第4話 1年目 その4

 わざわざ道を引き返し、もう1度階段前の段ボール箱に蹴りを入れた後、男は自分が赤ん坊に食事を与えに行くのにかかわらず、手ぶらであることに気づき、赤ん坊用のミルクを用意するため、キッチンのある1階に戻った。防災用カセットコンロで沸かしたやかんの湯を、耐熱性の哺乳瓶に注ぎ、瓶の中身をスプーンでぐるぐるとかき回し、底の方にたまっているミルクの粉を全体に広げていく。男はこの手の仕事はあまり好きではなかった。さっさと終わらせて帰ろうと思いながらも、彼は自分と赤ん坊とのしがらみが始まるきっかけとなったある夜の出来事を思い出し、上の空になりかけていた。

 その事件は、赤ん坊の母親が亡くなってから1か月あまり経った頃に起こったものだった。男が自室で晩酌していると、当時はまだ存命だった下働きの者が飛んできて、男に赤ん坊の容態の急変を伝えた。この下働きの者によれば、先程まですやすやと健やかに眠っていた赤ん坊が、何の前触れもなく、突然ひきつけを起こして苦しみはじめたという。異常な高熱もあるということだったので、男は急いで赤ん坊のもとに駆けつけ、その病状を確認すると、敷地内の備蓄倉庫まで行って必死に解熱剤の箱を探した。もともとこの倉庫には電灯がついていたのだが、移住計画の時に全て持って行かれてしまい、このときは、倉庫の中は、もう夜になれば真っ暗で、頼りにできるのは、手元にある小さなろうそくだけだった。男は薬の箱を1時間以上探し回ったが、結局見つからずじまいだった。

 彼が戻った頃には、赤ん坊は苦しむ余力もなくぐったりと横たわっていた。幸い、下働きの者の手厚い看病によって命は助かり、その後1日もしないで危険な状態からは回復したが、男はこの日から赤ん坊に、何か守ってやれなかったという引け目のようなものを感じるようになってしまった。


 その夜の発熱以来、赤ん坊は明らかに様子がおかしくなってしまった。前は4つん這いであちこち動き回っていたのが、ただ黙ってその場に寝転んでいるだけになり、玩具や回りの者の働きかけにも反応を示さなくなった。どんなに頑張ってあやしてもかつてのように笑うことはなく、ただ断続的にか細い泣き声を上げるだけだった。男が赤ん坊の変化に戸惑っている間に、優秀だった例の下働きの者が、突如原因不明の病に倒れ、亡くなってしまった。今思うと霧の被害だったような気がする。


 男は途方に暮れた。子ども嫌いの自分にどうやって赤ん坊を1人で育てろというのだろうか。下働きの者と2人でもなかなか上手くいかなかったというのに…。何度も赤ん坊の世話をほっぽり出して逃げようかと思ったが、この子どもが病気持ちになってしまったのは自分のせいだという罪の意識もあり、それが男の決断を鈍らせた。


――ああ、俺の人生はもう終わったんだな。


 彼のもとに残っていたのは、彼がどんな働きかけをしても無関心な赤ん坊と、上の者たちが辛うじて奪わずに残してくれた僅かばかりの蓄えと、見捨てられたことによる、いかんともしがたい心の空虚さだけだった。とりあえず今日はあのちびにミルクだけやって、それからさっさと戸締まりして寝よう…。そう思って手に取った哺乳瓶の中の、お湯で溶いて液体化した粉ミルクは、既に冷えて甘い水になっていた。男は、また余計な手間が増えてしまったと大きなため息をついて、新しいミルクを用意するために離れの防災倉庫へと歩いていった。夕暮れの町の冬は、まだまだ長い。 あの様子では、あの赤ん坊は冬を越えられないだろう、と男は思った。そうなれば、今度こそ、俺は自由になれる。

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