iteration : D.C.

岡畑暁

プロローグ

【六月二十九日】


 木曜日は中途半端な曜日だと北条ほうじょうめぐるは思っていた。月曜日のようなフレッシュな気持ちも、金曜日のような開放感も無い。

 廻の通う塾は月曜と水曜と土曜に授業がある。そういう意味でも木曜は中途半端だった。翌日の授業も無いから、一週間のうちで最も無気力になってしまう日と言っても過言ではない。そうは言っても、金曜から水曜までの廻が気力溢れる生活をしているかと言えば、そういうわけでもないのだけれど。

 その日は雨が降っていた。梅雨はまだまだ続いていた。去年の梅雨は何月の何日ごろに明けただろうと考えて、思い出せないことに廻は気づく。一年前の記憶は曖昧で色あせていた。たった十五年弱の人生なのに、もう既に思い出せないことの方が多い。

 中学校から家までの帰り道、廻は傘を差し、水溜まりを避けながら歩いていた。雨は激しかったけれど、上空からはわずかに太陽の光も見えていて、この雨が長くは続かないであろうことを予感させた。

 やがて廻は、ある神社の前に辿り着く。その神社は〈螺旋神社〉という名前で、規模としてはあまり大きくはない。こぢんまりとした敷地内に、本殿と、簡素な手水舎と、古びた鳥居に、小さな社務所があるだけだ。本殿の中にはご神体が納められているらしいが、廻は直接それを目にしたことはなかった。本殿の横に掲げられた絵馬が風雨に煽られ揺れている。

 本殿の正面、庇の真下に誰かが座っている。廻は鳥居の前で立ち止まった。

 少女だった。ストレートの黒髪は肩の辺りまで伸びている。上半身は紺色のベストに、下半身は膝丈ほどまであるギンガムチェックのプリーツスカートで覆われていた。スカートに包まれた膝を抱え、その上に文庫本を置き、ぱらり、ぱらりとページを捲っていく。右から左へ、上から下へ、その少女の三白眼が動いていた。読書に夢中になっているからか、屋根に打ち付ける雨音のためか、少女は廻の存在に気づかない。

 廻はその少女のことを知っていた。知りすぎているほどに。物心が付いた時から。彼女の着ている制服は、廻が通う道堂どうどう中学校のものだった。

 賽銭箱の横で本を読んでいる彼女に廻は近づいていく。階段を上がり、目の前までやってきたところで、ようやく彼女は廻の存在に気が付いて顔を上げた。

たまき

 廻は彼女の名前を呼んだ。その少女──二階堂にかいどう環は、両手でしっかりと文庫本を保持したまま、三白眼をわずかに見開き、上目遣いに廻を見上げる。

「雨宿り?」

 と、廻は聞いた。

「うん」

 環は小さく頷いて、再び本へと目を落とす。活字が細かかった。廻の立っている位置からでは、そのタイトルは分からない。

 環の頭や肩がわずかに湿気を帯びていることに廻は気づいた。環の傍らには通学用のリュックが置いてあるだけで、傘の類いは見当たらない。

 廻が持っている傘は、今彼が差している一本限りだった。廻と環は中学生で、あまり体格が大きいわけではないけれど、それでも彼らが一緒に入るには、その傘は小さかった。あるいは数年前、小学生だった頃の二人であれば、一つの傘を二人で使って帰っていたのかもしれない。彼らの家は昔も今も隣り合っているのだから、そうすることは効率的で合理的なことでもあった。けれど、今の廻にとって、それを提案することは何となく憚られた。

 だからと言って、このまま環を置いて一人で帰るのも廻は嫌だった。そうかと言って、環に傘を渡して代わりに自分が雨宿りをするというのも、環にとって嫌だろうと廻は思った。だから廻は傘を閉じて庇の下に入り、環の横に腰掛けることを選んだ。廻と環の間には、人間ひとり分くらいのスペースが空いていた。廻が意識的にそうしたわけではなくて、無意識に空いた空間だった。

 屋根に打ち付ける雨音が近くに聞こえ、水滴が目の前をカーテンのように滴っていった。

 環が無言でページを捲る間、廻もまた無言だった。こうして環と二人きりでいるのは随分と久々な気がした。学校では常に周りに人がいる。飛鳥あすか小清水こしみず早乙女さおとめや。常に何人かのグループでいることが多くて、いざ二人きりになると、何を話したらいいか分からなくなる。ずっと昔、今よりずっと子どもだった頃のことを廻は思い出そうとした。けれど、その記憶も曖昧だった。

 環の読んでいる文庫本の中の文章が目に入ってきた。

「何読んでるの?」

 廻は尋ねた。環は顔をわずかに傾け、目線を廻の方に向けて答える。

「『緋色の研究』」

「前にも読んでなかった?」

 そう言ってから、廻はそれがいつのことだったか思い出そうとする。多分、中学に上がるより前だった。小学校の図書室に、子ども向けに翻訳されたホームズが何冊か置いてあった記憶がある。

「これは翻訳が違うから」

 と、環は言った。

「でも、もう一回読んだ話には違いないだろ。面白いの?」

「面白いものは、何回読んでも面白いよ」

「犯人もトリックも動機も、全部分かってるのに?」

「うん。面白い」

「そういうものか」

 廻は呟いた。彼は環ほどの読書家ではないから、本の虫の考えることは分からなかった。あるいは、環の考えていることは。

 廻もホームズものは何冊か読んだことがあって、その中に『緋色の研究』も含まれていた。廻が読む本は専ら環が面白いと言っていた本だった。もっとも環は自分が好きな本を無理に薦めてくるタイプではなくて、多くの場合は廻の方が自主的に読んでいた。もしかすると、二人の間にあった共通の話題は、多くの場合は物語の世界のことだったのかもしれない。

 廻は口を開く。

「そういう小説の名探偵ってさ、一目見ただけで隠された真実を見抜いたりするだろ。例えばワトソンがアフガニスタン帰りだってことを初対面で看破したり。でも、ああいうのって、実際にはあり得ないって思うんだよな。だって、現実には無数の可能性があるんだから。肌が焼けてるからって、熱帯にいたとは限らない。よく晴れた日に一日中庭で昼寝してたのかもしれない」

「それはそうでしょ」あっさりと、淡々とした口調で環は言った。「小説は作者があらかじめ答えを知っていて、手がかりを散りばめてくれるから。だから探偵も隠された真実を見抜くことが出来る。現実ではそんなの無理だよ」

「だよな」と、僕は言い、そして続ける。「でも……」

「でも?」

「環なら、ちょっと出来そうな気もする」

「そうかな」

「頭いいだろ、環は」

「そんなことないよ」環は謙遜と言うよりも本心からそう告げた。「廻や千晴ちはるの方が、成績だって良いし」

「今はね」

 廻は曖昧に頷いた。確かに定期試験の点数は廻の方が勝っている。けれど、それは廻たちが高校受験のために日夜勉強に励んでいる賜物であって、本質的な賢さとはあまり関係が無いように廻は思っていた。環には、本質を見通す力、物事を順序立てて考える力がある。環が本気になって勉強すればあっという間に廻の成績を追い抜いて、公立のトップ校でも難関私立校でも簡単に合格してしまうだろう。廻には、そんな予感があった。

「そういえば、」と、環は言った。「廻のとこの塾、もうすぐテストなんだってね」

「ああ。飛鳥から聞いたの?」

「うん。クラスが変わるからプレッシャーだって言ってた」

「そう」

 廻は苦笑しながら、羨ましいと思った。素直にプレッシャーを吐露できる人間のことを。

 廻が通っている塾では成績別にクラスが編成される。一番上がS、二番目がAで、B、C、Dと続き、一番下がE。クラスは固定ではなく、数ヶ月おきに行われる編成テストで常に変化する。成績が良ければ上のクラスへ、悪ければ下のクラスへ、どちらでもなければ現状維持。

 廻は二年の春に受けた入塾テストでBクラスになり、一ヶ月後の編成テストでAクラスになった。それ以来、廻はずっと二番手のAクラスを維持し続けている。けれど、最近は周りの成績も上がっているから、今のままの成績では危ないかもしれない。廻は漠然とそんなことを思っている。

 最終目標を志望校に合格することだとするならば、塾のクラス編成のことで一喜一憂するのは倒錯的だ。廻もそのことは頭で分かっている。けれどそれは眼前に見える喫緊の問題で、だからこそ廻の頭をもたげ続けていた。

「大変だね、廻たちは」

 環は他人事のように言った。

「環だってどこかしらの高校は受けるんだろ」

 廻は言った。そうだね、と環は答える。

 思えば、環の卒後の進路について聞いたことはなかったかもしれない。廻はそんなことを思う。

「お前さ、どこの高校行きたいとか、考えてる?」

「それは……」環は一瞬口ごもった。廻は、そのわずかな沈黙に含みがあるような気がしてならなかった。「まだ考え中」

「そっか」

 廻は答えた。そもそも環がどこの高校を志望するにしろ、彼女はその気になれば合格するだろうし、廻が心配するようなことではないと思った。廻が心配すべきなのは、自分のことだった。

「まあ、まだ六月だもんな」

 と、廻は呟いた。

「もう六月も終わりだけどね」

 と、環は答える。今日の日付は六月二十九日だった。

「どうして六月って三十日までしか無いんだろうな」

 廻は誰にともなく恨み節を言った。六月が終われば七月になる。七月になれば編成テストがある。そうやって月日を重ねるうち、高校入試が訪れる。廻は時間が欲しかった。あるいは問題を先送りにしたかった。

「今年の夏は──」と、環は口を開いた。暦の話題が季節の話を連想させたのかもしれない、と廻は思った。「廻は忙しい?」

「まあ、忙しいと言えば」廻は頷く。「夏季講習もあるし、合宿も」

「そうだよね。千晴もそう言ってたし。遊びに行く暇はなさそうだって」

「どこか行きたいところでもあるの?」

 廻は聞いた。環はどちらかと言えば出不精で日曜も家に籠もってばかりいるけれど、それでも廻や飛鳥たちが誘えば一緒にどこか出かけることはあったし、彼女なりにそれを楽しんでいる様子もあった。

「そういうわけじゃ……ないんだけど」

 環は言った。その目線は本の文字の上に落とされたままで、器用だな、と廻は思う。

 沈黙の時間が戻ってきた。廻は手のひらを床に置いて体重を支えつつ、上半身をわずかに反らして空を見上げた。気が付くと雨脚は弱まって、雲には所々隙間が目立つようになっていた。

 雨が上がった。環は静かに本を閉じる。彼女はすっかり本を読み終わっていた。

 彼女は文庫本を鞄にしまい、代わりに財布を取り出した。水色の合皮に緑の糸で刺繍が施された、コンパクトな財布だった。彼女はその中から小銭を出す。

「お賽銭でもあげるの?」

 廻が尋ねると、環は頷いた。

「タダで雨宿りだけっていうのも、どうかと思って」

「それもそうか」と、廻は言った。「お賽銭の一つもあげないと、円谷さんにどやされるからな」

 廻も環にならって立ち上がり、スラックスのポケットから財布を出す。小銭入れを開くと、何枚かの硬貨がじゃらりと音を立てた。廻は一瞬迷ってから、一番額面の低い五円玉を取り出す。環の指に挟まれていたのは十円玉だった。環の方が二倍の御利益があるのだろうか、と廻は考える。

 二人並んで賽銭箱の前に立つ。わずかに水滴が庇から滴って廻の肩に落ちた。

「廻は知ってる?」

 小銭を投げながら、環は藪から棒に言った。二人の指先から離れた小銭が賽銭箱の角材に当たり、わずかに跳ねて箱の中に吸い込まれていった。

「知ってるって、何を?」

「この螺旋神社の噂。何百年に一回か、本当に願い事が叶う。不思議なことが起こる……って」

「不思議なことって?」

「それが分からないから、不思議なことなんでしょ」

 環は淡々と答えると、柔らかく目を瞑り、本殿に向かって小さく頭を下げた。廻の方も、それで話を終わりにした。

 廻はあまり信心深くなかった。こうやって賽銭を投げることはあっても、本当に願いが叶うなんて考えたことはない。

 環には叶えたい願いがあるのだろうか。目を瞑っている彼女の横顔を盗み見ながら、廻はそんなことを考える。それから廻は、自分の願いのことを考えた。

 廻は環と同じように目を瞑り、胸の前で合掌して、心の中で願いを呟いた。

 ──未来なんて、来ませんように。

 それから廻は目を開く。隣にいる環も目を開いていた。

「何お願いしてたの?」

 環は聞いてきた。

「別に、大したことじゃない」と、廻は誤魔化す。「そっちは?」

「私は──秘密」

 環はそう言って唇の前に人差し指を当てた。

 賽銭箱の前に立ち、廻は正面にある本殿を見た。観音開きの扉は閉ざされ、その奥には「ご神体」があると言われている。その「ご神体」には「神さま」が宿っているのだろうかと、廻は柄にも無いことを考えた。

 願い事が叶う。不思議なことが起こる。環が話していた与太話を廻は思い出す。もし本当に願いが叶うのだとしたら──。

 そこまで考えて廻は、馬鹿馬鹿しい、とかぶりを振った。

 廻が賽銭箱の前に突っ立っている間に、環は賽銭箱の前を離れ、鞄を手にしていた。彼女は廻の方を振り返る。

「帰ろう、廻」

「ああ……うん」

 廻は頷いて、リュックを背負い、水滴の付いた傘を手に取った。

 参道の石畳の上に出来た水溜まりが太陽の光を反射してきらめいていた。廻がスニーカーの底で水溜まりを踏むと、パシャリと水が跳ねた。

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