第12話 人形たちの心

「私たち人形やぬいぐるみはね。持ち主の子に出会うことが何よりの幸せなの。私たちの望みは、その子が無事に大人になってくれること。それまでに襲い掛かる色々なものから、その子を守ってあげること。それだけが何よりの願いで、一番の幸せ」


「襲い掛かる色々なもの……?」


「ええ。子供って、まだこの世に来て日が浅いでしょう? だから魂がとても弱いのよ。少しのことでも驚いて、傷ついて、命にかかわることもあるの。私たちは、そんな子供たちを守ることが使命。いいえ、使命というよりも、それが喜びなの」


 人形やぬいぐるみは、本来子供のためのおもちゃだ。

 確かに聞いたことがある。遠い昔から人形はヒトガタと呼ばれて、持ち主の身代わりになるものなのだとか。

 強さの象徴である「熊」のぬいぐるみは神の象徴で、その家の子に強さを与えるまじないの意味もあるのだとか。


「私たちの柔らかい身体は、子供の弱い魂を包み込むクッションのようなもの。そして子供の未熟な精神の全てを受け入れてあげるためのもの」


「それじゃ……」


「ええ、そうなの茉莉枝。私は貴女を守りたかった。そして貴女の苦しみを全て引き受けてあげたかったの。だから謝らなくていいの。もう泣かなくていいのよ」


 ああ。それでは。

 花月さんのお茶を飲んで過去に戻った時、母に虐待を受けて泣いている私の横で、転がっていたエレナが私に手を差し伸べていたのは――。


「……お母さんのこと、覚えてる?」

「ええ」

 おずおずと聞いた私に、エレナが眉を寄せて微笑する。

「時々、おうちの中に嵐がやってくることがあったわね。茉莉枝が傷付けられるのを見ている他になかったことも、泣いているのを見ている他になかったことも、とても苦しいことだったわ。だからせめて嵐が去った後、いつも蹲って泣いている貴女を抱き締めてあげたかった」


 やはりそうだったのだ。

 あの時に私に両腕を伸ばして倒れていたエレナは――。


「でもね、茉莉枝。そのことに罪悪感を抱かないで。私は、逆にああして扱われることも構わなかったの」


「どうして……?」


「あれもまた、貴女の精神(こころ)を守る大切なことだから」


 そう言ってエレナは、私を小さな胸に抱き寄せて語って聞かせてくれた。





 可愛い茉莉枝。

 一緒に遊んでいた時はあんなに小さかったのに、こんなに大きくなって、綺麗になって、とても嬉しいわ。

 人間は大人になるまでに沢山のことを経験しなければならないから、きっと茉莉枝も大変だったでしょう。

 でも子供の時だって、家族の間で色々なことが起こるものよね。

 私たち人形やぬいぐるみが一番に心配をするのは、そこなの。


 家族は人間が生まれて最初のコミュニティ。まず最初に出会う小さな社会。

 その次に幼稚園、学校、いよいよ本物の社会。

 コミュニティは年齢を重ねるごとに大きく複雑になっていくものだけれど。


 人にとって一番大切なのは、子供の頃の家族とのかかわり方だと、私たちは誰よりも分かっています。


 私たちが考えることは、いつも持ち主の子供のこと。

 その子が立派に成長して、良い人生を歩んでくれること。

 そのためならいっそ、壊されたって構わないのよ。

 だって、それほど愛しているのだから。



 あの頃の茉莉枝は、両親の仲が険悪になっていることを何も知らないまま、ふとしたことで突然火が付いたように怒り出すお母さんに振り回されていたのよね。

 茉莉枝の心の中が「どうして」と「私は悪い子」でいっぱいになっていくのが、私にはよく分かっていたわ。


 同時に「お母さんを許せない」という気持ちを、一生懸命に押し殺していることもね。

 こんなことをされるのは自分が悪い子だから。そう思い込む方が、お母さんを恨むよりも貴女にとっては良かったのでしょう。

 貴女はとても優しい子だから。


 でも本当は心のどこかで理解していたのよね。


 こんなことをされるほど悪いことはしていないって。

 間違っているのはお母さんの方だって。


 自分はこんなことをされていい存在ではない。

 もっと大切に敬意を持って扱われたい。

 そう思うのは大人も子供も当然の権利だわ。

 

 そうして貴女は自分自身を守るための自尊心と、お母さんを恨みたくない気持ちと、自分に不当なことをする愛すべき人への怒りと、全てが心の中でせめぎ合ってしまったのね。


 大人なら、きっとそういう気持ちもコントロールできたでしょう。

 言葉を多く知っているだけ、自分の中の感情を的確に表現できるから。

 気晴らしに出掛けたり、美味しいものを食べたり、好きなように行動して、自分の機嫌を取ることもできるはずよ。


 でも子供は可哀想に、そういうことはできないものね。

 知っている語彙が少なすぎて、自分の感情が何なのかも分からない。

 行きたい所へも一人では行けない、好きなものも自由に食べられない。

 行動の制限が多過ぎて、自分の機嫌を取るすべがないの。

 身の内が引き裂かれそうに苦しい気持ちがあるのに、どう発散していいか分からない時、身近なものに八つ当たりをするしかなくなってしまうの。


 それを受け止めてあげることも、私たちの使命です。

 この柔らかな身体で、子供たちの言葉にできない悲鳴を受け止めてあげること。

 張り裂けそうな想いを抱えながら悲鳴を上げられない子供は、いつか精神が病んでしまうから。

 一番悪いのは、胸の内に溜めて溜めて、やがて命あるものに理不尽な暴力を向けるようになってしまうこと。

 それだけは、そんなふうに育ってしまうことだけは、絶対に阻止しなければ。

 可愛い持ち主の子の魂が、そんなふうに穢れてしまうのは、あまりに悲しいことだから。



 あの時の茉莉枝は、私を茉莉枝に見立てて、お母さんに投げ付けられた言葉を言って、お母さんと同一化しようとしていたけれど。


 ねぇ茉莉枝。


 貴女は優しいから、お母さんの気持ちを理解しようとしていたのでしょう?

 お母さんになりきることで、あの人がどんな気持ちでいるのか、どんな気持ちで自分を虐待するのか、理解しようとしたのね。

 でも結局、あの時の茉莉枝では大人の心は量りきれなくて、ただお母さんから受けた毒に翻弄されるだけになってしまった。



 全部、分かっていましたよ。

 貴女の怒りが激しければ激しいほど、貴女が受けた傷の深さが分かった。

 私を手酷く扱えば扱うほど、貴女が手酷く扱われた苦しみが分かった。

 私を無視するほど、貴女が無視のつらさを理解してしまったのだと分かった。



 茉莉枝ちゃん。つらいね。悲しいね。

 大丈夫、安心して。私はずっと貴女の味方。

 ずっとずっと、大好きだからね。



 私はそう思いながら、貴女を抱き締めていたの。

 この手は自由に動かせなかったけれど、心で貴女を抱き締めていたの。

 可愛い茉莉枝を苦しめているものは全部、全部、私が受け止めて飲み込んであげたかった。


 それが、私たち人形やぬいぐるみの心の全てです。


 私たちは、持ち主の子が大好き。

 その子の健全な精神を守るためなら、どんなことも愛する心で受け止められるの。



 茉莉枝が大好き。

 茉莉枝は私の、たった一人のお姉ちゃん。

 私の一番大切な宝物。



 その心は、何があろうとも変わることはないのよ。

 永遠に。



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