第19話

 淺井が病室へ現れたのは、九時半を過ぎた頃だった。草臥れた様子のスーツは仕事で詰めている最中なのか、今頃になってようやく他の事件に回されていたことを思い出した。


「ごめんなさい、まだお仕事中だったんじゃないですか」

「いえ、帰ってるとこだったんで」


 それなら尚更、手間だったのではないだろうか。浅黒い顔に散らばる疲れを見過ごせず、長椅子を勧める。また断られるかと思ったが、煙草を吹かしてこなかったのか素直に応えて座った。


「体調は、どうですか」

「おかげさまで良くなって、明日には退院できる予定なんです。でも今日のことが少し響いてしまったみたいで、まだ分からなくて」


 俯いた私に、淺井は少し抑えた声で詫びる。


「ああ、いえ、いいんです。仕方ないことですから」

 慌てて答え、頭を横へ振る。子供の状況が退院を左右するのは致し方ないことだ。流石にそこまで考慮しろと求めるつもりはない。


「あの、任意同行って、こんなに長く拘束されるものなんですか」

 控えめに尋ねながら視線を上げる。


「それは状況によりますから、なんとも」

 淺井は申し訳なさそうな表情で答え、ぎこちなく口元をさすった。


「このまま自白するまで帰さないとか、そういうことなんですか」

「捜査の内容はお話できないんです。私はもう外れていますし」

「幸哉さんが連れて行かれたのは、夫が不利になるようなことを言ったからでしょうか」

「それも、私にはなんとも」


 予想通りの手応えのなさに、思わず溜め息が漏れる。俯き顔を覆う向こうで、また詫びが聞こえた。こんな夜に呼び出されて分かりきったことを尋ねられて、貧乏くじを引いたと思っているだろう。それでも律儀に受け止める辺り、幸哉が気に入っていた理由も分かる気がした。でもそれだけでは助けられないのだ。


「浅井さんも、幸哉さんを疑ってるんですか。刑事としてではなく、個人的な意見を聞きたいんです」

 これまで通りの答えを先に塞ぐと、淺井は明らかに惑う様子で口元をさする。


「今は、個人的な意見を話せる状況ではないので」

 かわしはしたが、口調は鈍かった。見据えると少し遅れて視線を伏せる。張り出た眉弓の下を影が覆った。


「このまま、幸哉さんのいない状況で夫が帰って来たら、どうなるか分からなくて怖いんです」

 暗鬱な予感を口にすると、淺井はまた視線を合わす。


「入院した日は、痛みで目が覚めてすぐ隣の夫を起こしました。でも夫は何も、見ているだけで救急車を呼ぼうとしようとしませんでした。大声を出して幸哉さんが気づいてくれなければ、助からなかったかもしれません。夫は見捨てるつもりはなかったと言っていました。でも本当かどうか分かりません」

「ご実家に戻られるのは」

「父は、葬儀の時に夫が任意同行されるのを見て憔悴しきってるんです。幸哉さんもとは、とても」


 ようやく安堵させられそうなところまで来たのに、これでは元の木阿弥だ。寧ろもっと悪いかもしれない。今朝現れた父親の表情を思い出して、唇を噛んだ。


「夫は平気で私を殴りますが、幸哉さんは一度も。声を荒くしたこともありません。多分、誰に対してもそうなんじゃないでしょうか。あの人はきっと、誰かを死ぬほど好きになることもないかわりに、死ぬほど憎むこともないんです」

 事故の影響は当然あるだろうが、事故が大きく変えたわけではない。幸哉は昔から世の中だの愛だの、そういったものは何も信じていないように見えた。


「夫が殺したかどうかは、私には分かりません。でも警察に何を言われて帰って来るのか分からない今は、二人きりになるのが怖いんです。ストレスのはけ口にされてしまったら、次はもう、私一人ではこの子を守れないかもしれない」

 夫への恐怖を口にするのは初めてかもしれない。幸哉にはもちろん、父親にも言えずごまかしてきた。身近な人に打ち明ければ、縺れて身動きができなくなる。でも部外者に打ち明けるといっても、こんな重い話を誰が受け止めてくれるのか分からなかった。淺井は多分、ちょうどいい距離の相手なのだろう。


 手の震えを落ち着けるように腹を撫でて一息つく。視線を擡げ、無言でこちらを見据える視線に合わせた。


「お願いです、助けてください。もう淺井さんしか、頼れる人がいないんです」

 少し揺れた願いをどう受け止めたのか、淺井は判別できない溜め息と共に顔をさする。手の内に表情を隠したまま、暫く何かを考え込んでいた。


 やがて仕切り直すような息と共に手を下ろす。現れた表情は、何かを諦めたようにも見えるものだった。


「私の裁量で帰す帰さないを決める、というのはできません。担当からは外れてますし、必要があって行われていることなので」

 予想はしていたが、落胆は隠せない。俯く私を、ただ、と落ち着いた声が追った。


「あなたの身柄は保護します。警察としてではなく、私個人の判断ですが」

 告げられた判断にやおら顔を上げる。淺井は苦笑で応え、長い息を吐いた。


「恐らく、ご主人は逮捕されず一度帰されると思います。一緒にはいない方がいい」

 私には分からない「何か」を含んだ結論に、じっと見据える。淺井は何かを話し掛けて呑み、ごまかすように口元をさすった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る