伏せていた目を下げる。

「どうした?」

「あの……公主さまの沐浴のお世話をしたのですが……」

「ああ。あの鎖骨のあれのことか?」

 老婆は「そうだ」という代わりに視線を下げた。その瞳には恐れが入り混じり、長く生きてきた者だけが持つ、見えないものへの畏怖があった。

「黙っていろ。殺されたくなかったら口が裂けても言うな。いや、殺されても言うな。天帝の怒りをかいたくなければな。着替えもすべてお前一人でせよ」

 何も雄元は説明する必要はなかった。

 説明しようにも彼女のことをどう話したらいいのか分からない。玉兎という称号しかしらず、名前すら知らないし、ましてや「九つの太陽」などというものは迷信とばかり思っていた。

「さすがに疲れたな……」

 陶雄元は椅子から立ち上がり、戦の旅でもそうしたように酒壺を抱えて外へと出た。

 円い月。

 笛を取り出して、何かいい曲はないかと指を当てる。

 しかし吹いてしまうのは、月に掛かる薄雲のような哀しい曲ばかり。厭世的になるような男ではないから、きっと一つ国を滅ぼして自邸で気が抜けただけに違いない。 雄元は絽陽の夜空に物悲しい響きを込めた。そして吹きながら「お前は泥の上で自らを滅ぼすの」と言った玉兎の予言を思い出した。

 武人として泥の上で息絶えることより名誉なことはない。

 草原を走り、英雄として興の人に慕われる。ただそれだけが今も昔も彼の野心だ。それなのに、なぜ気になる? 気になる必要などないのに――。雄元はもの悲しい曲をやめて、わざと兵士が辺境で歌う勇ましい曲を吹いた。

「将軍。陶丞相がお見えです」

 遠慮がちな声が闇から聞こえた。

「お通ししろ」

 雄元は少しばかり感傷的になりすぎた自分を持て余し「疲れているんだ」と心の中でつぶやくと、夜遅くにやってきた客に感謝した。そして襟の乱れを正し、一人の男から、陶雄元将軍へと戻る。これこそ本来の姿だと思って。

「夜分に申し訳ないね」

「お呼びくだされば伺いましたものを」

 行く気などさらさらないのに、雄元は儀礼的に一癖有りげな中年の男に言った。

「怪我をしていると聞いたから、構わない」

 叔父はゆっくりと室内に入ると上座を占め、雄元に怪我の具合を尋ねた。彼は

「大したことはないのです」と言いながらも、武勲のように腕の傷を誇らしげに見せる。

「西夷にやられたそうではないか」

「はい。油断しておりました」

「お前の帰国を急がせたのもそのためだ。ここのところ西夷の勢力が拡大している。北の国境は深刻な緊張状態が続いている」

「寧にやった軍も十日もすれば戻って参ります。ご心配には及びませんよ」

「また戦になるかもしれん」

 帰国早々次の戦の話は聞きたくない。雄元は顔をしかめた。

「出来れば、お前に西夷討伐に行って欲しいと思っている」

 これでは休む暇もない。国は確実に領土を広げているが、将軍である自分が疲れを感じるほどということは、徴兵される歩兵はどれほどか。そして働き盛りの男手を失った家族はどう生活しているのだろうか考えると、戦などとてもできやしない。食糧は負けた国から持ってくればいいさ、くらいに考えている文官たちの頭を鞘でたたき割りたくなる。

「言いたいことは分かっている。しかし、みすみす西夷の侵略をほっておくわけにもいかん」

「大王はなんとおっしゃっているのですか」

「『滅びるも吉。栄えるも凶』とお言葉を賜った」

「はぁ……」

 言わんとした意味がまったく分からない。

「雄元。大王の言葉は天の言葉だ」


 天の言葉と言われても、あまりに投げやりな発言に雄元は失望した。栄えるのが凶であるのなら、そのために命をかけて寧で戦ったことは無意味になってしまう。どれほどの命を犠牲にして雄元が寧を勝ち取ったと思っているのか。

「叔父上。出来るなら、他の者を北へはお遣わしください」

 叔父は黙った。

「俺の軍には陶家の私兵も含まれています。これ以上、疲弊させるのは、陶家としてもいかがなものかと思います。それに西夷との戦となれば、他国との戦い方とは異なり、かなりの痛手を覚悟して挑まなければなりません。長い、長い、戦となりましょう」

「うむ……」

「とにかく叔父上がなんと言おうと、俺はしばらくは動くつもりはありません」

 口調は丁寧だったが、雄元の語気は強いものだった。丞相であろうが、一族の年長者だろうがこの点においては一歩も引く気はない。叔父も髭をいじりながら、ひとしきり黙って考え込んでいたが、雄元の意志が固く動かないというものを動かすことは無理だと判断したらしく

「では考えてはみてくれ」とだけ言い置いて席を立った。

「ゆっくり休め」

「ありがとうございます」

「ところで、寧から公主を連れ帰ったと聞いたが?」

 見送りに戸まで送ると、ついでに思い出したように叔父が言った。地獄耳のくそジジイめと雄元は内心舌打ちしたが、顔には出さずに

「面白い女でしたので、気まぐれです」とだけ告げた。

「うむ」

「では、お気をつけて」

 頭を下げながら、雄元は、玉兎が九つの太陽であることを叔父が知っているはずはないというのに勘ぐって、確実に明日には玉兎を離宮に連れて行かなければならないと思った。


 老侍女に揺すぶられて玉兎は朝早くに目覚めた。まだ寝足りないにも関わらず老婆は容赦ない。寝返りを打って逃げるも揺すぶるし、布団を被っても剥がそうとする。毛虫のように布団に包まればそれごと引っ張った。

「お目覚めくださいませ」

「うるさい!」

「お目覚めを」

「うるさい!」

 玉兎の寝起きは悪い方だ。しかも何日かぶりの寝台での睡眠ともなればなおさらで、体に触れた老婆を突き飛ばし、再び目を瞑る。そしてふと、自分がどこにいるか考えてみた。

「えっと……えっと……」

 恐る恐る開いた瞳に、寧の宮殿とは趣の異なる黒い柱で囲まれた黒漆の天井が映った。男が弓を持ち、天に矢を放つ神話が赤漆で描かれている。その向こうで贅を尽くした薄布の帳が日の光を遮り揺れているのを見れば、ここが寧ではなく雄元につれてこられた興国であるのを思い出した。

「お着替えくださいませ。朝餉の用意も出来ております」

 玉兎が目を開けて睨むと、床にひれ伏す老婆は何かに怯えるように言った。その大仰な畏怖に玉兎は眉を寄せながらも、本来持っていた公主としての誇りを取り戻し、尊大な態度で身を起こした。

「お着替えください」

 同じことを繰り返す老婆の背の向こうに湯気をあげている朝餉を見つけると玉兎の腹が鳴った。まともな食事は道中何もたべていない。干し肉やら干した穀類、あとは塩と水だけで、粥のふんわりとしたいい匂いを嗅ぐと居てもたってもいられなくなった。玉兎は老女が着替えを持ってきたのを無視して椅子に座った。

「何をしているの、さっさとして」

「は、はい。申し訳ございません」

 かどわかされた身にしては大きな態度の玉兎にあっけに取られながらもこの年老いた侍女は、慌てて粥を装った。

 白く眩しいまでに光る米粒。

 玉兎の胃の腑がぎゅっとなり、口の中がすっぱくなる。しかし、目の前に置かれた椀とともに添えられた箸を見た時、彼女の顔は曇った。白い象牙の箸で花の細工がほどこされている。彼女はそれには手を付けずに取り分けるのに使っていた長い木製の箸を使い、黙々と皿を次から次へと空にしていった。

 美味い。美味すぎる。寧のような餅(ビン)ではなく、米の粥は朝食にとてもあうではないか。

「すごい食べっぷりだな」

 からかうような声がして見れば、雄元が腕組みして入り口にもたれて立っていた。見慣れていた物々しい武具姿ではなく、金の小冠に緩やかな絹の二藍の深衣を着ている。

 馬に乗りやすい胡服に鎧という姿も彼に似合うが、もともと中原の人である雄元にはこういう装いの方が似合う。たぶん、本人も分かっているのだろう、無精髭をきれいに剃り、貴公子然とした優雅な瞳を向けた。

 玉兎はなぜかそんな雄元に苛立って空の皿を投げつけた。彼はわざとらしく両手を上げてかわすと、勧められてもいないのに、玉兎の前の席につく。そして象牙の箸を取って食事をつまみだした。

「おや? 人の食べ物を食うなという顔だな?」

 口に肉を入れた雄元は白い歯を見せて笑った。玉兎は眉を寄せたまま言った。

「お前はいつもそうなの?」

「『そう』とはなんだ?」

「その箸」

「これが何か変か」

「寧では驕っている人は象牙の箸を使うって言って嫌うのよ」

「それはそれは。寧は古い国だな。今ではそんなことを言う者もない。興では中級貴族でさえ象牙の箸を使うよ」

 玉兎は嘲るように鼻を鳴らす。

「馬鹿な興人」

「それより顔を洗って着替えたらどうだ? 酷い顔だぞ、お前」

「うるさい」

「年ごろの娘が色気より食い気とは哀しいことだ。寧の着るものはその国以上に古臭い。興のは華やかで若い女にはいい。髪飾りも流行のものを用意させておいてやったぞ」

「興の衣など着ない。お前らに恵んでもらうぐらいなら裸の方がましだわ」

「俺はいっこうにそれでもかまわないんだがなぁ」

「⁈」

 わなわなと怒りで震える玉兎を雄元は笑った。そしてその言葉を見通していたように別の衣装を持ってくるように言いつけた。

「王に謁見するのに、残念ながら裸ではまずい。少しは見られたものにしないとならないだろ?」

 運ばれてきたのは寧の衣で萌黄の大袖の衫(さん)。興では活動的な短い袖が普通で、刺繍で蝶や花を施して華やかにする衣を着るが、寧では昔から織りに凝り、そして襟に金糸を使って刺繍する。そしてその下に裙(くん)を身につけ、床まで届く、長い披帛(ショール)を肩に掛ける。

 雄元は茶を飲みながら、玉兎の着替えを珍しげに見ていた。

 一方、玉兎は、男が女の着替えに席を立たないことに腹を立てたが、いくら言っても聞かないだろうことは長旅でしっかり学んだことなので、ただ視線で抗議するだけだ。

「そんな怖い顔をするな。そうだ。寧の宮女はなにやら赤い点を眉間に描いていたが、あれはしないのか」

「それは花鈿。赤いのは女官。公主は青と決まっている」

「そう言われれば、お前は青い蓮を付けていたように思う」

 思い出そうと腕組みした雄元は化粧箱から筆を取った。

「眉間に皺をよせるな」

「寄せるなと言われてもお前がこの世に存在するかぎり眉間に皺はよる」

 玉兎は息も届くほどの距離に雄元が近づいて身を縮め、身を引こうとした。雄元の方はそんなことお構いなしで、ずるずると椅子を引きずってくると、彼女の額にゆっくりと筆を置いた。冷たい筆先が額にあたり、体の中心を何かが走る。

「どうだ。上手いものだろ」

 手渡された鏡の中を玉兎がのぞくと、眉間に月が描かれていた。

「玉兎は兎のことだろ? だからちょうどいい」

 なら満月を描けば良さそうなものを細い弦月で、それは玉兎の蛾眉に似ている。

 雄元は月のの額の月の内側を塗りつぶすと満足顔に筆を置いた。そして『乾くまで眉を寄せるな』と両手を顔の前に広げてみせた。玉兔は唇だけ尖らせて外を向いた。敵になぜこんなことをさせられなければならないのか。玉兎は戸惑い、その戸惑いを無視するのに精一杯になった。

「将軍」」

 そこへちょうど家宰(かさい)と客が回廊をこちらに歩いてくるのが見えた。

「将軍、李敬健さまがお着きでございます」

「そうか、こちらに通してくれ」


   *

 李敬健は日が昇る前に一仕事終えてから将軍の屋敷の門をくぐった。爽やかな朝が清々しく、久しぶりに袖を通したシワのない衣に満足して雄元に拝手して頭を下げると、すぐに玉兎を見て微笑んだ。

「おや、見違えましたね、将軍」

「黙ってさえいれば、可愛いのだけどな」

 敬健は着飾った玉兔に気づきそれを誉めたが、雄元の一言余分な言葉に腹を立てた玉兎が無言で袖を払ってわざと化粧箱を床に落とした。

「黙っていてもどうでしょうか……」

 敬健は雄元と顔を見合わせ苦笑する。あまりにも子供じみた玉兔の抵抗はどうも憎めない。

 しおらしく泣くなり、命乞いをするなりしてくれれば気も重くなって、こちらもさっさと片付けてしまおうと思うのに、ここまで誰に対しても態度を改めることなく横柄に振る舞える人間はそうはいない。感心さえしてしまう。

 言わば、山猫だ。気高く美しく、餌をもらっても礼をいうどころか、噛みついてくる。しかし、憎めないのは彼女が本来持つ徳というもののせいだろう。旅で長らく共にしたが、わがまま三昧で敵意をむき出しながら兵士たちから可愛がられている。

 それは故郷に残してきた娘の反抗期や妹の悪態を思い出すからかもしれない。郷愁が公主を通じて蘇るのだ。そういう李敬建さえ、わがままに平行していた従妹のことが重なり、家全体の笑い声が聞こえてくるようだった。それを「徳」という。

「将軍、私はまだ誰にも報告しておりません。お気に召したのならこちらに置いておけばよろしいのに」

 耳打ちした敬健の提案を雄元は一笑した。

「ははは。こいつが人間の生気を吸い取らないという保証があるのならな」

「それは分かりませんね。少なくとも忍耐力は吸い取られましょう」

 それはそうだと男二人は笑い合う。けれど一人だけむすっとした顔を改めない人が、敬健の顔を指差して言った。

「お前」

「私ですか? 公主さま。大変申し訳ないのですが、その『お前』と呼ぶのはおやめください。私には『李敬健』と言う名前がありまして、興国ではそれなりの地位にあるのでございます」

「無駄だよ、敬健。俺でさえも未だに『お前』呼ばわりされている。この絽陽じゃ公子だって道を空ける俺をな。それを先にどうにかして欲しいよ」

「お前達、私の話を聞きたくないわけ?」

「眉間に皺が寄っているぞ」

 玉兔がため息を漏らした。そして『もういいっ』と短気を起こしてしまったので、敬健は『聞いて上げましょう』と雄元に目配せをしてやる。これはもう親戚の子供の世話を頼まれたときの心境だ。辛抱強さが大切だ。

「玉兔なんだ、何が言いたい。言え」

「私が親切心を起こしてやったのに。そういう態度に出る人間には何も言いたくない」

「申し訳ございません、公主さま。どうかしたのでございますか?」

 相変わらず尊大な態度の玉兔に腹を立てた雄元は『ほっとけ』と敬健の顎をしゃくったが、玉兔が自ら話したがることなど、初めてのことなので、何を言い出すのか好奇心もあって敬健は下手に出て訊ねてみた。彼女は態度は大きいが、悪い人ではない。

「お前、相が悪い」

 しかし、出てきたのは相の話で、『不細工だ』と言われているわけではないが、一瞬二人の男は呆気にとられた。

「相が悪いとは敬健に無礼ではないか」

 雄元がいさめたものの、相手が「九つの太陽」である玉兔であるために、李敬健は聞き流すことは出来ない。身を乗り出して尋ねた。

「相が悪いとはどういうことでございますか?」

「知らない。ただ、悪い相をしている。悪いことが起きるのではないの?」

「はぁ……」

 少しは具体的にどのような悪いことが起きるとか、どう悪い相をしているのかぐらい、普通の人相見程度に説明してくれれば親切なものを、投げやりに「悪いことがおきるのではないの?」と言われてもこちらが困るばかりだ。

「どうしたら災いをふせげるのでしょうか」

「そんなことを私が知ってたら、寧は滅びなかったでしょうが」

「それは一理あるなぁ、玉兔」

「将軍、感心するところではございません……」

 雄元は他人事で笑ったが、敬健からしてみれば真剣な話題だ。玉兔公主のやる気のない予言に振り回されるのはまっぴらごめんだが、何か方法はあるはずだ。

「なんとかして下さい」

「知らない」

「知らないとはなんですか、公主さま! あなたが言い出したことでしょう!」

「雄元、この男を黙らせて」

 玉兔が将軍の名を呼んだ。彼女は無意識だったにしろ、名を覚えてくれていたのかと、将軍は目を丸め、そして口の端を上げて機嫌をよくした。

「玉兔、これほど敬健が言っているんだ。何か方法とかまじないとかはないのか?」

 軍師の割に意外に迷信深い敬健は、こくりこくりと頷いて玉兎を見る。

 玉兔は「まじない?」と少し考え込んだ。

「まじないではないけど……」

「なんだ? 方法があったのか?」

「人間に使ったことはない」

 聞けば、宝殿やら穀庫を火などから守る『封』と呼ばれる術があるのだという。

「それをやってやれ」

「だから人にやったことはない」

「試してみればいい」

 敬健にしてみればそんな恐ろしげなものを試されたくはないが、他に方法がないのなら仕方ない。玉兔に『目を瞑れ』と言われるままに、彼はゆっくりと瞳を閉じた。

「玉兔。それは『術』なのか……」

 雄元は、まじまじと軍師の顔を見下ろした。それもかなりあきれ顔でだ。

「消えるまでは大丈夫ではないの? 消えたら知らない」

 李敬健の額には、恐ろしく下手な字で『封』と赤い紅で書かれていた。銅鏡を手渡された李敬健も「まさかこれがまじないではないでしょうね」と、玉兎と雄元を交互に見る。

「あの、公主さま……」

「家にこもって出かけなければいい。あとは私は知らないから」

 玉兔は『私は知らない』を繰り返し言った。予言に対する責任を負うのを恐れるような言い方だった。たぶん、彼女は数多くの予知を寧の国でし、その多くが現実となって現れた。

 寧の滅亡もそうだ。

 起きることを知っていても防げないこともある。しかし、人は彼女に救いを求め、すがったはずだ。

 雄元も李敬健と同じことを気付いたのだろう、『不思議な力とはややこしいものだな』と大人になりきれない子供の玉兔を哀れみと愛しさをもって見ていた。が、そんな思いもつかの間、

「暑い、扇いで」

と団扇(だんせん)を雄元に投げると、自分は寝台に気怠そうに玉兔が横になってしまったから、一瞬でもそんな風に思ったことを二人の男は後悔して拳を上げかけた。

「興は寧より南の国ですから、暑さはことのほか厳しいのです」

 一応、厄よけをしてもらった敬健が『まあ、まあ、将軍。私がいたしましょう』と将軍に代わって風を送ってやって、これはまだ興の夏の始まりにすぎず、これからどんどんと暑くなっていくのだと説明した。すると、『じゃ、どうせ幽閉するなら地下牢にして』などと言う。

「心配するな、お前を今から王のいる夏の離宮に連れて行ってやる。少しはここより涼しいだろう」

「涼しいならどこでももういい」

「離宮は美しい場所です。気にいるはずですよ」

 李敬健は、せめてもの礼にと離宮に連れて行かれる玉兔を見送りに出た。しかしそんな彼の肩を、袍に着替えた雄元が笑いをこらえながら叩く。

「敬健」

「はい」

「お前、水分は控えた方がいい。もう半分『封』が消えている。汗をかかないようにしないと午後には全部消えているぞ」

 からからと乾いた声で雄元は笑った。しかし、敬健は青くなった。高く晴れ渡る空よりも青く。

「お待ちくださいっ、将軍、私も離宮にご一緒します!」

「この屋敷から出ない方がいいわ」

「好きなだけ滞在してくれて構わないよ、敬健」

『じゃ』と無情にも一人残されてしまった、李敬健――。

 虚しく手を振る李敬建を、馬車の中の二人は腹を抱えて笑っていたのが聞こえた。


 ひとしきり笑って、玉兎は黙った。

 仇の陶雄元と笑うのは馬鹿らしいし、なぜ李敬建にあのような忠告をしてしまったかと思うと自分の人の良さを呪いたくなる。あの男は敵なのに。

「暑い」

 玉兎は間を持たせるために南へと下る馬車の中であまりの暑さに呟いて見せた。事実、今日の空気の湿り具合は尋常ではない。雄元も襟元を少し緩めた。

「あまり暑い暑いと言うな。こっちまで暑くなる」

「暑いものは暑い。死にそう」

「寧の衣など着るからだ。着るものなんてものは、理にかなうように作られているんだよ。意地など張らずに興の衣を着れば、風通しも良かっただろうに。なにしろ、興国は寧国より南方にあるのだからな」

 雄元が、馬車の入り口に垂れる帳ををたくし上げ外の空気を入れてくれたが、風の入りは気持ち程度のしのぎにすぎなかった。差し込む日差しが玉兔に向かって伸びた。すると白い肌が日に負け赤くなる。

 玉兎は雄元を見た。

 すっかり日焼けをして、武人らしいところが漢らしかった。暑いとは口で言うが、暑そうには見えず、優雅に剣の代わりに団扇を持って薄物の衣を着こなしているところを見ると、文人らしくもある。絽陽の女たちが黙っているとは思えないいい男ぶりだ。しかし、そこまで考えて、玉兎は自分の思考を止めた。なぜ、雄元ごときのことを考える必要がある? 彼女は誇りのために話題を変えた。

「こんなに日がさしたら日照りにならないわけ?」

「なるだろうな」

 言われて雄元も絽陽への道々の荒れ具合を思い出したように遠くを見た。

「例年ならあそこは今頃、蒼い草が生い茂って、風の流れ具合によってはさざ波のように揺れている時期なんだがな」

「心配はしないの?」

「絽陽は他の国の都とは違う。水路が確立されている。余程のことがないかぎり大丈夫だろう」

「そ」

 会話はそれで途切れた。雄元は『大丈夫だ』と言ったが、玉兔には一抹の不安が残り、車の外を見た。既に絽陽の郭外であるらしく田園が続いている。子供達が畝(あぜ)で木の棒を持って遊んでいた。寧からの道のりとは格段にその豊かさが違う。青の色が深く濃い。

 玉兔にとって今回のこの旅が、生まれて初めての旅である。宮殿で育った彼女はこんな田園でさえも見たことがなかった。絽陽に着いた昨日は、疲れと心労で興という国を見ようという気にもなれなかったのが、今日は少しだけ余裕が彼女にもあるのか、その光景を美しいと思った。

 そして二刻ほども馬車に揺られていた後、雄元が馬車の御簾を上げた。

「離宮はもうすぐそこだ」

 雄元が差し示した先にあったもの――それは湖に浮かぶ城だった。玉兎ははっと顔を上げた。

「離宮を人工の湖が囲っているんだ」

「これを人が作ったの?!」

 どう見ても人工的には見えない大きさの湖だ。これを掘らせたということは途方もない労力を費やしたはずだということぐらい世間知らずの玉兔さえ分かる。

「驚いたか」

 驚かないはずはなかった。

 寧にはこんなものはなかった。王の身の回り以外は比較的は簡素で、陶雄元の自邸の方がはるかに贅が尽くされているぐらいだ。国の大きさの違いがここまでも富を変えるのか――。

「寧ほど国としての歴史はないが、興は寧とちがって実利主義だ。王が望めば、湖だろうが海だろうが造る。それが興であり、俺の国だ」

「傲慢ね」

 ありったけの誇りをかき集めて玉兎は言った。

「降りろ。ここからは舟で行く」

 手を差し出されて、彼女が車から降ろされたところは舟着き場で、兵士たちが侵入を規制している。離宮に上がるのを許される者はそこから舟に乗り、下がるときはまたこちら側から舟を呼び戻す、そういう仕組みのようだった。

 白い蓮の花をかき分けて玉兎たちを乗せた舟は岸を離れた。

 透き通る水。

 その中に小魚がさらりと泳いでは逃げていく。片袖を落とさないようにたくし上げると、玉兔は指を水に浸した。冷たい。舟が進む速さに従って、小さな波紋が三角を作った。

 映せば鏡のように映る水面。空気までもが外とは違う。そして玉兔はここの静寂はこの池と同じように人口的のような気がした。それが何なのか、彼女には分からなかった。あえて言うならば、巨大な『封』ではないだろうか。外のものを拒む神聖な世界、それがこの離宮なのである。

 舟はやがて船着き場に舫い綱を結ばれ、兵士によって泊められた。陶雄元は軽々と舟を下り玉兎に手を貸したが、彼女はその気性ゆえに無視して長い衣を引きずったまま地へと飛んだ。

「おっと……」

 だが、やはり無理があった。雄元が抱えるようにしてくれたおかげでなんとか舟から下りられた玉兎はその恥ずかしさから「離して」と雄元の胸を強く押しのけた。護衛の兵が将軍への無礼に驚いた様子だったが、そんなことは関係ない、ふいっと顔を背けると、案内も待たずにさっさと城壁の横にある階段を上る。

 階段の最後の一段を上りきるとあたりが明るくなった。そして二人をこの水の離宮に迎えたのは二頭の対の麒麟(きりん)の石像だった。遥か西方に存在するという幻の生き物は、鋭い爪と牙、鱗のある脚を持つ。それが外部の者を拒むように門の前にいた。

「これは角端(かくたん)という黒い麒麟だ。一方が、麒(き)。もう一方が麟(りん)」

 雄元が説明してくれたが玉兔にはよく分からなかった。どうやら雄雌の対だろうとは見当がついたが、それ以上訊ねようとは思わなかった。それというのも、階段を上り終わると、そこには左右に玄武、獅子、鳳凰、龍など珍獣の対が、漆黒の柱がそびえる正殿まで無数に並べられていたからだった。それも一頭、一頭が大柄の雄元の二倍を上回る大きさで、その威圧感はただならぬものがあった。

 何かが普通とは異なっていた。玉兔は顔を袖に隠しながら雄元の後ろを歩き、それが何か考えた。天を仰げば、白い雲が入道となって、夏を告げている。しかし、ここに来るまでの間、うるさいほどだった蝉の声も消え失せて、全ての音が石畳に吸い込まれる。静けさが涼しさを呼んで、厳かな空気を玉兔の肩に乗せた。

「人がいない……」

 人の気配が全くないことに気付いたとき、玉兔は思わず立ち止まった。ここには護衛の兵士もせわしなく走り回る官吏も、着飾った宮女もいない。ただ広い庭に聖獣の石像が並んでいるだけなのだ。時折、鮮やかな鳥がケタケタと声を上げて空を横切っていく以外は生きているものが不自然なまでに排除されている。背中に冷たさを感じるのは、汗のせいばかりではないだろう。

「どうしたのだ、玉兔」

 女ものの靴の先を飾る鈴の音が止まったことに、雄元が不審に思ったのか振り向いた。

「こわい」

「怖い? お前が?」

 父母を目の前で切り殺されたときでさえ、恐れなかった玉兔が震える。「九つの太陽」という巫女の力があるがゆえの恐怖に包まれた。

「視えない。何も。気持ちが悪いの」

 太陽の影が短かった。真上に天があるのだ。石の獅子がいっそう大きな口を開けて牙を晒しているように玉兔には見えた。

「何もとって食われることはない」

 立ちすくむ玉兔に雄元は手を差しのべたが、むろんそれを素直にとる彼女はなく、掌を袖の中で強く握りしめて石像と同じように動かなかった。

「あまり意地を張るな」

 しかし雄元に玉兔の曖昧な恐れなど分かろうはずもなく、ただ乱暴に手首を掴んで無理矢理石畳を歩かせた。それは、彼なりの優しさであり、少し不器用な親しみでもあっただろう。

 しかし幾千もの人の血が染み込んでいる将軍の手は、この場にもっとも相応しくない穢れを含んでいた。その手が、静けさを穢して空間にゆがみを作っているのだ。

「放して」

「どうした?」

「ここにいたらいけない。お前はここにいてはいけないわ!」

 すべてが白く、それが確実に雄元を巻き込んでゆく――。そういう感覚のみが、触れている手から伝わっていた。言葉で雄元に説明出来ない。そもそもどうしてなのか、玉兔にも分からない。

「飲み込まれてしまう」

「玉兔?」

「お前は飲み込まれてしまうわ!」

 雄元は突然の玉兔の取り乱しように眉を寄せた。


「心配ないよ、公主」

 そこに静かな声がした。

 竹林を過ぎ去るような風が吹き、玉兔はそれを空耳かと思った。

「金烏(きんう)公子」

 しかし雄元が、石像の陰に立っていた影に拝手したことで、初めてそれが風の音ではなかったことに気づいた。薄柳色の上衣を着、その襟を金糸の獣文で飾った男が一人、玉兔に近づき、さきほどまで雄元が握っていた手を取った。

「公主がここに来るのをずっと私は待っていた」

 光が玉兔の視界を奪って男の顔が一瞬見えなかった。

「私はここの主。隷(れい)」

 隷とは不思議な諱だ。

 従属を表す「隷」の文字は王の子という高貴な生まれには不釣り合いである。なんらかの理由があって、侮蔑の意味で与えられた名だろう。ただ、当の本人は『隷』と自称するのを憚らないらしく、

「隷と呼んでくれて構わないよ、公主」などと言う。

 玉兔は雄元に促されても跪かずに、目の前の不思議な名を持つ若い男を見つめた。歳は十八前後で、髪は銀髪とも言える霜のおりた髪。たとえ、農夫の着るような貧しい麻衣を着ていたとしても、公子であると隠せないだろう品格ある面(おもて)は、涼やかで女人のように美しい。

「大王にお会いしたいのだろう? 私が案内しよう」

 玉兎は、今まであったことのない質の男だと思った。

 虫も殺したことのないような指を持ち、柔らかに頬を緩ましながら、瞳は冷えきっている。それは、人を斬り殺すことを繰り返しながら、その瞳にはどこか温かみのある陶雄元とは対象的だった。きっとこの男は一人の人間も殺さない代わりに、万という民を見殺しにできる、そう玉兔が思った瞬間、金烏公子と目が合った。

「玉兔公主とお呼びしても構わないかな?」

「……」

「諱(いみな)か、字(あざな)を教えてくれるなら、それでもかまわないけれど」 玉兔とは尊称であり、名ではない。玉兔邑(ゆう)を化粧料として寧公より賜っていたことからこの公主を玉兔公主と人は呼ぶ。というのも、寧の国では王の子や娘は、諱を死にゆく人に名付けてもらう習わしがあった。名を教える合うのは、夫婦あるいは親子、または忠実を誓った主人のみだ。

 名前を知られるということは、即ち呪縛が人と人を繋ぎ、そして支配すると信じられており、それは興でも同じことだろうが、寧の人はこの迷信をより頑なに信じていた。特に玉兎は九つの太陽。神祗に関わる人だから、なおさらだ。

「玉兔で構わないわ」

 彼女はだから名を告げなかった。字にしろ諱にしろ、隷などという名を名乗れる男をそもそも信じられなかった。

「金烏と玉兔とは似合いだと思わないか、将軍」

 玉兔が見る限り、雄元は隷に対して畏怖も蔑みもないが、かなりの敬意は表している。『公子も道をあける』とうそぶいたのは嘘だったのか――。象牙の箸で朝餉を啜る男だ。それほど大ほらではないはず。

 それならと、玉兔は思った。この金烏公子が特別なのだ。

「階段の上だ。少し段があるが、公主には我慢していただこう。離宮内で輿を使えるのは大王だけだから」

 雄元が公子に手を貸した。少し隷の足に鈍さが見えた。

「あなた、何を……」

 その足に金色のものを玉兔は見た。鎖のような何かを――。

「ああ、これか?」

 隷は玉兔の驚きに事も無げに裾をめくって足下を晒してみせた。

「金の、足枷?」

 黄金の鎖が隷の足の自由を奪っていた。足枷と呼ぶには贅沢すぎる金細工に緑柱石やら琥珀などが飾られている。

「どうして」

「さあ、どうしてだろう? 将軍?」

「恐れながら、金烏公子の御身をこの興国にとどめて頂くためかと」

「だ、そうだ、公主」

 玉兔にはそんな説明では何も分からなかった。答えを求めて雄元に視線を向けたが、彼は目を伏せたままそれ以上は口を開かない。

「玉兔公主、見せてくれる?」

「え? なにを?」

「この夏の日差しの下で。あなたの日の印を」

『どうしてそのことを?』と訊ねる言葉を玉兔は飲んだ。雄元が知らせたのか。いや、違う。この男は『知っているんだ』五感が逆立って玉兔の最後の一感までもが震えた。

「怖がる事はない。非力な寧の太陽よ。私はずっとあなたを待っていたのだから」

 衣の袖に隠れたままであった左手の掌が、玉兔の鎖骨に触れた。

 日の熱が一瞬だけ強くなったように玉兔は感じた。

 目眩が視界を奪い、誰かの腕の中に倒れ込んだ。そして地べたに寝かせられるまでのひと時の間に、彼女は自分の未来を見た気がした。

 だが幻像は瞬く間に消え去り、気を取り直した時にはそんな気がした事さえも覚えてもいなかった。

「驚かせてしまったかな」

 顔を上げるとそこに公子がいた。雄元の気配はない。見回せば、外ではなく薄暗い部屋の中で、白い日差しが部屋を横切るように伸びていた。

「…………」

 隷は、そっと左手の腕を捲し上げて見せた。

「日……」

「そう、私もあなたと同じ落ちてしまった太陽の一つ、『九つの太陽』」

 自分以外の者が日の印を持っているのを玉兔は初めて見た。怖々とそれを指先で熱湯の温度を確認するかのごとく触れてみたが、今度は何も起こらない。

「あなたのを見せて欲しい」

 隷の求めに玉兔は何も答えなかった。しかし公子の右手が襟に伸びた。さらされた素肌に玉兔は顔を燃え上がらせ身を固くする。触れる指先の冷たさが、いつの間にか唇となった。

 なぜだろう――。それに気高い彼女が逆らえない。

「左手で触ってみたいが、またあなたを驚かせてもいけないから」

 そう言うと、そっと隷は玉兎から離れる。

「陶将軍」

「はい」

 玉兔は雄元の声を簾の向こういて始終見られていた事に気がついた。なぜか急に焦った。

「将軍、公主の印のこと知っているものは何人いるのか?」

「湯殿の世話をした侍女が一人」

「そうか」

 隷はそれ以上何も命じも尋ねもしない。しかし、雄元はあの年老いた侍女を殺すだろう。それがこの金烏公子の汚さなさだと玉兔は思った。

「誰か私の世話をする必要があるからその者を連れて来て」

 侍女に情けをかけるほど、玉兔は慈悲深い性格でもなかった。だが、自分の存在が老女の生死を分けるなら、あまり後味の良いことでもなく、雄元も罪のない侍女を殺すのは忍びないだろう。

「だめなの? 髪を結うのがうまかったのだけど?」

 無邪気を装って、玉兔は隷に訊ねた。隷の残酷さが彼女には向けられないのをその年頃の女なら誰しもが持つ特有の鋭敏さで嗅ぎ取っていたからだ。

 雄元が窺うような視線を公子に向ける。

「構わない、玉兔公主が望むなら」

 隷の言葉に雄元の瞳が地に拝跪した。国に忠実な将軍。必要とあれば、百万の民を殺し、王の名をもって隣国を滅ぼす。ただ、彼が躊躇う命がもう一つ。隷に訊ねられても答えなかった名。それは軍師、李敬健――。彼もまた玉兎が「九つの太陽」だと知っている。

 玉兔は、彼の額に視た受難とはきっとこの事だと、ようやく合点がいった。隷はすべてを知っている。遅かれ早かれ刺客が絽陽に飛ぶ。

 彼を助けるすべを玉兔は知らなかった。


 興国では、天は円く地は方形であると信じられている。それを天円地方と呼び、金烏宮はいわば、その思想を図にしたような離宮であるといえた。階段を上れば決まって九段かその倍数で、四角い宮殿と塀が建て並ぶ中央に円い天壇が厳かにそびえていた。

 玉兔は雄元と謁見を待ちながら、窓の外を見上げた。夏の白い雲がゆっくりと進む空と深黒の柱が一つの枠の中に収まっている。

「公子は日を視る日視や骨を焼いて国事をトう」

 玉兔の背になんともなしに雄元が呟いた。

「では興の本当の王はあの男なのね」

 彼女は髪を揺らして振り向くと、雄元は驚いたように否定した。

「それは違う。戦にしろ、何にしろ、政は常に三公九卿によって協議され、王の決断をもって実行される」

「でもそれを覆せるのがあの男ではない? それが神意を伝える者の力というものよ。李敬健は殺されるわ。たとえお前だって防げない」

「ここに幽閉されているただの公子だ。そんな力はない」

「ならどうして、王はそんな公子のいるこの奇妙な離宮に来る必要があるの? 何を卜って欲しいわけ? ここはとても奇妙。まるで天に近いみたいに空気が澄んでいる。お前みたいな人はきっとここにいない方がいい。いつか自分の意志では動けなくなる」

「お前に何が分かるって言うんだ」

「分かるわ。私だって国を治めてきた人間の一人よ。あまり侮らないで」

 雄元が声をひそめた。

「王がここにいるのは、実のところ、次の王を誰にするのか決めかねているからだと思う」

「なるほどね」

 中央の利害とは無縁なこの金烏宮と公子隷はその決定に『神意』という絶対的権威をもって生臭い絽陽の争いの審判をするというわけだ。

「お前は、なにを考えているわけ?」

「何も」

「うそ。お前がここに私を連れて来た本当の理由はなに?」

 玉兔は疑うような視線を向けた。強い光が暗闇の中で瞬いた。

「王は病だ。ここには療養にいらしている」

「ふん。言いたくないならいい。あの公子に聞くからかまわないわ」

 玉兔は機嫌を悪くして肘掛けのある椅子に腰掛けた。

 彼女は機嫌だけでなく気分も悪かった。気丈に振る舞ってこそいるが、連れてこられた時同様、ここの空気が体に合わず、居住まいを正すふりをして、袖で脚の震えを隠す。

「侍女のこと悪かったな。あれは俺が子供の頃から仕えている」

 ふいに、雄元が侍女のことを口にした。玉兔はまた公主らしい鼻先を上げた。

「お前に礼を言われる筋合いなどないわ。私はただ身の回りの世話をする女が必要だっただけ。ここには人がいないから」

「人ならいる。ただ正中する時刻は視日の関係で皆外に出るのを許されないだけだ」

「あ、そ」

 玉兔は子供のように指を噛んだ。馬などに乗って長旅をしたせいで、短くなってしまった爪。いらだちが水墨画のように彼女の心をにじませた。公主である自分が農婦のような手をしているのは最悪だ。どうにかしなければ。

「侍女に指甲套を持たせて頂戴」

 指甲套とは、本来長い爪を守るための鼈甲や金銀で出来た指飾りである。この見苦しい爪を隠すのには最適な装飾品だと言えた。侍女の命を一つ助けてやったのだから、それぐらい当然だと玉兔は思った。雄元は腕組みをしたまま何も答えなかった。

「暑い」

「玉兔、暑いと言うなと言っただろう」

「日が動かない。だから暑いの」

「動かないわけがない」

「動いていないものは動いていない」

 玉兎が襟を緩めた。


6                    

 ――様子がおかしい。

 そう雄元が気づいたのは、玉兎が紗の衫の片袖を脱いだ時だった。付き合いは短いとはいえ、玉兎とは長い旅を共にした。雄元も玉兎の行動や体の動きの癖ぐらい知っている。彼女は口は悪いが、非常に古風な女で、人前で肌を見せたりしない。それが先ほどまでは普通に話していたというのに、急に白い膚と日の印を雄元の前に恥じらいもなく、突然さらし始め、手のひらをゆっくりと胸元で合わせた。

「玉兎――」

 雄元の声は玉兎には届かず、彼女は手を右下に流し舞の型をとった。同時に、地を踏んだ靴の鈴が空を切る。美しいかんばせに感情は消え失せて、絹の披帛(ショール)だけが彼女の代わりに微笑んだ。

 それは妓楼などで見る舞とは違う。

 媚びる唇も色もない。

 神事が目の前で行われているのだ。

『巫女の舞』だと雄元は思ったが、そもそも彼女を巫女と呼んでいいのかは分からなかった。九つの太陽と言われる玉兔は天から射落とされた者。天人の舞と呼ぶべきか――。

 そこに背後で衣擦れがした。

 王だった。

 脇を支えていた宦官を下がらせると、王はその場に跪いた。雄元も慌ててそれにならう。一人、王の後ろにいた公子隷のみが立ったまま玉兔の舞を見つめていた。どちらも白玉(はくぎょく)のように白い顔だ。頭を下げ、玉兔の刻む足の音だけを聞きながら、雄元は玉兔を盗み見て思った。王さえも跪く彼女の舞。人間としての好奇心であり、また神のたぐいを信じない彼らしい欲求でもあった。

 視線だけを少し持ち上げて、雄元は玉兔を見た。一瞬だけ、瞳は玉兔のそれと合わさったように思ったが、その視線は雲が掛かったように色を失っており、かなた遠く視ていて雄元を映してはくれない。

「お尋ねいたします」

 王は白く血管の浮き出た手で拝手して神意を問うた。舞がそれに応えて止まり、雄元らの前にこの異国の舞い姫は立った。

「尋ねるがいい」

「興は宛国を攻めるべきでしょうか」

「吉」

「西夷を討伐すべきしょうか」

「凶」

「王の座を長子に譲るべきでしょうか、それとも末子に譲るべきでしょうか」

 その問いに玉兔は答えなかった。代わりに公子隷が彼女に近づき、左手をその額にかざした。雄元が施した月の花鈿が消され、『公主は疲れているのです』と王に告げた。そして軽々と、彼女の細い身体を抱き上げた。玉兔は気を失っていた。

「休ませてやりましょう」

 王は明らかな落胆の色を顔に表した。

 玉兔に神意を訊ねたということは、つまり隷はまだ継嗣を誰にすべきか占っていないということになる。 長子の公子英(えい)は雄元の従兄弟にあたり、陶家としては彼を太子にと願っているので、雄元は末子の公子志旦に神託が出なかった事に胸を撫で下ろした。 宦官の手を借りながら立ち上がった王がそんな雄元に思い出したように声をかけた。

「近う」

 黄金の玉座に身を沈め、皺だらけの手を袖からだして肘掛けに置いた王は、寧国での彼の勝利を誉め讃え、剣を下賜した。

 そして近習者たちを指で下がるように命じると、少しだけ苦しそうに身じろいだ。顔色は芳しくない。お年を召されたと玉顔に雄元は思った。

「寧より宝を持ち帰って来てくれたこと大儀であった。老いると、何よりも美しいものを好む」

「恐れ入ります」

「妬ましいほどに美しいとは思わぬか」

 王の口端は醜く歪んでいた。雄元は思わず、唾を飲んで目線を王の襟合わせより下に落とした。

「雄元。若さとは愚かで、そして美しい。お前もいつか朕の気持ちを理解する時が来よう」

「御意……」

「隷にどうしたら不老不死になれるのか問うてみた。あれは『王は欲深過ぎる』と言って笑った。どういうことだろう? 不老不死になるには寡(わし)は欲深かすぎるという意味なのか、それとも、この上、不老不死を欲するなどというのは欲深いということなのだろうか」

 雄元は返答に窮した。だが、王は自嘲気味に笑っただけだった。その笑いが咳を呼び、袖を赤く染めた。

「太医を呼んでまいります」

「かまわぬ。どうせ永くはない」

 血の気のない顔を上げ、王は『ところで』と宛国攻略を口にした。瞳だけが異様に飛び出して憑かれたように拳を握っている。この老人は自分の死が近いことを知りながら、今もって国を大きくしようとしているのだ。狂気の沙汰だ。それこそ「欲深すぎる」のではないか。不老不死にはなれまい。

「恐れながら、西夷が国境を越えて我が軍と小競り合いをしております。西は興も含め水不足が続いておりますゆえ、西夷(せいい)もわざわざ盗賊まがいのことをしているのです。その討伐は大夫や卿らも検討すべき優先事項かと存じます」

「西夷のことは聞いている。だが、神託にも出たように凶である。今は時ではない」

 雄元は神託の一言で進言を退けられ、心の中で舌打ちした。宛国は南東の小国。攻めれば落とせないことはなく、かと言って今現在、脅威になっているわけでもない。比べて西夷は死活問題ではないか。

 しかも寧を滅ぼしたばかりで兵も疲れている。

 それを押して軍を動かすというなら、雄元は西夷の侵入を止める方を選びたい。

 ましてや、王の健康が優れない時に、いたずらに兵を動かして、万一、長子である英と、末子の公子志旦の間で後継者争いなどが起こり内乱に発展すれば、大変なことになる。慎重に慎重を重ねて当然の時期だった。

「寧を滅ぼしてまだほどないのです。しばしのご猶予を」

「それほど待ってはいられぬ。朕の命のあるうちに済ませてしまいたい」

「今年の夏は雨が少なく、飢えて死ぬ者が秋には出てくるやもしれません」

「うむ……」

 王は苦虫を潰したように白髭に触れた。

「それより今は太子を決めよと言いたいのだろう」

「しかし」と王は付け加えた。

 続きを聞かなくとも、雄元には王の言いたい事は分かった。陶妃の産んだ公子英は身内である雄元から見ても凡庸な男だ。人と争うことを好まず、学が出来るわけでも、武に通じているわけでもない。

 そんな男を太子にするよりは、未だ若くとも、公子志旦は英邁であり、王の気質を生き写したような人物だ。

 ただ、摘出の調子を差し置いて末子がとなれば、他の公子たちも黙ってはいない。王の寵愛を頼みにしただけの立太子は危険であるというのが、私欲を差し引いた雄元の意見だった。

「恐れながら――」

「そなたの言いたい事は分かっている」

 王の続けようとした言葉を遮った雄元に、王もまた言葉をつがせなかった。

 ――王はここで志旦さまに神託がくだるのを待っていられるのだ。

 隷は愚かではない。

 神託が出ないのか、それとも隷が出さないのかは分からないが、どちらの公子に天命を下したとしても、王に恨まれるか、あるいは陶家に恨まれるかのどちらかであることを公子隷は十分承知しているのだろう。

 玉兔にそのあたりの機転が利くかは怪しかった。

「宛を攻めるのはもう少し待とう。飢饉に備えよと丞相に伝えるように」

「かしこまりました」

 王は若き将軍との会話に疲れたように眉間に指を置いた。

「年には敵わぬな。あと五十若ければ、寧の公主の生気を吸って生きながらえようとも思うたかもしれぬのに」

『下がれ』と言外に王は言った。下賜された剣を頭上に掲げて雄元は、室外へと出た。それと同時に、激しい咳が聞こえた。雄元は王の最期の望みであるかもしれない宛への出兵を断ったことを心の隅で悔いた。

「将軍、絽陽にお帰りになるのか」

 部屋を出たところで、玉兎を置いて戻ってきた公子隷と出会った。

「はい。日が落ちる前に」

「王の兵を借りて帰るといい。夜になると山賊が出るらしい」

「山賊? でございますか?」

 隷は雄元に優雅な微笑みを唇にだけ浮かべて見せた。王直轄の離宮の辺りに賊が出るわけがなかった。考えられるなら、公子志旦周辺の者が自分の命を狙っているに違いない。

「それはそういう卜兆が俺に出ているということしょうか」

「そうかもしれないね」

 王が妬ましいと言う若さとはこの囚われの公子が持つそれではないだろうか。艶やかな膚は女のそれと見誤るほどで、感情に乏しい巫覡らしい顔は、一見、優しげで優雅である。

「寧の公主のことどうぞよろしくお願いいたします」

「ああ、もちろんだ。それにしても、よく見つけて来てくれた。あんなに若くそれも女の太陽を見たのは初めてのことだよ」

「金烏公子。やはり女は珍しいのでしょうか」

「少なくとも私は初めて見たし、書物などでもそういう記載はない」

「さようでございますか」

 地上に九人落とされたする天帝の子。一国に一人出るのも数百年に一度とも言われるほど珍しいことなのに、女ともなれば他国にさえいない。ここには隷もいることだし、つがいにするのにちょうどいい。きっと玉兎は王から隷の手に渡るのだろう。そうと思うと、雄元の胸がなぜか刺されたように痛くなった。

「王のご威徳の賜物でしょう」

 雄元は隷に拝手した。

 隷は金の足枷を鳴らしてそれに答えると、背を向け、沈み始めた西日に影を引きずった。

 出来る事であるなら雄元は、玉兔にもう一度会っていきたかった。しかしそんな自分を笑った。質とした異国の貴人は多いが、未だかつて興味を持った人間はいなかった。なのになぜ? 雄元は自嘲する。

『やはりただの女にしておくべきだったのかもしれない』

 神秘を失った玉兔が、ただの女として自邸の奥深くに住まうことを男として想像するのは悪くない。神の意を視えなくなった女なら、少しは鼻っ柱も強くはなくなるだろう。だが、そんな空想も、彼女が『李敬健は殺されるわ。たとえお前だって防げない』と言ったことを思い出して現実に引き戻された。

 陶家の屋敷から一歩も出ずにいてくれれば良いが、公子志旦のこともある。囚われ人でしかない隷には無断で動かせる人などないはずだが、つかみ所のない巫覡のことだ。どのような力を使ってくるのか、武人である雄元には分からなかった。

「絽陽に帰る。腕の良い者を三十人ほど借りたい」

 近衛の一人に声をかけ、雄元は手綱をとると李敬健の待つ絽陽へと急いだ。


 翌日彼女は目覚めるまで自分が興王の前で舞った事も神託を下したことも覚えていなかった。宦官が王の下賜品を持って彼女の部屋を訪れたことで、それを初めて知った。誰かに自分は操られていたのだ。

 ――やられたわ。

 あの男以外に考えられない。もちろん、金烏公子こと隷だ。

 蛇のような目を持った興の巫覡は九つの太陽である。人を操っても操られたことのない玉兎がやすやすとその術にはまったことを考えれば、力の差は歴然としている。「負け」という言葉が一番嫌いな公主は地団駄を踏んだ。

「大王が公主さまに身につけられますようにと――」

 使者の宦官は恭しく金の首飾りを玉兔に捧げた。人差し指ほどの幅があるそれは首飾りと呼ぶよりも、犬猫に与える首輪と呼ぶ方が正しい。

「こんなもの、いらないわ」

 隷属の証しなどと容易いものではないはずだ。何か呪が込められているに決まっている。玉兔は背を向けた。それをつければ、興国のためにしたくもない神託をしなければならなくなるかもしれない。絶対にごめんだ。

「我がままは許されません」

 醜い宦官たちは、数人がかり彼女に力ずくで首輪をつけようとした。髪を引っ張り、玉兎の小さな頭を床に押し付ける。こんなこんな辱めを受けるぐらいならあの燃え上がる寧の宮殿で自決すればよかった。玉兎はそう思うと必死に抵抗した。

「乱暴はよくない」

 しかし、その時、凛とする声とともに空気が凍り付き、玉兔の瞳に金の足枷が映った。

「金烏公子……」

 床から仰ぎ見ると隷は昨日と違って、白の飾り気のない衣で、公子というよりは卜人といった風の装いだった。

「離してっ』

 隙をつくった宦官たちの手を玉兔は振り払い、隷はそんな彼女に上辺だけの笑みを浮かべると、転がっていた金の首飾りを拾い上げた。

「逃げられないのはあなたがよく分かってるのではないか」

「そんな趣味の悪いものをつけるぐらいなら、死んだ方がましだわ!」

 立ち上がった玉兔は、誰も信用してはいないのだと裾の汚れを払うと背筋を伸ばしてツンとあごを上げる。抜け落ちた髪の毛がはらはらと大量に舞い落ちた。

「少し外に出よう」

 隷はそんな公主の肩に手を置いて誘った。

「わたしはどこにも行きたいくない」

「まだそれほど暑くもない。眺めの良い所に案内しよう」

 玉兔は、踵を返して外に出た隷の後を仕方なしについて行ったが、宦官たちは何かを恐れるようにそれに従ってはこなかった。

「昨日はどういうつもり?」

「どういうつもりと言うと?」

「わたしを操ったことよ」

 二人だけになると玉兔は切り出した。石畳は、まだ夜の闇を宿し冷たいが、これが午後になるころには燃えるように熱くなる。そうなれば、文句をいう元気も玉兔からはなくなるから、今、いわなければ損だ。玉兎は顔をこわばらせた。

「操ったというほどでもない」

「操ったわ!」

「王はお喜びだった」

「そういう問題ではないでしょ」

「私はあなたの命を助けてやったのだよ」

 隷の長い白い髪が振り向いて揺れた。

「命を助けたってどういうこと? それにあなたに助けてくれなんて頼んでいないし、ここにいるぐらいなら死んだ方がまし」

「可愛いね、公主は」

 見た限り、二、三、歳が上ぐらいしか違わないのに、隷の視線は酷く大人びている。玉兔の言葉を世間知らずの公主の我がままにしか思っていないような様子だ。

「手を貸してくれるか?」

 玉兔が諾とも否とも言わぬうちに、隷は彼女の手を掴んだ。金の足枷のまま階段を上るつもりらしい。城壁を見上げると、そのてっぺんに白鷺が片足で器用に立って、彼方、絽陽の方を見下ろしていた。

「玉兔公主は、昔、興が貂国(ちょうこく)を滅ぼした時ことを知っているか? その時に、恐ろしく歳をとった九つの太陽が、ここに連れてこられたのだよ」

 階段を半分も上らぬうちに玉兎は息を切らした。

 一方、隷の息は不思議なほど落ち着いたままで、貂の巫覡の話を始める。老人のような静かな口調で、白髪が風にそよぐ度に焚き染めた香の匂いがした。

 ――貂国? 確か……。

 玉兎の記憶が正しければ、貂が滅んだのは十五年ほど前の事で、玉兔がまだ赤子の頃のことだ。昔話と言うにはいささか新しいが、石の階段を一歩一歩と上っていくには、そんなゆっくりとした口ぶりが丁度いい。

「歳は百二十三歳といい、地に這うほどの長い髪を持っていた」

「その人もここに捕らわれて、惨めに生きたんでしょう」

「残念ながらすぐに死んだ」

「どうして」

「興王は不老不死にこだわっている。九つの太陽の肝(きも)を食べればどんな病も直ると言うので試してみた」

「……」

「こう、生きたまま腹を切ってね」

 隷は人差し指で、玉兔の腹の真ん中を横に線を引いて笑った。『嘘だ』と言う言葉を彼女は飲んで、努めて平静な顔を作る。

「で? 不老不死になれたの?」

「なれるわけがない。そもそも人間が不老不死を願おうなどと愚かなことだからね。王を見ただろう? 今にも死にそうだ」

「じゃ、死に損ね、その貂の九つの太陽」

「ああ。苦しそうに死んでいったよ。腸がしばらく動いていた」

 空が一瞬暗くなった。

 白鷺が翼を広げて頭上を横切っただけのことだ。でも隷の微笑みが石壁にぶつかり、その息が玉兔の耳元に落ちてくると、彼女は急に怖くなって、逃げるように階段を駆け上がった。

 そして最後の一段を踏みしめると、そこは空の上だった。

 晴れ渡りきれぬ霧のせいで離宮自体が浮いているように感じるのだと気付いたのは、玉兔の息が戻った後だ。身を乗り出して地上を見下ろす彼女に隷は、

「美しいだろう」と小さく言った。

 金烏宮を囲う湖が空の青色を映して輝き、興国きっての肥沃な土地と言われる一帯に濃い碧が広がる。

「きれい」

 純真に彼女は答えた。

「玉兔公主には何が視えるのだろうか」

 日は東にあった。風は北東。空気は爽やかで、気は落ち着いていた。

「何も視えないわ」

「視えないことはない」

 玉兔は瞼を瞑った。

「やっぱり何も視えないわ」

 ここのところ玉兔の力は弱まっている。

「落ち着いて視るといい」

「……視えない」

「視えないのではなく、視たくないのではないか?」

 隷の冷たい指先が首に触れた。ゆっくりとその手に力が込められ、息の出来ない玉兔はもがいた。

「視えるだろ?」

 白い隷の髪が玉兔に後ろから覆いかぶさった。滑るように左手が彼女の襟口に忍び込み、鎖骨に触れる。素肌に触れるのは男の手というよりも巫覡の手である。そこには色めいたものは一切なく、儀式的感触のみが肌に伝わる。

「紫色が視える……」

 やっとのことで玉兔がそう告げると、隷の唇が彼女の耳の後ろをかすめた。

「いい子だね、公主」

 自由になった玉兔の首には、隷の手の代わりに興王の金の首輪がはめられていた。

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