「第1章 灰色のフィルターがかかったような毎日」 (5)

(5)


 マンションに帰るまでにソウからDMが届くかも知れない。日向は密かに期待していた。しかし、彼女からの連絡はなかった。


 流石に別れた直後で一々、連絡はして来ないか。

 大体、今すぐ送らなくても夜になったらチャットで会える。今日はもう充分に会話をした。こちらから送るなんて失礼だ。


 ソウに連絡をしない理由を自分の中で正当化して乗車時間を過ごした。最寄り駅を降りてどこも寄り道をせず、マンションまで辿り着く。部屋に帰って手洗い・うがいを済ませると、ベッドにボスンっと音を立てて倒れ込む。


 しばらくうつ伏せになっていたが、仰向けに体勢を変えて天井を見上げる。上京したばかりの時は、見慣れなかったこの天井もすっかり見慣れた。人は簡単に環境に適応していく生き物なのだ。

 そんな事を考えながら今日の疲れをベッドに落とすように全体重を預けていると、着たままだった上着のポケットが振動した。誰からなんて考えるまでもない。


 日向は反射的に体を起こして、ポケットに手を突っ込み、iPhoneを手に取る。ロック画面を解除してホワイトカプセル・サテライトを起動。


 【ダイレクトメッセージが届いています!】のポップアップが表示される。


 ソウ:『今、家に着きました。今日は楽しかったね、また一緒に遊ぼう。買った本の感想、楽しみにしてます』


 簡単な文章だったが、まだ非日常が続いている気がして日向は嬉しかった。彼は早速、返信を書く。


 とうふ:『俺も楽しかったです。読んだ本の感想はすぐに送ります』


 ソウ:『うん。じゃあ、また夜に』


 短いメッセージのやり取りを交わしてDMは終わった。やり取りを終えて、再びベッドに倒れ込みたい欲求を我慢して、日向はベッドから立ち上がり台所へ。


 戸棚からマグカップを取り出してペーパードリップのコーヒーを準備を始めた。

 まずケトルに水を入れてお湯を沸かす。

 しばらくして、ケトルがカチっと音を立ててお湯が沸き上がると準備していたペーパードリップへお湯を注いだ。

 コポコポと音を立てて注がれるお湯がコーヒーへ変換されていく。台所へコーヒーの良い香りが充満していく。その香りを楽しみながら、冷蔵庫からミルクを取り出して、少々コーヒーに足した。

 出来上がったコーヒーをこぼさないように慎重にデスクまで運ぶ。


 イスに腰掛けて、コーヒーに口を付ける。慣れ親しんだ味が口内に広がった。


「ふぅ」


 眠りかけていた意識は完全に覚醒した。日向は上着を脱いでクローゼットに掛ける。今はテレビも点けない。コーヒーを丁寧に飲んで体に浸透させた。半分ほど減ってから、初めて彼はMacBook Airの電源を点けた。


 MacBook Airを操作して適当にインターネットを巡回する。このサイト、新宿御苑でも開いたな。開いたサイトを見て、思わず笑ってしまう。


 イヤホンで音楽を聴きながら過ごしていたが、やがて夕食を考えるようになった。自炊する程の体力は残っていない。


 残ったコーヒーを全て飲み干してマグカップを台所へ置くと、上着を再び羽織り、ベッド横に置いていたトートバッグから財布と鍵だけ取り出す。


 玄関を出て鍵を閉めてエレベーターを待つ。その間、iPhoneを取り出してイヤホンを挿す。ミュージックアプリで音楽を聴きつつ、アプリをチェックしたがソウからDMは届いていなかった。到着したエレベーターの音に反応してiPhoneをしまった日向は、目的地の弁当屋へと向かった。


 土曜日の夜。平日よりほんの少しだけ混んでいる弁当屋で焼肉弁当を注文。弁当を待っている間もDMを確認していたが連絡はない。最後の文面から、もう向こうから来ない事は分かっているのにチェックするのが癖になってしまっている。


 変に癖付けちゃダメだ。自分に言い聞かせて、日向はイヤホンから流れる音楽の音量を一段階上げた。


 受け取った焼肉弁当を持ってマンションへ帰り、テレビを流しながら弁当を食べる。オムライスを食べてから、時間が経過していたので思ったより食欲があった。


 食べ終わり容器を捨てると、それから二十三時までの時間をいつもの様に過ごした。大学の講義から帰って来た一日と変わらない過ごし方だった。


 寝支度まで整えて二十三時を迎える。


 今日もホワイトカプセル・サテライトが使える時間がやってきた。ここからは日向ではなく、“とうふ”としてログインする。チャットルームに入ると左のサイドバーに現在いるメンバーが表示される。ビキ一人だけだった。ソウともう一人は、まだ来ていないようだ。


 ビキ:『とうふさん、こんばんは。良かったぁ、今日は私一人だけかと思っちゃいました。誰もいないんだもん』


 とうふ:『こんばんはです、ビキさん。あれ? あとの二人はいないんだ』


 ビキ:『みたいです』


 もう一人がいないのは分かる。元々いない日が度々あるからだ。更にその相手は、無口なので誰もアクションを起こさない。それは一つの事柄としてこのチャットルームでは確立している。


 しかし、ソウがいないのは、引っ掛かった。


 ビキ:『とうふさん、ソウさんから何か聞いています? あと、一応ポーさんからも』


 とうふ:『いや、聞いていないですね。あ、勿論二人からですよ』


 まさか数時間前までソウとオフで会っていたとは言えない日向。知らないふりをして平然とやり過ごす。


 ビキ:『やっぱり土曜日だから突発的な用事が出来ちゃったかな? それならしょうがないですけどね』


 とうふ:『ですね、こればっかりはしょうがないですよ』


 ビキ:『あ、言っとくけど私は別に暇って訳じゃないですよ。明日は、友達と映画に行くんですから。今日は最後まではいられません。早目にログアウト予定です』


 とうふ:『了解でーす』


 二人してやり取りを続ける。これまでも二人の時、または一人だけで、すぐに出て行った日も何回かあった。その為、ビキはいつもと変わらずメッセージを書いてくる。日向はそれに合わせて返しつつもソウの事を考えていた。


 DMではまた夜にという言葉で終わっている。っという事は、単に寝落ちでもしたか、体調を崩していなければいいけど。そう彼が心配していると、サイドバーに表示されていたソウの状態が変わる。


 ソウ:『すいません! 電話してて遅れました!』


 ビキ:『ソウさん! こんばんはー! きてくれて嬉しいです』


 ログインしてきたソウに安堵する日向。電話をして遅れたとの事だが、相手は今日ずっとやり取りをしていたあの人物なのだろうと思った。


 ビキとソウのやり取りを見ながら、日向が止まっていると、ビキが『とうふさん? どうしました』と聞いてきた。


 とうふ:『ちょっとお手洗いに行ってました』


 ビキ:『え〜、このタイミングで?』


 ソウ:『まあまあ』


 チャット内はいつもの流れとなる。様々な話題が進んでいき、時間は零時を過ぎていた。


 ビキ:『すいません、私明日早いのでココで失礼します』


 ソウ:『そうなんだ』


 とうふ:『映画を観に行くって言ってましたね』


 ビキ:『そうそう。観て来たらここに感想書きますよ。それでは、おやすみなさい』


 とうふ:『おやすみなさい』


 ソウ:『おやすみなさい』


 二人がビキに挨拶をすると、彼女がチャットから姿を消した。残ったのは、日向とソウの二人だけになる。二人だけチャットをする事は今までに何度もあるのに相手がソウだと緊張してしまう。


 何か話題を……、でも流石に今日出掛けた話は止めた方がいいよな。ログは残る訳だし……。様々な思考が頭を巡る中、ソウから書き込みがされた。


 ソウ:『ビキさんもいなくなったし。多分、ポーさんは来ないと思うから。今日はちょっと早いけど、ここでお開きにしちゃおうか』


 とうふ:『はい、分かりました』


 ソウにお開きにするかと言われたら、断る事なんて出来なかった。


 ソウ:『じゃあまたね。おやすみなさい』


 とうふ:『はい。おやすみなさい』


 ソウがチャットルームからいなくなった。これで残ったのは日向一人。


 iPhone右上のタイマーにはまだ余裕がある。だけど誰もいない。小学生の頃、友達が家に遊びにきて帰った後のような寂しさを感じた。


 少しだけ誰もいないチャットルームに留まって、日向はログアウトした。


「ふぅ」


 アプリからログアウトしてため息を吐く。明日は日曜日。大学はないし、このまま寝るのは勿体ない。文庫本でも読もう。そう思って、彼は読みかけの文庫本を開いた。


 文庫本のページを捲って物語の世界に浸る。


 アプリからログアウトしてから二十分程経過した時、iPhoneが振動した。日向はアプリを起動する。ソウからDMが届いていた。


 ソウ:『今日は沢山あって疲れたと思うから。早く寝るように』


 とうふ:『分かりました。ソウさんも夜更かしはなしでお願いします』


 ソウ:『はーい』


 ソウからの返信を見て日向は微笑む。

 そして彼女の言いつけ通りにもう眠る事にした。電気を消してベッドに移動する。横になり日曜日なのもあるので今夜はアラームを点けず、そのまま目をつむった。


 昨夜、明日の今頃は、どんな気持ちでいるんだろうと考えていた。日向は昨夜の自分に大丈夫だよと教えてあげたかった。

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