3-4

 ――今から七百年前、この地では疫病の元凶である妖狐退治が行われていた。


「ようやく見付けたぞ、妖怪め」

 深い森の奥、京から派遣された陰陽師と彼に付き従うサムライたちに追い詰められ、アタシはついに最期のときを迎えようとしていた。

 数か月の間に何百という刃を向けられ、何千という矢を射られ、全身傷だらけでもはや動くこともできない。神とて所詮は人間には敵わないのだ。信仰なくては神は無力なのだから。

 大樹の元で身を横たえ、天を仰ぐ。漆黒の夜空には星の輝きはなく、アタシを取り囲む人間たちのかがり火だけが残酷に辺りを照らしていた。妖怪と忌み嫌われた自分に相応しい最期ではないか。

「お前に殺された人々の恨み、思い知るがいい」

 アタシの頭上に立ったサムライが、刀を大きく振りかぶる。

 ――これで終わりか。

 自然と涙が流れていた。

 人々の願いを叶え、信仰を得ているうちに、いつから自分は妖怪とされたのか。

 初めは餌と引き換えに、貴重な薬草を探したり森を案内するだけのただの狐だった。やがて人々から神の遣いとして崇められるようになり、いつしか神そのものとなった。

 神は善悪を定めたりしない。対価さえあればどんな望みでも叶える。雨乞いのために、若い女性を火炙りにした人間たちもいた。不倫相手と結ばれるため、夫の死を願った人間もいた。

 アタシと彼らの違いはなんだったのだろうか。どうしてアタシは神になり、そして妖怪として果てるのだろう。

 全てが虚無感に呑まれ、振り下ろされる刃に消え失せようとした瞬間――。

「待て」

 首元でピタリと止まる切っ先。

 目を向けると、刀を振るったサムライの隣にもうひとりのサムライ。眼光は鋭く、でも落ち着いた重みのある声。

「なにも殺すことはなかろう。このような娘を手にかけたとあっては、末代までの恥ではないか?」

 すると、少し離れたところから別の甲高い声。

由良ゆらさん、これは異なことを申される。この者の見た目はいとけなくとも、我らより遥かに長く生きている化け狐に他なりませんぞ?」

 人々を扇動し、アタシを追い詰めた陰陽師だ。アタシは怨嗟の念で声の主を睨みつけた。

 すると、由良さんと呼ばれた男が私の視界を遮るように間に入り、言葉を返す。

「化け狐であるなら、なおのこと。人間が畜生を裁く道理などなかろう」

「詭弁ですな。ほれ、早くそこな妖怪を切り捨てなされ。再び疫病がこの地に広がってもよいのですかな?」

 ふたりの板挟みになって、刀を持ったサムライが困惑していた。

「我らの目的は疫病を止めることであろう? この者に誓わせればそれで済むことだ。おい、命令だ。刀をしまえ」

 由良に言われ、不承不承といった体で男が刀を納める。陰陽師は忌々しげにこちらを睨み、「どうなっても知りませんぞ」と捨て台詞を残して去っていった。

「あの、どうして……?」

 アタシは他の者が離れたのを見計らい、由良に尋ねた。

「涙を流す女を切り捨てることなど、できませんからな」

 そう言って苦笑いを浮かべる彼は、今まで出会ったどの人間とも異質に思えた。

「あの、お名前をお聞かせ願えませんか?」

 立ち去ろうとする由良の背中に慌てて声を掛ける。

「……新田義貞様にお仕えする由良具滋ゆらともしげと申します。申し訳ないが、某にできるのはここまで。あとはどうか、人間を恨まずにいてくださればと存じます」

「由良……具滋様……」

 それは冷たい夜空の下に晒され死を迎えようとするアタシに、初めて与えられた善意であった。願い事をされ、それを叶えるのとは違う。見返りを求めない慈しみの心。

 人間にもそういう者がいることを知って、胸が温かくなる。再びお会いしたいと、心からそう思った。


 ハッとして、辺りを見回す。

 深い森の中、しめ縄に囲われた空間。目の前には俯きがちに佇む由羅。少し離れた先に、地面にうずくまったままの篠塚。

 ――さっきのは何? 夢?

 今しがた自分が体験したように感じた鮮烈なイメージの意味が分からず、呆然と由羅を見つめる。あれは、彼女の記憶……?

「ふふ。おかしいでしょう? 名も無き妖狐に過ぎなかったアタシは、彼の名から由羅と名乗ることにしたのよ」

 由羅も同じものを見ていたのだろうか。そう言って寂しそうに笑う彼女は、どこか遠い目をしていた。

 由羅にそんな過去があったなんて知らなかった。彼女にとって由良具滋という侍はきっと特別な存在なのだろう。そこでふと思い当たることがあった。

「由羅。そういえば前、会いたい人がいるって言ってたけど……」

 おずおずと尋ねると、由羅は小さく頷いた。

「ええ。もう一度お会いしたい。アタシはあの後すぐ封印されてしまい、一度もお礼をできていないから」

「でっ、でも……」

 言い淀んでいるうちに、地面で苦しみもがいていた篠塚がおもむろに起き上がった。荒い息を吐き、口元には血が滲んでいる。

「由良具滋……。知っているぞ。たしか新田四天王のひとりにして、金ヶ崎の戦いで討ち取られた武将だな」

 それを聞いた途端、由羅が恐ろしい顔をして篠塚を睨みつけた。

「金ヶ崎?」

「知らなかったのか? なんにせよ、人間はそんなに長くは生きていない。お前だって分かっているだろう?」

「うるさい!」

 由羅が激昂し、まだふらついている篠塚に飛び掛かった。

「ちょっと、由羅。やめて」

 初めて感情を爆発させた由羅に恐怖を覚えつつも、必死にその背中を呼び止める。

 だが、その声は届かないまま、由羅の鋭く振り払った手が篠塚の首をね飛ばした。

「きゃあああぁっ!」

 思わず絶叫してしまう。

 首から上を失った篠塚は噴水のように血しぶきを上げながら地面に崩れ落ち、そのまま消えていった。……消えていった?

 気付いたときにはすでに遅く、由羅の背後に篠塚の姿があった。首はちゃんと繋がっていて、手にはナイフを握っている。

「由羅、逃げて!」

 私の声にハッと目を見開き、振り向きかけた由羅の背中に容赦なく突き立てられるナイフ。鮮やかな血が高く舞い上がり、彼女はまるでスローモーションのように地面に倒れ込んだ。

 ……永遠のような静寂。辺りには風もなく小鳥のさえずりもなく、まるで静止画のようにあらゆるものの動きが止まっていた。

「……嘘でしょ? 由羅」

 私は必死に駆け寄り、由羅を抱き起こす。

 彼女はかすかに息があるようだったが、虚ろな目からは光が消えかかっていた。

「油断したな。俺がもがき苦しんでいると思い込み、まんまと形代に騙されるとは」

 こちらを見下ろし冷たく吐き捨てる篠塚に対し、私はたまらず声を上げた。

「ねえ、なんで? 助けてよ。由羅を助けてよ。お願い」

 篠塚はタバコを取り出して火を付けながら、首を左右に振った。

「これが妖怪の定めだ。諦めろ。そいつが死ねばじきにお前も死ぬ。悪く思わないでくれ」

「……ふざけないでよ。あんたら大人はいつもそう。勝手に何が正しいかを決めつけて、私を追い立てて傷付ける。ねえ、私と由羅があんたに何したっていうのよ。私たちのことは放っておいてよ!」

 泣きながら絶叫していた。こんなのってない。あんまりだ。

 私は死んだっていい。もともと死ぬつもりだったし。だけど、由羅は違う。こんな終わり方でいいわけがない。いいわけがない!

 そこで脳裏にかつての記憶が蘇る。

 由羅が復讐を果たしてくれたとき、彼女が私の傷口を舐めたことを。私の血が欲しいと言っていたことを。

 考えている時間はなかった。

 私は自分の手首を思い切り噛んだ。

「おい、何してるんだっ?」

 異変に気付いた篠塚が後ろから両手を抑えてくる。

「離して!」

 私はかかとで篠塚のすねを蹴り上げ、彼がもんどり打っている間に由羅の顔を上げ、半開きになっている唇に自分の唇を押し当てた。そのまま、口の中に満たされた自分の血を彼女の口中に送り込む。

 ――お願い。目を覚まして。

 血が零れないよう唇を重ねたまま、必死に懇願する。

「諦めろと言っているだろうが」

 背後から髪の毛を引っ張られ、私は後ろに引きずり倒された。

 篠塚は恐ろしい形相でこちらを睨んだまま、未だ血の滴るナイフを向けてくる。

「俺は人間には手を出さない主義だが、妖怪退治の邪魔をするなら容赦せんぞ?」

「ひっ」

 目の血走った男に迫られて足が竦む。このままでは殺される。分かっていても、どうすることもできず目を瞑る。

「――容赦しないのはこっちよ」

 突然の声に目を開けると、篠塚の身体から炎があがっていた。

「ぐあああああっ?」

 篠塚は火のついた上着を脱ぎ棄て、地面に転がって必死に火を消そうとする。

 何が起こったのか分からず顔を上げると、全身赤い光に包まれた由羅が冷たい表情を浮かべて彼を見下していた。

 よかった。間に合ったのだ。

 だが、由羅はそれで収まらない。

 どうにか火を消して起き上がろうとする篠塚の髪を掴んで無理やり起こすと、そのままみぞおちに拳を入れる。地面に吐きながらうずくまる彼を蹴り飛ばし、転がった先に回り込んで右手を踏みつける。

「ぎゃぁあああ!」

 他に誰もいない空間に篠塚の悲鳴がこだまする。

 由羅は私の復讐のときとは比べ物にならないくらい残忍性を増していた。血の量が多かったのか感情的になっているのか分からないが、とにかく無表情のまま一方的に篠塚を虐げている。

 このままでは死んでしまう。

 ようやく気付き、私は慌てて由羅を引き留める。

「由羅、もうやめて!」

「どうして?」

 まだ感情が抑えられないらしく、由羅が赤く輝く目を見開いたままこちらを振り向いた。

 ――怖い。でも、このままじゃダメだ。

「由羅、もしここでそいつを殺したら、あなたを殺そうとした陰陽師と同じだよ。彼を助けてあげて。お願い」

 由羅はしばらくこちらを見つめた後、ゆっくりと視線を地面に移した。彼女の足元には、ボロ雑巾のようになった篠塚の姿があった。とっくに意識を失っているらしく、白目をむいて口から泡を吹いている。

「お願い。もうやめて」

 由羅の背に触れもう一度言うと、ようやく彼女はいつも通りの柔和な顔に戻って小首を傾げて見せた。

「……茜がそう望むなら」

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